アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第7章 ヨーガとサーンキャの思想 ⑥ 古典的サーンキャ哲学の体系

2017年12月16日 11時41分30秒 | 第7章 ヨーガとサーンキャの思想
 本稿でも、中村元氏(以下、著者)の『ヨーガとサーンキャの思想』(以下、同書)を引用しながら古典的サーンキャ哲学の体系を明らかにしていきたい。尚、本ブログPartI第17章②においても、「ヨーガとサーンキャ哲学」と題して、佐保田鶴治先生の『詳説 ヨーガスートラ』の内容を解説しているので、興味の有る方はそちらとも比較してみて頂きたい。

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 古典的サーンキャ哲学の体系においては、ウパニシャッドの哲人ウッダーラカの思想を批評的に改革して、唯一なる<有>(sat)の代わりに、二つの実体的原理を想定した。その二つとは、「純粋精神」と「根本原質」(根本的質料因)とであるが、どちらも永久に実在するものである。一つは精神的原理としての純粋精神であり、プルシャ(神我)と名づけられ、アートマンとも呼ばれる。これに対して他の物質的原理は根本原質(プラクリティまたはプラダーナ)であるが、これは現象世界の開展の原理となるから未開展者(アヴィヤクタ、非変異)とも呼ばれる。
 純粋精神は実体としての個我であり、原子大で、多数存在し、その本質は知または思(チット)であるという。それはなんらの活動を行うことなく、ただ根本原質を観照するだけであるから、非活動者ともいわれる。それ自体は常住不変で純粋清浄であり、生も死も輪廻も解脱もすべて純粋精神そのものには本質的な関係はない。
 これに対して根本原質は根本的な質量因である。本来物質的で活動性を固有し、純質(サットヴァ)・激質(ラジャス)・翳質(タマス)という三つの構成要素(トリグナ、三徳)よりなっている。これら三つの構成要素が相互の平衡しているときには静止的状態にあるが、純粋精神の観照を機会因として激質の活動が起こると、根本原質の平衡状態が破れて開展(パリナーマ、転変)が開始される。その際に根本原質から最初に生じるものを根源的思惟機能(ブッディ、覚、統覚機能)または大なるもの(マハット)と呼ぶ。これは確認の作用(決知)を本質としているものであり、精神的な作用のもととなるが、しかし純物質的なもので、身体の中の一器官である。
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 以上の中で、読者諸賢が最も抵抗を感じると思われる部分は、最後に根源的思惟機能であるブッディ、言葉を換えれば知性と言っても良いと思うのであるが、これが「純物質的なもので、身体の中の一器官である」とされている点ではないだろうか? 常識的に考えれば、知性が物質であるなどと言うことは全く考えられないのであるが、良く考えて見ると、知性は間違うこともあり、それが「アートマン」或いは「プルシャ」であるということはあり得ないので、プルシャ以外の全てを「プラクリティ」とし、それが質量因すなわち物質であるとする立場からすれば、理論的に間違ってはいないことになる。
 更に、仏教では「五蘊無我」というが、この五蘊は人間を構成する、色、受、想、行、識を意味するものであるから、当然ながら我々の知性もこの五蘊に含まれ、これを無我即ち「アートマン」ではないとする立場からも間違ってはいないことになる。
 
 引用を続ける。

◇◇◇
 次に、この根源的思惟機能がその中に含まれている激質によってさらに開展を起し、その結果として自我意識(アハンカーラ、我慢)を生じる。これもやはり純物質的な一器官であり、三つの構成要素よりなるが、自己への執着(我執)を特質とするものである。これあるがゆえに、人は常に「われがなす。このものはわれに属する。これがわれである」といって、自己本位の見解を懐いている。自我意識はかならず元来物質的な根源的思惟機能を自我なりと誤想し、根源的思惟機能と純粋精神とを同一視するものである。このような自己中心的な自我意識の誤想が我々の輪廻を成立させる基となっている。
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 この自我意識こそが「悟り」の妨げとなるということは、色々な宗教でも言われており、これがブッディ(知性)よりも、プルシャから更に遠く位置していることは感覚的にも納得して頂けるものと思う。また、この開展が激質によってもたらされるということも説得力がある理論だと筆者は考えている。

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 次に、その自我意識から、その中にある激質の力によって二種類の創造がなされる。一方では十一の器官(眼・耳・鼻・舌・身という五つの感覚器官と、発声器官・手・足・排泄器官・生殖器官という五つの行動器官と意)が生じ、他方では五つの対象領域の微細要素(タンマートラ、唯)が生じ、後者から五元素が生じる。(声唯→空大、蝕唯→風大、色唯→火大、味唯→水大、香唯→地大)。
 以上列記した諸原理(タットヴァ)を合わせて「二十五の原理」(二十五諦)と称する。
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 上記からすると、感覚器官が先にあって、そこから感覚の対象となる微細要素(例えば匂い)が生じ、それから五大元素が生じることになっており、我々の唯物論的な常識からすると、些か抵抗を感じる部分ではある。
 参考までに、上記と全く同じではないが、バガヴァッド・ギーターにおいて対応している個所を引用しておく。上村勝彦氏の訳による。第13章から。

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・五種の元素、自我意識(アハンカーラ)、思惟機能(ブッディ)、非顕現のもの(プラクリティ)、十の感官と一(思考)器官、五の感官の対象、
・欲求、憎悪、苦楽(身体的部分の)集合、意識、堅固(充足)以上「土地」(筆者註:プラクリティを指すと思われる)とその変異が簡潔に説かれた。
◇◇◇

 引用を続ける。

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 この開展の次第から明らかなように、人間の感覚・知覚・思考・意欲などの所作用は物質に属するのであって精神に属するのではない。純粋精神はただそれらを照らして意識させるだけなのである。精神には道徳的な責任がない。微細身が道徳的な責任を負う主体なのである。
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 ここでは、我々が一般的に考えている「精神」というのは、あくまでも微細身であって、それが道徳的な責任を負うのだと言っている。更に付言すれば、その微細身がプルシャを伴って、輪廻の主体になるのだということになるが、これは次に詳しく説明される。

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 さて、純粋精神は本来、純粋清浄なものであるけれども、物質(筆者註:即ち微細身)によって制されているがゆえに、この生存が苦しみとなっているのである。すなわち、純粋精神が根本原質を観照して物質と結合しているあいだは輪廻が存する。根源的思惟機能・自我意識・五つの微細要素(タンマートラ)によって微細身が形成され、肉体が滅びた後にも永続的に存在し、輪廻の主体となる。ゆえにこの輪廻の生存から離脱するためには、特別の修行を行って純粋精神を汚れから清め、その純粋清浄な本性が現れるようにしなければならない。解脱の直接の原因は知である。その知について、外的な知すなわちヴェーダ聖典の知識と内的な知すなわち純粋精神の知とを区別しているが、特に解脱をもたらすものは後者である。解脱のための知を得る補助的方法としてはヨーガの修行を勧めている。修行によって純粋精神の知が完成されたときに解脱が起こるのであるが、その解脱も根本質量因のほうに起こるのであって、純粋精神それ自体にはなんの変化もない。
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 この最後の「その解脱も根本質量因のほうに起こる」との部分であるが、確かに純粋精神が変化することはないとすれば、解脱が根本質量因に起こるとしか考えようはないと思う。しかし、その際根本質量因はどのように変化するのかということまで、著者は書いていない。

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 しかるに解脱した人も、そこでただちに死ぬのではない。現生の寿命は前世の業の潜勢力によって先天的に定まっているから、その寿命の尽きるときまで生存を続け、寿命の尽きたときに初めて死ぬのである。解脱してもなお生存しつづけている状態を生前解脱(ジーヴァンムクタ)といい、死後に二元が完全に分離することを離身解脱(ヴィデハムクタ)と称する。ここで純粋精神は独存(カイヴァリヤ)となり、本来固有の純粋精神性を発揮する。
 実在するものはこの二元だけであり、世界創造神とか主宰神というようなものを想定しなかった。
 なお、サーンキャ哲学と呼ばれるもののうちには、神の存在を巡って二種類あった。
(1) 有神論的サーンキャ。これは古くからサーンキャヨーガと呼ばれるものであった。
(2) 無神論的サーンキャ。イーシヴァラクリシュナの著した『サーンキャ詩』はその代表的古典である。
 サーンキャ哲学の特徴は、人間の心が完全ん位独立であるということを主張し、それに関する問題を合理的思惟にたよって解決しようと試みたことである。合理主義、批判主義ということは、サーンキャ哲学の大きな特徴である。・・・
◇◇◇

 仏教でも、生前解脱を有余依涅槃、死後の解脱を無余依涅槃と呼ぶので、この点においても仏教との間に隔たりはない。ただ、この有神論・無神論の議論は非常に大きな問題であり、何故仏教が無神論を主張しているかの説明を含め、いずれ次章の「原始仏教」で取り上げたいと思っている。
 

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