アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第9章 2012年に備える ⑩六波羅密

2010-05-16 05:25:43 | 第9章 2012年に備える
⑩ 六波羅蜜

六波羅蜜という言葉を聞いたことがある読者の方もおられるかと思う。これは一般的には、仏教において彼岸(悟り、或いはアセンションのことか)に至る為の、六つの行であるとされている。筆者は仏教を詳しく学んだ訳ではないが、筆者がこれまで書物を通じて学んだ知識から、それらを箇条書きにして簡単に纏めると(筆者流の解釈も含まれているが)、
 「布施」:他人に物や仏法を施すこと。特に後者を法施と呼び、最も尊いとされる。
 「持戒」:戒律を守ること。仏教では姦淫や肉食・飲酒はご法度だったようである。
 「忍辱」:ニンニクと読む。文字通り、娑婆の苦しみ等に耐え忍ぶこと。
 「精進」:人間性向上に向けての努力。
 「禅定」:座禅や瞑想などによる精神統一。
 「智慧」:悟りの境地に至り、本源的な智慧を発現すること。

以上を、筆者がこれまでにこのブログで書いてきた内容と比べて見ると、ドンピシャとまでは行かないまでも、重なっている部分がかなり多いことに、実は筆者自身も驚いている。以下、これまでの復習も兼ねて、一つひとつ検証してみたい。

先ずは「布施」であるが、筆者は本章の④節、「ハイアーセルフとの対話」において、船井幸雄氏の『生きる!!』(書籍A)から、「良心とは何かと云えば、“他者への愛を主張し、ときにはそのために自己犠牲をもいとわない人間としての真の心”です。」との文章を引用している通りである。即ち、自分と他者を切り離して考えている限り(即ち、第7章⑤節において坂本政道氏の『アセンションの鍵』から引用した「第三密度的な信念」或いは、「自我(エゴ)、即ち自分と他者を切り離す考え方」)布施或いは自己犠牲といった行為はなかなか行うことはできない。そういう意味からも、人に何かを施す行為は、第三密度を超えて、自分と他人が実は一体であるという第四密度的な考えから発する行為と云えよう。

次は「持戒」であるが、昔の仏教の戒律と現在の法律や道徳観念は異なるのだろうから、簡単には比較できないが、「良心に基づく行為」という言葉に置き換えて見てはどうだろうか。再度、本章の④節における書籍Aからの引用を繰り返すことになるが、「これまでの社会は、良心を貫くことよりも、上手に立ち回ることでうまくいくケースが少なくなく、必然的にそうしたテクニックに長けた人間が得をしてしまう時代でした。しかしこうした時代はもう終わりになると思います。時代はエゴ中心から、“自他同然”の開放系へあきらかに移行しはじめていると思えるからです。ですから、今後は良心に従う生き方の重要性、必要性が見直されるようになるでしょう。」と船井幸雄氏が主張している内容は、広い意味で「持戒」と重なっていることが判ると思う。
そしてもう一点。昔は肉食や飲酒が(特に僧侶にとって)御法度だったので、「持戒」とだけ云えば、当然肉食や飲酒を断つこともその内に含まれたが、現代に於いて肉食・飲酒は普通の食事であり、良心に反する行為とは云えないであろう。今にして思えば、本章⑤「第四密度の肉体を作る」に於いてこれらを戒めるべきこととして章を改めて説明したことに就いてはそれなりの意味が有ったのである。

次は「忍辱」である。但し、これはどんな理不尽や屈辱に就いても闇雲に耐えなければならないと云う意味では無いと筆者は思っている。というもの、唯耐えるだけであるなら、それはトラウマという形で無意識の中に残ってしまい、アセンションを阻害する要因になるからである。このような理不尽等に対する感情に対処する際には、その原因に遡って考えてみる必要がある。
先ずは、どうしてそのような局面に遭遇したのかを子細に検討する必要がある。というのも、嘗てこのブログで引用したバシャールの言葉通り、全ての局面・経験は自分に偶然降り掛かってくるのではなく、自分を通じて起こるからである。即ち、自分の波動がそれを引寄せているのだと先ずは認識し、そういった事象を引き寄せる原因を自分の中に捜すことから始めるべきであろう。するとその原因は自分の中にあるエゴや不調和が元になっている傾向があることに気付く場合が多いと思う。例えば、自分の意識の中に、自分さえ良ければいいと云った誤った観念が有ったことが原因であるならば、その事件は、自分の誤った観念を気付かせる為に生じた訳なので、それを反省し、自分の人間性を向上させる為に起こったという整理ができるのである。そのように自分の中の感情を整理することができれば、本章⑥節「自分自身を癒す」で記述した通り、それは自分自身のトラウマの解消に繋がり、意識の統合が図れることから自分の振動数をより高めることができることになる。
  
「精進」は人間性向上への努力である。そういう意味では「持戒」で引用した通り、良心に基づいて行動することが基本であるが、「持戒」に於いては法律や社会規範、道徳、倫理を守るというやや消極的な側面が強いのに対し、精進は積極的に善を為すという側面が強いと思って頂ければ良い。かならずしも比喩として適切かどうかは判らないが、自動車を運転するとき、交通違反をしないように心掛けるのが持戒だとすれば、自動車を燃費の良いものに買い替えて地球環境に貢献する、或いは交差点で反対車線の右折車が、後続の車を多く待たせ渋滞になっていることに気付いた場合には、速度を緩めて右折車に道を譲り、道路の流れを良くするといった親切心も精進なのであろう。出典は失念したが、確か仏教の言葉に有った、諸悪莫作(諸々の悪いことをしてはいけない)が持戒であり、衆善奉行(多くの良い行いをしなさい)が精進であろう。繰り返しになるが、いずれにせよポイントは良心(ハイアーセルフ)に従って行動すること、そして全体との調和を心掛けることである。

「禅定」はズバリ瞑想のことであり、云うまでもなく、これもハイアーセルフとの対話(本章④節)である。この瞑想の方法に就いては、必ずこの方法でなければいけないという事は恐らく無いはずであり、各自がそれぞれ自分に適した方法を見付ければ良いのだと思う。筆者もこれまでにいろいろと試してみたが、どうやら自分には、ヘミシンクが適しているように思う。
但し、ここで御留意願いたいのは、ヘミシンクと云うと、「体外離脱を経験する為の瞑想法」だと思っている方が多いようだが、筆者の場合、ヘミシンクは必ずしもそれが目的では無いという点である。無論体外離脱を経験して、そこで地上ではとても出来ないような体験をすることで、その後の人生観が変わったり、魂が永遠であるとの確信に至ったり人も居るとは思う。それはそれで尊い経験であることに間違いは無いと思うので、それを一概に否定するつもりは無いが、筆者は仮に体外離脱を経験出来なくとも、ヘミシンクは瞑想の「手段」として極めて優れた方法だと思っている。但し、これは筆者が未だに体外離脱を経験していないから負け惜しみで云っている訳では無いことを予めお断りしておく。尤もいずれ筆者も体外離脱、或いはクンダリーニ昇華を体験し、このブログでその時の様子を紹介することになるかも知れないが・・・
それでは瞑想によって何を得るのであろうか。或いは、言葉を換えて、瞑想の目的とは一体何なのであろうか。筆者が考える目的のその一は、「自分自身を癒す」(本章⑥節)ことである。ヘミシンクでフォーカス10の状態に入ると、どうやら自分の潜在意識に繋がり易くなるようである。すると、そこで忘れていた過去の事件やその記憶と共に潜在意識に残っていた感情が次々に湧きでてくるのである。これらは、ある意味で、自分の意識の中に作られた壁の内側に普段はしまいこまれていて、通常は意識の表面に出てこないが、それらの隠された感情がトラウマ或いはしこりとなって、自由な心の動きを妨げている可能性がある。そうした隠された感情を、既述の通り、整理して行く(トラウマの解消も含まれる)のに、ヘミシンクは最適だと思う(因みに筆者が過去の経験と感情を整理する際には「リリースとリチャージ」というCDを使用している)。
もう一つの(或いは他にももっと目的があるかも知れないが)、筆者が重要と考える瞑想の目的は、ハイアーセルフから得る知見若しくは観念である。自分が大きな問題を抱えている時、或いは何か迷っているとき、瞑想することで、そのヒントや答えを得たり、自分の心の整理がついたりすることが多いと思う。そうして自分の意識がハイアーセルフの考えに一歩ずつでも統合されて行けば、それはまさにアセンションへの正しい道筋に乗っていることを示していると云えるのでは無いだろうか。

最後は「智慧」である。基本的には、これは悟りの境地に至ることであると筆者は理解している。それでは、悟りとは何なのだろうか。筆者の記憶では、菩提樹の下で釈迦が悟った時に発した言葉は、「有情非情同時成道、山川草木国土悉皆成仏」である。即ち命のある動物も第二密度の植物、果ては第一密度の山や川或いは石ころに至るまで全ては仏の顕れである。」と解すれば良いと思う。換言すれば、「色即是空」であり、スピノザの唱える汎神論と本質的には同じことを言っているものだと筆者は理解している。そうであれば、当然個々の人間は夫々が仏(或いは神)の顕れであり、そこから神我一体、自他一体と云った信念が出てくる。
因みに、かの有名な般若心経は、観自在菩薩(観音様)が智慧に至る為の波羅密多の行(六波羅密)を深く行じた時、五感で感じる現象は全て「空」即ち仏心の顕れであると悟り、全ての苦しみや災厄から救われたという書き出しであり(但しこれはあくまでも筆者の訳であり、通説とは異なるかもしれない)、この暫く後に「色即是空」と云う言葉も出てくるが、それは同じ悟りの言葉を簡潔に言い換えているものである。
それでは、「色即是空」ということを悟れば、それで終わりなのかというとどうもそれで解脱(アセンション)できるということでは無いようである。筆者の考えでは、「色即是空」と悟った上で、更に「布施」、「持戒」、「忍辱」、「精進」、「禅定」を積み重ね、「智慧」を一層深めて行く、換言すればハイアーセルフとの統合を進めて行くことが重要なのだと思う。即ち悟ることと、悟りの境地に至る(解脱する)ことは別のことで、悟った上での修養(六波羅密)が大切なようである。

因みに、坂本政道氏の最新作、『ピラミッド体験』では、「ナルポイント」(筆者註:坂本政道氏はこのナルポイントが「空」であるとしている)が大いなるすべての扉であり、この扉を開ける為の真言(マントラ)は、般若心経の最後に唱えられる呪文、即ち、「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」(筆者は、ギャーテイ・ギャーテイ・ハーラーギャーテイ・ハラソウギャーテイ・ボウジソワカと発音している)であるとディアナ(ローマ神話に出てくる月の女神であり、坂本氏によれば観音様のことである)から瞑想中(体外離脱中)に教えられたと書いてある。その部分を同書から一部引用しよう。

「般若心経に現れる観音菩薩は私(筆者註:ディアナ)です。シャーリプトラ(舎利子、釈迦の十大弟子の一人)という人に真言を与えました。ちょうどあなた(坂本氏のこと)に教えているのと同じです。あの言葉を唱えることで、意識の振動数が合致するようになるのです。何度も繰り返し唱えることで、次第にその振動数になるのです。古代のインド語ですが、日本語のカタカナでもかまいません。あなたは同じ言葉を唱える必要はありません。もっと自分に合ったものを探してください。・・・」

以上を纏めると、「色即是空」と悟った上での更なる修養(六波羅密)が必要であり、修養によって更に自分の意識(振動数)をハイアーセルフに統合して行く事で、アセンションに到達できるのであろう。その際、真言(マントラ)も一つの鍵になると思われる。

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