シニア留学風土記

リタイア後、日本を脱出して世界を散策したいと旅立つ。英語生活の勉強も兼ねている。その様子を書き綴る。

アボリジニの人々が置かれた状況

2008-12-05 09:35:40 | Weblog
 ようやく帰国した。しかし、帰国直前に突発した家庭の緊急事情でしばらく記入を休んだ。『シニア留学風土記』書き残したことを少しづつ記入することとする。
1)
 ウルル(Uluru)へ行って得たものは次のような状況である。アボリジニの人々が置かれた基本的状況はどこでも似ているということが分かった。かいつまんで記入する。なお、ウルルはアボリジニの言葉で「偉大な石」という意味である。英語訳が「エアーズロック」である。観光客を呼び込むとき、「エアーズロック」が多く使われている。
 ジュクリジャ(祖先神)からアナング(Ananguはこう発音されていた。私の家族はアニャンゴという。)最初にウルルに降り立った人々が、ジュクルパ(創世記の指針=時にDream Timeと英訳されている)で正しい生活の仕方、ルールを伝授された。
 指針には、
  ① 重要な土地のこと
  ② 水源の探し方
  ③ 狩猟法
  ④ ブッシュフードの採取法
  ⑤ 道具や武器の作り方
などの伝授が含まれていた。豊かな自然に恵まれて何不自由なく暮らしていた。

2)
 1870年、ピランパ(ヨ-ロッパ)の探検家がウルルにやってきた。彼らとその後続部隊は、
  ① オーストラリア野犬の狩猟
  ② 金の採掘
  ③ 牛の放牧
などを行なったため、次第にウルル近辺の水源や土地が荒廃していった。伝統的なアボリジニの生活にも悪影響が出てきた。そのため、アナング(アボリジニ)の人々とピランパ(ヨーロッパ人)との間にしばしば衝突が起こった。

3)
 とんで、1958年 オーストラリア(ピランパ)政府はウルル近辺の広大な領域の土地を国立公園として囲った。アナング族(土地所有者)の権利を無視したものであった。アナング族は抗議したが、無視された。
 1976年、ノーサンテリトリー準州土地所有法ができ、土地権の申請が可能になった。しかし、アナング族の申請は不受理となった。
 土地所有をめぐる、長い闘争と交渉が始まることになった。ついにアナングの立場も認められ、アナング族が国立公園を許可し、99年間、政府に賃貸することとなった。
 1985年10月26日、ついに先住帰属権を政府は認めた。ジュクルパ(創世記の指針)が公園管理指針となった。それ以来、アナング(アボリジニ)とピランパ(ヨーロッパ人)は、ウルル近辺の環境保全などで協力体制をとることになった。

 以上のことは、国立公園内のウルルに非常に近いところに建てられた、カルチュラルセンターの歴史的経緯として公的に書かれている事柄である。
 しかし、いろいろな問題が現在も残っている。次回記す。