シニア留学風土記

リタイア後、日本を脱出して世界を散策したいと旅立つ。英語生活の勉強も兼ねている。その様子を書き綴る。

圧倒的な軍事力(科学技術)の差を見せつけられて

2009-01-07 10:58:49 | Weblog
 150年前、幕末の頃、科学技術発展の差を見せつけられた。まず軍事力の差で圧倒された。軍事力は科学技術の発展に基礎づけられるから、一旦緩急あるとき(戦争のとき)に武器を取って戦うという武士社会であった日本は、すぐかなわないということが分かったのである。

攘夷派が開国派に宗旨替えしたのは、先ず武器からであった。薩摩にしても長州にしても部分的にせよ対西欧諸国と対戦して軍船や大砲などの武器の発達に驚いたのだ。少しは鉄砲(しかし1回1回装填しなおす、つまり弾を込めなおすもの)を所持していたが、刀を基楚とする接近戦での備えが中心だった日本に勝ち目はなかった。それを早くから知っていたのが徳川幕府だった。だから早々と開国論の立場に立った。鎖国時、徳川幕府は長崎出島からの情報収集によって海外の状況を早くから把握できる立場にあったのだ。

 開国した方がよいというアドバイスとその準備を勧めたのは、これまた西欧諸国であった。その舞台は、開国以前の長崎であった。幕末の長崎に社会の変化に機敏に反応した大勢の若者武士が長崎を訪れた。訪れた先は、一番知られているのはグラバー邸。グラバー(英国人)は、武器商人という肩書きが一番知られていると思うが、どういうわけか開国以前から長崎港を見渡せる高台に屋敷を構えることができ、多くの勤皇の志士他若い武士を集めて何かをしていた。ご禁制の留学をさせたりしていた。正体不明という方が当たっている。開国後は、企業家と連携し財閥を育成した。造船で三菱を育てたのも彼である。その頃のドッグ跡が今でもグラバー邸跡にある。坂本竜馬も出入りし、グラバーから薩長軍の武器を買ってやったりしていた。伊藤博文も下男として出入りしていた。薩長軍が勝ち組になったのは、蔭でこの西欧のバックアップがあったということが大きい。

 日本が中国アヘン戦争のような事態を免れたのは、西欧諸国が中国制覇で忙しく、ついでに日本にやってきて、複数でつばぜり合いをしていたからではないかという仮説を私は持つ。ある1国が日本に侵略すれば他の国が黙っていない。または諸国の間で日本を開国させる何らかの協同戦線があった可能性もある。グラバーの上司であるイギリスのパーカー、アメリカのペルーはある国際組織のメンバーであったことが分かっている。それで後ろから糸を引くような形になったのではないか。徳川は鎖国によってオランダ・中国との貿易・情報収集を独占していたが、幕末にはフランスと組んでいた。薩長は早い時期から禁断の密貿易をしていて財源確保しており、幕末期はイギリスと組んでいた。アメリカが浦賀に来たとき、最終目標は中国であって、日本を中継基地にしたかっただけだが、英仏に後れてはならぬと脅しに来ただけといわれている。

西欧自然科学の受け入れについて、物理学者川崎謙は述べている。19世紀なかば「私たちの先人は、西欧自然科学を“普遍的(いつでもどこでもどんな場合でも通じる真理)で誰もが学ぶべきもの”と信じ込んだ上で、西欧自然科学の受容を試み、現在の繁栄の礎を築くことを選んだ」『神と自然の科学史』と。圧倒されて平伏したというわけだ。