シニア留学風土記

リタイア後、日本を脱出して世界を散策したいと旅立つ。英語生活の勉強も兼ねている。その様子を書き綴る。

ブログを移転しました

2009-01-31 21:58:46 | Weblog
 閉じてからもアクセスしてくださる方が相当数ありました。有難うございました。
 今日は、お知らせの記入のみです。

 事情により、ブログを移転しました。既に書き始めました。
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 「シニアつれづれ学び草」
 http://blog.goo.ne.jp/snrstudent/
 
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 実は、以前にも記入していたブログがありました。

 「読書・映画を通じた思考の整理棚」
 http://blog.goo.ne.jp/hypergrapher/

 本ブログとこの古いブログを、数日以内に手続きをして削除することにしました。

 ご愛読有難うございました。

視野を広くして歴史を見る(最後の記入に当たって)

2009-01-12 20:28:35 | Weblog
大分前だが、ヨーロッパへ行った帰路に大使館書記官のイスラエル人と席が隣り合わせになった。隣なので挨拶をしたら、流暢な日本語で「イスラエル人です。怖いですか?」と突然聞かれてしまった。あの頃もイスラエルがパレスティナを攻撃しており、世界の顰蹙(ひんしゅく)をかっていた。だから世界中の人がイスラエル人と聞くと怖がると思ったのかもしれない。「いや別に・・・」と私はことばを濁した。シャロン首相が急死した時でそのことだけを「お気の毒でした」と述べた。実はその葬儀の帰りだと言っていた。

この年末以降のパレスティナ攻撃はきわめてむごいもので、今このとき会っていたら「ひどいじゃないですか!」と言っていたかもしれない。中東問題は長い経緯があり、そう簡単には意見をもてない問題である。だからサイードを読みたいと思っていたのだが、日本の西欧化の方が先になってしまった。しかし、どんな経緯があろうとも子どもや女性、普通の庶民を圧倒的な武力で犠牲にして「相手が悪いからだ」と攻撃を正当化するのはおかしい。

 日露戦争でシフから借款(国際間の貸し借り)を受けたと記入した。シフのような人に助けられて勝ったことは感謝すべきことなのだろうか。かなり有名な日本の西洋哲学者が感謝すべきことのように書いているのを読んで「そうかな?」と首をひねった。シフは、その頃ユダヤの世界的財閥ファミリーから紹介されて日本にお金を貸したそうである。その財閥ファミリーの家訓計画書みたいなものに「戦争を誘発し」「対立する双方の国家が更に負債を抱え込み、我々の代理人の手に落ちるように主導されなければならない。」というものがあるそうである。これが本当なら背筋が寒くなる話である。日本は操られていたのか?日露戦争時、日本はたまたま返済したが、貧しい国では借款があまりにも莫大で国自体が「代理人の手」に落ちている例が実際あるという。

 今のイスラエル・パレスティナ問題がユダヤ人のパレスティナ入植(ユダヤ教における約束の地であるイスラエルにユダヤ人は住む権利があるというシオニズム)から、イスラエル国家が形成されて紛争化したと言われ、このような財閥ファミリーの援助を受けているのだとすると、イスラエルの圧倒的な戦力も納得いく。であれば、パレスティナのあまりにも過酷な運命に同情したくなる。第2次大戦中のホロコーストはユダヤ人に誠に気の毒なことではあった。だからといって、ドイツでの凄惨な被害をパレスティナで復讐するかのように惨劇を繰り返すのは筋違いではないのか。それとも長い間、国土を持たない流浪の民であったユダヤ人がどこかにSettleしたいと定めた場所がイスラエルなのか。しかし、それならそれで先住していた人々への敬意が払われなければならぬだろう。いままでそこに住んでいたパレスティナ人が国を追い出されて家族がバラバラになって流浪の民になっていることに心は痛まないのか。流浪の民になった原因は直接パレスティナ人のせいではないのに・・・。
 「Instinct」で主人公の霊長類研究の博士が異文化の狭間で叫んだことばは「独占欲を捨てればいいのだ!」「支配欲を止めればよい!」であった。

 今年は初詣ができない身であったが、去年、明治神宮へ初詣に行った。以前は気がつかなかったのであるが、本殿近くの参道の片側に、沢山の、100個を越えるワイン樽が積み上げられていたのでビックリした。フランスのある富豪のワイナリー所有者と交流があったらしく、贈られたと書いてあった。ユダヤの例の財閥ファミリーはフランスワイン生産のシェア第一人者であることが分かっている。そのユダヤ財閥ファミリーがいなければフランスワインは今ほど有名にはならなかったという。明治天皇は、あのファミリーと交流があったのか!だから日露戦争でシフを紹介したのか!と思った。

 歴史は、係わった人間の物語を介在させるのと同時に、世界的視野をもってみていくと全然様子が違ってくることがある。内向きに日本国内のみに限って筋を考えると突破口がみえないことも明るく開けてくることがある。海外で留学する、外国語を習う、ということはそういう視野を広げるところまで到達できると本当の入り口に来たという感じだ。

 111回というぞろ目の回数となった。このブログ記入とわが生活にちょっと不都合が起きたので、一旦このブログは閉じることとする。<2009年1月12日>

【読んで下さった皆さま、本当にありがとうございました。何日かおいて、削除いたします。いつか、違うURLで再開できる時、またご愛読ください。そういう時が来たら、お知らせ可能な方にはお知らせいたします。】

明治期戦争と昭和期戦争のあいだと異文化理解

2009-01-12 09:47:08 | Weblog
 日露戦争の勝ち戦の記憶が、昭和期、戦争につきすすむ心理を形成したという指摘がある。保阪正康『あの戦争は何だったのか』もそのようなことを書いている。
しかし、日露戦争(1904-05年)は、ジェイコブ・シフという人に莫大な戦費を出してもらって辛うじて戦勝した。シフとその背景にいるものがロシアを叩こうと考えていて日本にそれをさせたと言われている。シフはユダヤ人富豪である。戦費を出してもらったといっても、借款(借り入れ)である。莫大な借り入れなので戦勝したといっても返還したら殆ど残らなかったといわれている。その他の戦争は、調べなければならないが、西欧列強も自らの植民地獲得で忙しかったから、ドサクサにまぎれて極東の国を植民地にしてしまったり、西欧から黙って放って置かれたり、シフのような援助を受けたりしたと考えられる。

 明治維新以降の日本は、多くの戦争を起こした。明治期の戦争が殆ど勝ち戦だったことが、明治時代の人たちは偉かった、という評価に繋がっていないだろうか。それに比べ、昭和期の戦争は負け戦が多かったという点が、駄目だという評価になってはいないだろうか。私はそういう捉え方に疑問を持っている。日本は、西欧文明化に邁進したと同時に帝国主義領土拡張路線も西欧の真似をするようになったからである。弱い国を侵略してその土地を奪い、その国民を奴隷に等しくこき使い、日本の利益につなげるのがいいことだとは、私は言えない。西欧もやっていたのだからいいのだという考え方もあろうが、同じアジア人を植民して、そう理屈をつけるのは、アジア人からすれば憎さ100倍になるといえないだろうか。だからいつまでも断罪を受けるのだと・・・。

  帝国主義によって他国を植民地にするという方向が、西欧と肩を並べて西欧との利害と衝突したとき、欧州各国は日本の植民地獲得を許さなくなってきた。昭和に入って中国本土に入り、満州国を作って植民地にしたときからである。西欧は満州国を認めなかったのである。以降、日本の世界での位置が狂っていき、敗戦まで突き進む。
 
 文明発展の西洋の常識と言われた3段階について前に記入した。福澤諭吉も同調していたと述べた。文明国、半文明国、未開国規定である。文明国は進んでいるのだから半文明国や、未開国を差別し、差別的な条約を結ばせるのは当然としていたそうである。(牧原憲夫『文明国をめざして』)幕末開国期の不平等な条約締結はそうして結ばれた。 植民地にしてそこの人々を殺したり、こき使ったり、本国の利益追求をしたりするのも当然だとしていたのではなかろうか。文明国の西欧は、半文明国の日本を差別的に扱い、半文明国の日本は未開国のアジアを差別する、これほどの悪循環はあるまい。悪循環は断ち切らなければならない。

 正月番組で、日本のタレントがアマゾンの奥地の人々に会いに行くというのがあった。その人たちは洋風の半ズボンをはいていて、その説明で「自分達の伝統ではこういうものをはかないだが(腰みの?をつける)。そうじゃないと(文明人に)ガンで打たれるから(しょうがなくてはいている)。」と言っていた。21世紀のこの時期でもそういうことがあるとは、と驚いてしまった。オーストラリアのアボリジニは、伝統としては腰みのさえないのではないかと思う。相手の文化を尊重するとはなにか。昨日記入した映画「Instinct」で主人公の博士がゴリラと一緒にいるとき、雨の場面で博士が大きな葉っぱを頭の上に乗せて雨を凌いでいたが、ゴリラは勿論そんなことをしておらず、それを見て博士は葉っぱを取る。そして濡れるままでもいいじゃないか、それも自然の恵みと思えばありがたいというように、ゴリラの文化を享受する。たいしたことでなければ、自分の文化を脱ぎ捨てる象徴のような場面だと感じ入ってしまった。その時のアンソニー・ホプキンスの演技は本当によかった。究極の異文化交流の意味を教えられた。文明の低いものは文明の高い国からどんな扱いを受けてもいいのだとなれば、地球は終わりだ、と考える。(長くなるので、あと1回、今日中に記入する。)

ブログを閉じる前に究極の異文化衝突の映画に巡りあう

2009-01-11 10:59:55 | Weblog
 なにごとか集中して考えている時は、無意識に探しているせいでもあるのか、書物でも何でも「巡りあう」ということがある。昨日、ものすごい映画に出会ってしまった。「Instinct」(邦題「ハーモニーベイの夜明け」)である。霊長類研究の博士がアフリカでゴリラ社会の生態研究をしているうちに行方不明になり、見つかった時は殺人罪を犯した重症精神病囚人として見つかる。アンソニー・ホプキンズが異文化衝突の狭間で精神が壊れかけた役を見事に演じている。1999年の映画だから10年前のものだ。

不都合が起きて、あと1日の記入でこのブログを閉じることにした。その決心をした途端、この映画(DVD)にめぐり合ったのだから偶然にしてもビックリである。

 人類学者で霊長類研究者の博士が出会う異文化は、二つの層があって。ゴリラ社会文化と、重罪刑務所(ハーモニーベイはその刑務所の名前)内の精神病患者社会である。類人猿ゴリラは人類に最も近く非常に知能が高く、社会を作って生きている。社会を作っているということは、人類とは違うが独自の文化があるということである。霊長類の研究者だからゴリラ社会を理解する為にゴリラ社会に接近し、「あること」をして徐々にゴリラ社会も受け入れる。「あること」というのは、人類の“余計な”文化を脱ぎ捨てて社会に必要な相手を思いやる心とか、弱いものを守るとか、危害を加えないとか異文化が出会ったときに互いに仲良くやっていける共通基盤だけを身に残して接近を試みる。そして、最後に完全に受け入れられた時に、人間の密猟者がゴリラ捕獲・殺害に来てしまってゴリラが殆ど殺される。その時にゴリラを守る為に防戦して密猟者を2人殺してしまう。最後に捕まってしまう博士をリーダーのゴリラが助けようとかばってガンに打たれて死ぬ。博士は、密猟者が博士のジャングルへの途中の道々で残してきた人類の“余計な”文化の成果、例えばカメラ、双眼鏡、伐採刀などを追跡してきたことが分かって、罪意識に囚われ心を閉ざす。

 重罪刑務所での逸話や精神鑑定シーンなどが主な映画であるが、鑑定する精神科医がこの話を徐々に彼の心を開く中で聞き出す。当初、新人ながらやり手でこれを出世の決め手にしようという精神科医が鑑定の場をコントロールするのは医者の方なのであるが、ある時点でコントロールを止め、むしろ博士が教師、精神科医が学生の関係逆転が起こる。そして患者犯罪者社会との人間関係でも、刑務所を管理する側との異文化理解と異文化衝突が2重3重に用意されているのである。手に汗を握ってしまった。

 ここで分かることは、A社会とB社会が出会った時に、自分らのやり方(文化)を疑いもなく押し付ける場合に衝突が起こるということである。ゴリラと人類では次元がかなり異なるので、むしろ全部自分の文化を脱ぎ捨てるぐらいでないと異文化理解は出来ぬということである。人類社会でいえば、主流の文化になじまない人々は精神病者として社会からはじき出され、文化内異文化(異端、異常など)を作らざるを得ないということである。衝撃的な映画であった。

翻弄されたことは許されるのか

2009-01-10 11:31:24 | Weblog
「あの戦争(1941年太平洋戦争)」例えば真珠湾奇襲にいたる過程で暗号が既に解読されており、日本の攻撃の発端が筒抜けだった。開戦の国際的ルールからすると開戦する時には「宣戦布告」というものをしなくてはならない。当時日本の滞米外交官は、マージャンだったか何かしていて「宣戦布告書」をアメリカ側に渡すのが遅れてしまったといわれている。それで今でも「宣戦布告」なしの(卑怯な)奇襲といわれ続けている理由だ。また、その前段に外交交渉はしていたが、相手(米国)は少しも条件を呑もうとせずとうとううまくいかず、自ら開戦してしまった。後でわかったことによると、米国は米国民が開戦に反対していてそれを賛成に回るようなきっかけが欲しかったと言われている。真珠湾奇襲攻撃は国民の戦意を高めたかった相手にとって奇貨であったらしい。エネルギー封鎖などもあって、だから日本は追い込まれて戦争をせざるを得なかったのだという説が多々ある。だから悪くなかったのだと。少なくともしょうがなかったのだと。

  しかし果たしてそうであろうか。とにかく先に開戦して手を出したのは日本であった。そのことを忘れてはならない。仮に相手が一枚上手で日本が翻弄されてしまったとしても、先に手を出したことを「悪くない」「しょうがない」と許されるものなのか、ということである。そもそも翻弄されるということは愚かさの証明でしかない。指導者の地位にあるものは、国際関係で翻弄されるというような愚かな事態に陥ることは許されないのではないか。国の指導者というものは国民の命を預かるものだからである。一つひとつの政策決定、特に戦争を始めるというようなことはなおさら、その結果、国民に及ぼす影響が甚大なので慎重に考慮して決め、また相手方の状況は的確に掴み、成算があるかどうか吟味した上で決定すべきものだと思うからである。

  私は、こうした問題をアメリカの人と議論になったときは、先に戦争を始めたことは大変申し訳なかったといい、しかし暗号が解読できていたのになぜ防戦しなかったの?と聞くことにしている。「あの戦争はなんだったのか」というテレビでも米国側の暗号解読の天才が日本の開戦決定を解読して米国中央政府に知らせていたから、「奇襲」の報を受けて、「知っていたはずなのに」とつぶやいた、とTVで言われていた。その暗号解読士もなぜ防戦しなかったのだろうと疑問を抱いたに違いない。そうして論議の相手に米国も戦争をしたかったんでしょ?と問う。アジアの被害国の人々には、申し訳なかったという以外ない。しかし国レベルの賠償は概ね済んでいると事実をのべる。国によって国民に知らせないこともあるからだ。それ以外言い訳はできない。アジアの場合、その国から攻撃を受けたから反撃したとかではなく、こちらが乗り込んで西欧との植民地争奪をしたからである。

一方、日本では指導者に対して、無謀な戦争を始めたことを問責する。翻弄されたのかどうか、ともかく戦争を始めてしまった責任は始めた指導者にあるからだ。私はアメリカの原爆投下についても批判意識を持っている。それはしかし、最初に戦争を始めてしまったことの責任について反省するものだけが批判できると思っている。原子爆弾はもう負けると分かっていた日本に白旗をあげる前に新爆弾の効き目を試したものだったといわれている。アメリカ人の庶民は「真珠湾」を忘れない。だからどんな爆弾を投下されても文句は言えないはずだ、という。しかし米国TOPレベルの意図としては人体実験という側面もあったのだ。その罪科は米国TOPの問題として繰り返して言うべきである。しかしそれで戦争を始めた日本側の罪科が帳消しになるものではない。原子爆弾は終戦間際に完成した。日本側の戦争終結決定のもたもた(ポツダム宣言をサッサと受け入れていれば原爆投下は出来なかった。天皇の処遇がよく分からないと言って返答せずもたもたした。)が原爆弾投下のチャンスを生じさせた面もあるのだ。

  勿論、歴史に「もし」はない。だからあの時どうしたか、それによってどうなったかを、庶民であっても知ることによって将来において何をどのように気をつければいいのか、自分なりに判断材料を身につけておくべきだということである。
TVの「あの戦争はなんだったか」は、保阪正康著『あの戦争はなんだったか』に基づいていることが分かった。数日前、書店で見つけた。

ラストサムライ=西郷隆盛は妥当

2009-01-08 10:52:11 | Weblog
 数年前、トム・クルーズ主演の「ラストサムライ」という映画があった。西郷隆盛が西南戦争で死んで明治維新が終了し、武士社会から(半)近代社会(縷々述べてきたように未熟の意味で半をつけた方がいいと私は思う)に移行したのだとすると、ラストサムライの武将のモデルが西郷隆盛だというのは妥当である。最初政府軍に武器の使い方の指導者として招聘され、その後西郷側に味方するというトム・クルーズの設定は本当かどうか分からない。

 薩長軍が官軍(政府軍)である。西郷隆盛は薩摩であるが下野(官を辞めて民間人になる)しており、政府に反対する軍になれば賊軍になる。官軍が最新式(といってもアメリカ南北戦争のお下がり)の武器を持ち、西郷の方は刀が基礎であることが描かれている。西南戦争である。西郷は敗退する。刀を基礎とする戦争はこれをもって終わる。その意味で「ラストサムライ」なのである。渡辺謙が西郷を好演していた。

西郷は明治国家建設初期に大功績があったのに、最期の時、賊軍扱いのため、靖国神社には祀られていない。賊軍扱いのものは誰も祀られていない。薩長の勝ち組だけが祀られているのである。靖国神社が薩長神社だといわれる所以(ゆえん)である。現在、国全体のものとして政府要人が公人として参拝し、国民への範を示すがごとき行為は、国が一つの宗派・宗教だけを優先保護(靖国神社法で保護している)してはいけないという憲法感覚にもとる。梅原猛の、神社なるものは勝ち負け両方の英霊すべてを祀るべきという説もある。

 西郷隆盛は、岩倉具視や大久保利通、伊藤博文などの訪米英使節団が帰ってきてから、自分の役割は終えたと下野する。①征韓論のやり取りが少しも進まず業を煮やした。②官の役職にあるものや使節帰りの指導者達が、新国家建設時の財政難のとき、贅沢を尽くし妾宅に入り浸っているような様をみて嫌気がさした、などが理由と言われている。西郷は少しも欲がなかった人だったらしい。西郷のことばが今日に伝えられている。

  「草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、
維新の功業は遂げられまじく候」「戦死者に対して面目なきぞ」(半藤一利『幕末史』)

名のある人が後世に好感をもって伝えられるとき、「欲得・私欲がない」ということが重要なファクターとなる例は多い。私利私欲のために政治をやられたり、公務をやられたりしたのでは税金で国策を賄う庶民はたまらない。隠れてやってもそういうことはいずれ発覚する。その点、西郷は官における指導者的地位にあっても贅沢を嫌い、下野したあとも慕われて若者が押し寄せたといわれているのは納得できる。

西郷は下野したあと、鹿児島に帰り、慕ってくる若者を教育した。官側の挑発があって血気はやる塾生若者の跳ね上がりで西南戦争が勃発、塾生の跳ね上がりであろうとも起こったものは自分の責任と受けて立った。この責任感もリーダーとして欠かせないものである。ノーブレス・オブリッジの旗手でもあったといえる。しかし、西郷側には最新式武器があるわけでもなく、敗退し自決した。明治10年である。西郷は、明治維新期最大の大物であったので、おなじく維新を目指したグループのものが政府中心部にいて、そのものたちは西郷が民間に居ることが不安でならなかった、その不安の一つとして、西郷も孝明天皇暗殺・明治天皇取り換えばや物語に関与していたか、少なくとも知っていた可能性があるという説もある。西郷の死でホッとしたとか、口封じのために挑発して死に至らしめたというようなこともあったのではないかなど、いろいろな見方がある。

圧倒的な軍事力(科学技術)の差を見せつけられて

2009-01-07 10:58:49 | Weblog
 150年前、幕末の頃、科学技術発展の差を見せつけられた。まず軍事力の差で圧倒された。軍事力は科学技術の発展に基礎づけられるから、一旦緩急あるとき(戦争のとき)に武器を取って戦うという武士社会であった日本は、すぐかなわないということが分かったのである。

攘夷派が開国派に宗旨替えしたのは、先ず武器からであった。薩摩にしても長州にしても部分的にせよ対西欧諸国と対戦して軍船や大砲などの武器の発達に驚いたのだ。少しは鉄砲(しかし1回1回装填しなおす、つまり弾を込めなおすもの)を所持していたが、刀を基楚とする接近戦での備えが中心だった日本に勝ち目はなかった。それを早くから知っていたのが徳川幕府だった。だから早々と開国論の立場に立った。鎖国時、徳川幕府は長崎出島からの情報収集によって海外の状況を早くから把握できる立場にあったのだ。

 開国した方がよいというアドバイスとその準備を勧めたのは、これまた西欧諸国であった。その舞台は、開国以前の長崎であった。幕末の長崎に社会の変化に機敏に反応した大勢の若者武士が長崎を訪れた。訪れた先は、一番知られているのはグラバー邸。グラバー(英国人)は、武器商人という肩書きが一番知られていると思うが、どういうわけか開国以前から長崎港を見渡せる高台に屋敷を構えることができ、多くの勤皇の志士他若い武士を集めて何かをしていた。ご禁制の留学をさせたりしていた。正体不明という方が当たっている。開国後は、企業家と連携し財閥を育成した。造船で三菱を育てたのも彼である。その頃のドッグ跡が今でもグラバー邸跡にある。坂本竜馬も出入りし、グラバーから薩長軍の武器を買ってやったりしていた。伊藤博文も下男として出入りしていた。薩長軍が勝ち組になったのは、蔭でこの西欧のバックアップがあったということが大きい。

 日本が中国アヘン戦争のような事態を免れたのは、西欧諸国が中国制覇で忙しく、ついでに日本にやってきて、複数でつばぜり合いをしていたからではないかという仮説を私は持つ。ある1国が日本に侵略すれば他の国が黙っていない。または諸国の間で日本を開国させる何らかの協同戦線があった可能性もある。グラバーの上司であるイギリスのパーカー、アメリカのペルーはある国際組織のメンバーであったことが分かっている。それで後ろから糸を引くような形になったのではないか。徳川は鎖国によってオランダ・中国との貿易・情報収集を独占していたが、幕末にはフランスと組んでいた。薩長は早い時期から禁断の密貿易をしていて財源確保しており、幕末期はイギリスと組んでいた。アメリカが浦賀に来たとき、最終目標は中国であって、日本を中継基地にしたかっただけだが、英仏に後れてはならぬと脅しに来ただけといわれている。

西欧自然科学の受け入れについて、物理学者川崎謙は述べている。19世紀なかば「私たちの先人は、西欧自然科学を“普遍的(いつでもどこでもどんな場合でも通じる真理)で誰もが学ぶべきもの”と信じ込んだ上で、西欧自然科学の受容を試み、現在の繁栄の礎を築くことを選んだ」『神と自然の科学史』と。圧倒されて平伏したというわけだ。

二つの異質な文明がぶつかると?

2009-01-06 10:17:30 | Weblog
 年末年始まるまる1週間家にこもっていた。足が萎え、頭も変になってきたので外出した。正月映画に面白いものはないと思ってはいたが、英語も大分長い間、耳にしていないので英語の映画なら何でも良いと思い、視た。ロードショウ中のSFで全体として面白いものではなかったが、惹かれたセリフがあった。「文明と文明がぶつかった時、劣った文明の方は絶滅させられるか奴隷にされるかだ。歴史が語っている。アメリカ、メキシコ、アフリカ、アジア・・・」最後の方の例示は、早口だったので記憶違いがあるかもしれない。そういう内容のセリフだった。このアメリカ映画は、地球文明とエイリアン文明がぶつかりあい、そして地球文明の方が劣っているという想定だった。文明を優れているか劣っているかの優劣の尺度、進んでいるか遅れているかの遅進の尺度でみる見方がアメリカらしい。

 わが国の場合は、どうか。幕末・明治期の日本も似た状況だった。西欧文明と日本文明が遭遇した。最初は鎖国中に軍事力の違いを見せ付けられ、これはかなわないということでサッサと開国に切り替え、西欧文明を学びに自ら出かけた。岩倉使節団である。その一員で、維新政府の中心的な人物となった大久保利通は、視察の途中次のように述べていたと言う。「英米仏などはあまねく取り調べても出来居候のみならず、開化登ること数層にして及ばざること万万なり。」(英米仏は文明開化の程度がかなり進んでおり、追いつくのは大変である。)「先のことは心配してもよく分からないから、当面はできることからどんどんやっていくしかない。」「取り込むだけ取り込み、その弊害が出ても10年か15年後には必ず人が出てそれを修正し、害を取り除いてくれるだろう」と。(泉三郎『岩倉使節団という冒険』) 西欧は「開化の度合い」が数段上、つまり日本より数段進んでいるという捉え方だった。帰国後、追いつくべく(西欧)文明開化の政策に邁進した。「西欧に追いつき追い越せ!」の心理はこの時生まれた。

 これを最初の図式に当てはめると、日本は奴隷になりたくない(アヘン戦争のような事態を避けたい)ために急いで西欧文化に追いつこうと自ら西欧文化を学びに行ったり、お雇い外国人を招いたり、鹿鳴館を造ったり(明治10年代)して取り入れた。当時西欧から日本は猿真似ばかりしていると馬鹿にされたのもそういう事情から来ている。大体、追いつこうとしても違う文明の中で長い間暮らしてきたものが全く同じ文明になるということはあり得ない。優劣・遅進の直列的な尺度にのっとっている限り、追いつこうとしている間に相手も前に行くからいつまでも追いつけない感じが残る。「憧れ」に「卑屈」が加わるのはそういう時である。奴隷にならなかっただけでも良いではないかといわれるかもしれない。学ぶのはよい。しかし、学び方というものがあるはずだ。国としても個人としても、ただの猿真似であるゆえ、馬鹿にされて反論できなかったり、卑屈がいつまでも続いたりするのはいただけない。
文明の違いをあらわすのに優劣や遅進の直列の尺度を変更する以外にない。

明暗と共に多様を抱えるのがよい

2009-01-05 10:26:10 | Weblog
幕末暗部ともいうべき事柄を記入していたら心底疲労し、三ガ日エネルギーがなかった。昨日、日本の西欧化について私なりの歴史的筋を明らかにするという目的が主だったとやっと気を取り直して、本年初記入をした。コメントが来ていた。嬉しいコメントだった。12月5日の「アボリジニウルル(エアーズロック)の問題点」にウルルさんという人からのコメントだった。エアーズロックでツアーガイドをしている日本人の方だ。(左側コラムの最新コメントからアクセス)

 コメントを受けて考えたことは、オーストラリアのウルル(エアーズロック)説明のしかた=考え方の違うものを両方示すやり方は公平だということである。国側の意見も出し、アボリジニの側の意見も隠さない。正式な議論で意見が割れたときに議事録に両論併記=多数派の意見とともに少数派の意見も両方記録するという仕方がある。決定すべき時多数決で決めるが、その時の少数派はこういう意見だった、ということを併記して少数意見を無視しないのだ。フェアを保つ人々の智慧である。

 観光地での説明もそうであれば観光客もオヤッと思い、考えるようになる。それが良い。
 観光資源ということばがある。半藤一利の『幕末史』に「負け組や賊軍(勝ち組になって政府軍になった官軍に対する、負け組になって消えた諸藩の軍)の足跡は観光資源になっていない(観光地にしないで消される)」という意味の記述があった。そうか。観光地でも取り上げるのは強いものや勝ったものなんだと思い知らされた。
 そればかりでなく、その時々の社会状況の空気を読んでばかりいると歴史的な人の評価もシーソーゲーム(上がったり落ちたり)になるというのを知って驚いてしまった。(佐高信『福澤諭吉伝説』)福澤諭吉は、明治期は別として、第2次大戦中には非国民思想家扱いで、生家近隣からも石を投げられたというからビックリである。戦後立派な思想家扱いになった。いま、生家現地では1万円肖像で客集めをした形跡がある。なにがなし浅薄である。

 去年の3月、台湾に行った。日本語教師養成の実習で行って、少しだけ観光もした。驚いたことは、大統領選挙の結果、負けた方の党の記念堂の名前が変わったり、大統領などの銅像が小さければ壊され、大きれば壊せないので垂れ幕で隠されたりしていることだった。「これじゃ歴史が分からなくなるわね」と同行の人たちに言ったものだ。その後、大統領選挙があって中国寄りの国民党が勝ったので、また元の記念堂の名前に戻し、銅像もよく見えるようにしたかも知れない。

 オーストラリアはマルティカルチュアリズム(多文化主義)の国である。メジャー・マイナー両方を抱え、明暗ともに抱え、隠さないで歩むやり方である。私はこの方が好きだ。歴史に生きた人々にフェアだからである。

西欧化は洋服を着ることから?

2009-01-04 09:07:38 | Weblog
 オーストラリアでJCU(ジェームスクックユニバーシティ)に通った‘08.11月、クラスでいわゆるデベートをした。その時に驚いたことがある。韓国の20歳代後半か30歳代前半の論争相手側の学生が「ヨーロッパは日本や韓国(総じてアジア)に比べて幸福でしょ。だから・・・」と発言した。「死刑は廃止すべきか」というデベートのときで、はっきりと脈絡を思い出せないガ、極悪犯罪者を刑務所に入れておくとお金がかかってしょうがないから死刑にする方がよいという論議の時で、「何でお金のことばかり問題なの?」とでも私たちの側が言った時だっただろうか、「ヨーロッパはアジアに比べて幸せ」論が出たと思う。「エーッ!なんで!」と私たちのサイドは、口々に言って驚いた。
 彼は「ヨーロッパは、アジアより経済的に豊かなので幸福である。」ということを言いたかったのかもしれない。

 幸福は経済的なことで得られるものではない。もし一般論で「ヨーロッパはアジアより幸福」などというなら、統計で幸福感調査により、1位ナイジェリア、2位メキシコ、3位オーストラリアという調査があり、経済的なことは問題ではないという風に、いくらでも反論できる材料はある。
 しかし、誰にせよ「ヨーロッパは日本や韓国に比べて幸福でしょ」という大上段なことばがポロッと口をついて出ることに驚かざるを得なかった。これは普段からそういう感覚でいる人が割といるということではないかと私には思われた。「憧れ」といった感情もあろう。しかし、「憧れ」は歴史によっては作られるものではないか。
 
 150年前、西欧は日本をどう見たか。西欧文明の基準で半文明の国(半開国)と見たらしい。文明の段階に「野蛮国」(アジア・アフリカなど)、半開国(日本・中国・トルコなど)、「文明国」(西欧)があるとその頃言われていた。福澤諭吉などもそれが世界の常識と述べていた。福澤は徳川幕府の訪欧使節団に加わったことがある。西欧で言われていることをそのまま説いていたわけだ。日本は、半分文明化されているが、半分は未開であるというわけだ。

半分未開とされたことは何か。例えば、庶民の風俗が槍玉だったそうだ。「日本では、(半裸の)人足・人力車夫といった労働者ばかりか、若い女性までが庭先や路地で昼間から行水」をしたりしている。それは「亜非利加=アフリカの黒奴に異ならず(同じ)」と言っていたという。(『日本の歴史13文明国をめざして』小学館)「文明国への仲間入りを悲願とする日本政府は、(それではならじと)手を打つ。」半裸で働いたり湯屋へ行くのは<一般の風習>だが、<見苦しき風習をこのままにしておくと<御国体><国家の体面>にかかわるので<銘々大なる恥辱と心得よ>と布告した(明治4年、同上)という。この書は、国が国際的な世間体論に走ったと述べている。なるほどである。

同時期、西欧では人前で肌を露出することが極端に嫌われていたという。つまり自分の文化基準で他国をランク付けしていたわけである。当時の日本政府はそのランクの最良の「文明国への仲間入りを悲願」していた。日本の西欧化は、政府が望み、それを国民に教化したといえそうである。元勲自ら西洋の軍服を着、モーニングを着、婦人達は着物を捨てドレスを着て国民にアッピールした。国民を教化する時、政府はしばしば美化する。美化によって憧れが生まれる。鹿鳴館(ろくめいかん=西欧社交ダンスが日夜行なわれた上流階級用の洋館)は、行き過ぎた、その西欧化運動の象徴であった。