シニア留学風土記

リタイア後、日本を脱出して世界を散策したいと旅立つ。英語生活の勉強も兼ねている。その様子を書き綴る。

今日のトピックは最先端科学

2008-09-30 11:46:12 | Weblog
 今日の教科書のトピックは最先端科学である。クローン、臓器移植、遺伝子操作、美容整形などなど。言葉も難しいので、意見がなかなかいえない。でもある意味無理に言わせられる。それが学習だからだ。私は科学の問題を考えるのが好きだったからいっぱい意見を言った。いろいろな人に回りまわって自分の持っている先端科学の問題を聞きまわる。そして意見を交わし、意見の分布を知る。

 分からないときは仮の意見でもいいから言うのが上達の道だ。ところで我がクラスには13歳の中学生がいる。韓国人だ。「どうして中学生が英語学校にいるの?」と聞いてしまった。どうして普通の学校に留学しないの?」と。どうも休学してまず英語を学んで習得してから普通の学校に入るようだ。韓国の英語熱の激しいことは聞いていたが、聞きしに勝るものだと思った。その彼もこうした最先端科学の話題でもついてくるから感心してしまった。エリート教育の生徒なのかもしれない。

 宇宙開発にしてもなんにしても「最先端科学にかけるお金は無駄だと思うか」といった質問も混ぜて議論させるのが公平な感じがした。宇宙開発にしても原子力開発にしても最先端科学は莫大なお金をかけるのは当然という態度がある。人類の発展に貢献するから、科学者は善人ばかりだから、ということを一義的に信じている場合にそうなる。しかし、いろいろな事故や最先端科学の使われ方を見ても「本当に科学は善ばかりか?」ということに疑問がある。それより毎日の食に飢えている人に配分してからやったらどうなのか、と思うときがある。

 科学技術のマネージにも高度な力が必要とされる。社会的にマネージできる力がいっしょに上達しないと、科学は宝の持ち腐れや事故による多くの犠牲を招きやすい。人身事故が多いのは、科学の発展に人類の方の社会的管理力がついていっていないからだと思う。それに悪人科学者だってたくさん歴史的にいたではないか。今だっている。
クローン人間を先に作りたがって秘密裏に実験室でもう着手している科学者がいないとはいえない。そういう問題を今日は話し合った。

 西欧系の学習者は危機意識を持つ必要があるという意見が多く、アジア人の方が先端科学いくらでも発展していいじゃないという人が多かったのが印象的であった。科学の怖さを西欧科学の発展を担った方の人の間には広まっているのかなと感じた。アジア人はまだ科学進展において「まだ遅れをとっている」というのが心理の奥底にあるような気がした。意見の分布を見るとそんな感じだ。

 理科離れを心配してその方面に力を入れる事は大事だが、そのときに一緒に科学史や科学哲学を教えてほしいなと思った。部分だけ見て全体を考えさせないと偏頗な能力しか育たない。事故はそういうところから起こるからだ。

フルタイム学生になる

2008-09-29 11:33:16 | Weblog
今日からフルタイムの学生になった。いままでは午前中のパートタイム学生だった。一日中英語を聞いていたのでは疲れてしょうがないだろうと思ったのだ。

1週目はやはり無理だった。住環境、通学、学校の様子、人間関係そして学習の様子すべてに慣れていなかった。緊張してばかりいた。午前の学習だけでも疲れてしょうがなかった。

2週目はずいぶん楽に授業に臨むことができた。予習復習も少しできるようになった。クラスでも何をするかわからないということはほとんどなくなった。慣れたということである。学校外の生活のことで緊張することはなくなった。

それで第3週目からフルタイムの学生になってみることにした。午後から更に2時間の授業がある。今日はおそらく疲れてしょうがないだろう。でもそれも1週間の辛抱だと思っている。状況に慣れる、これは違う環境に移る場合、どんなときでも必要なことに違いない。

ゆっくり回りをみて、観察を楽しむことができるようになった。日本で見たことがない鳥がすぐ近くに沢山いる。すぐそばにも降りてきて路上に来る。今日は教室に薄緑色の鳥が迷い込んできた。ガラス窓にぶつかって飛んでいるので、皆で外に出すように協力した。
バス停で帰りのバスが来るのを待っているのが一番気持ちがよい。日陰は涼しいのだ。周囲に緑がいっぱいあってオゾンがあふれているし、ドライだから漆器が感じられない。風が爽やかに吹き、頬をなでる。20分や30分遅れてきても腹が立たない。多分帰るだけだからだろう。日本にいるときより、気が長くなった。ストレスが吹っ飛びそうだ。

元国土交通相の単一民族発言

2008-09-28 11:14:37 | Weblog
「日本人は単一民族発言」等で国土交通相が辞めた。こういうことが何度続くのか。「思わず口走る」のは普段からそう思っているからである。「閣僚と一議員とは違うから注意せねば」と別の閣僚が批判しているようで批判にならないコメントもした。思ってても口に出すなといってるに過ぎない。日本の国を背負う政治リーダーが歴史的事実と違うことを認識して発言するという事態を重く見なければならない。先日の学校のプレゼンで取り上げた「日本人は単一民族ではない。縄文の人々の末裔である可能性の高いアイヌの人々」がまことに時宜を得た問題であったことを喜ぶべきか悲しむべきか。サイード(パレスティナ人で20世紀最大の知識人と言われる。)という人が世界がかかえている問題を「知性的には悲観主義を、意志的には楽観主義を持つべき」と述べたが、本当である。

 昨日記入したアボリジニの書籍について再記入する。
原題"They took the Children."が『盗まれた世代』と私は訳すが、その問題である。何のことだろうと思うかもしれない。私も最近まで知らなかった。

 イギリス人が300年ほど前、入植してきたときから長い間、先住民のアボリジニの人々にひどい仕打ちをしたことは知っていたが具体的にはあまり知らなかった。その一つがこの「子どもたちを取り上げ」問題である。
親から子どもを取り上げ、施設にいれて白人の教育を施し、善をなしたと長い間思っていたのである。時には養子にして労働力として使った。法的には「よく育てられていない」場合という条件があったそうだが、政府も警察もアボリジニの習慣が自分らにとっては理解できないので、それを全部「よく育てていない」ケースとして扱ったというからひどいものだ。いまでも自分の親はどこにいるか探し続けている大人になったアボリジニがいるそうである。
 少し前、映画化された。"Rabbit-Proof Fence"である。私も見ていないので邦題は不明だ。帰ったら見てみたい。親から引き離された3きょうだいが逃げ出し、捕まっては逃げ出し、親を訪ねて○○万里!をしたというい話だ。

 この通常言われている「盗まれた世代」の問題について、オーストラリア首相が今年はじめ、正式に政府として謝った。人間反省しなければならない時は反省しなければならないのである。多くのアボリジニの人々は、この謝罪を歓迎したに違いない。今回オーストラリアに来る前、旅行会社が英会話をサポートしてくれたのだが、その教師、ニュージーランド人(ヨーロッパ系)だったが本当にうれしい事だったと感想を述べていた。ニュージーランドもそういう先住民問題があるからだそうだ。

 異文化理解は、その文化の思考の枠組みにのっとって、行われている習慣や生活を理解しなければならないのである。自分の文化の思考の枠組みで人さまの良し悪しを判断すべきではないのだ。悲しい事だが、この第1歩で間違う人が多い。果たしてわが国土交通相だが、どこでどう間違えているのか、国民が被害を受けるわけだから、吟味しなければならないはずだ。



アボリジニの村へ行った

2008-09-27 15:11:20 | Weblog
今日は2回目の土曜日で学校は休みだ。

アボリジニの村「ジャプカイ」というところに行った。宿舎からバスで30分のところにあった。
アボリジニの風習などを観光客にショウ化してみせるところである。観光化しているところの常で、トコロテン方式で次々とグループになって違うショウを見せるようにシステム化されている。
しかし、初めてアボリニジのことを知るためにはコンパクトに知れるようになっている。ディジュリデュの音楽とダンスに従って習慣の数々を見せてくれるショウ、ブーメランを体験させてくれるショウ、槍を打つ体験をさせてくれるショウ、ヂュディリデュを吹いてみせてくれるショウ、植物で自然薬をどう使っていたかを見せてくれうショウといろいろ体験的に情報を得られるようにシステム化されているのだ。

一番面白かったのは、ハンティングの人達の暮らしを髣髴とさせる薬の説明だった。ブーメランも槍も男性が受け持ってやる食獲得(カンガルー確保)の方法だが、薬草採集の部門が女性だというのが、非常に興味深かった。自然に関する知識が男女とも発達していないと暮らしはやっていけなかったのだと思う。
日本の縄文の暮らしもそうだったかもしれないと思いをはせた。縄文人もハンティングの暮らしだった。

ハンティングというと荒々しい男性的な人々と考えがちだが、絶滅するまで採り続けることをしないで、必要な限りのみ採集していたという先住民の実態は逆で非常に穏やかな暮らしであったと聞く。

観光地で一番良い事は簡単なアボリジニならアボリジニの歴史書などが取得できる事だ。2冊本を購入した。『世代を盗まれた』というのと『アボリジニのスピリチュアルな生活』という本だ。
大昔の人々の生活は、どこでもスピリットを重要な構成要素としていた。

ケニアでもそれを見てきた。日本でもそれがあった。アボリジニ・オーストラリアの先住民もそうであったらしい。人類の発達史に関わる事だ。重要な決定をどうしていたかの問題で非常に興味がある。

willその他の未来形

2008-09-26 11:39:22 | Weblog
今日は
 ①will (new idea,不定)
 ②be going to (old idea,確定、不定) 
 ③be ~ing (確定)
 ④現在形  (if,when,in case,beforeなどの節を伴って)
の四つの未来形の表し方を習った。

初心者がどれを使ったらいいかわからないとき、be going toを使えば大体間に合うということがわかった。
これを①~だろう、②するつもり、③するつもり、④する、などと訳読していたらしっかり状況を踏まえた言葉が使えない。きちんとした使い分けがあるのである。
日本語に「だろう」と「するつもり」と「する」にそんなにしっかりした違いがあるわけではない。日本語ではほとんど現在形で未来を表す場合が多い。
だから訳読は危険だというのだ。訳読にすると思考の枠組みが母語(日本語)になるから間違いやすいのだ。英語には英語の思考の枠組みがある。日本語には日本語の思考の枠組みがある。
例文を挙げればもっとわかりやすくなるのだが、あいにく時間がない。これで終わる。

今日は未来形を体系的に知ることができて本当によかった。

今日のレッスンはまぁまぁ

2008-09-25 11:45:38 | Weblog
昨日、くしゃみが止まらず、スワッ!風邪かと思って夕べは薬を飲んで早く寝た。
薬のせいか今日は調子よかった。発話もまぁまぁできた。質問もまぁまぁできた。

グループになる相手が結構大切だと思った。

先週私はプレゼンを終わっているが、大学から来たグループの学習グループがどこかの島でのフィールドワークを終えて帰ってきてそのプレゼンを聞いた。ある大学のスーパーサイエンスコースの学生たちだ。オーストラリアの自然研究を終えて帰ってきたのだ。私たちは聴衆になった。必ず質問をするように教師に言われた。

オーストラリアの動植物、マングローブ、鳥、サンゴ礁のプレゼンであった。どれもよくは知らないので、簡単にしかできなかったが、各回質問した。

「できなかった」と今書いて思い出した。文法を英語で学ぶのはしんどいが、時々発見がある時はうれしくなる。訳読で文法を勉強するのが駄目だとよくわかる時があるのだ。'could'の使い方で面白いことがわかった。私たちは多分'can'を「できる」と訳して習っている。そしてその過去形が'could'だと習っている。

教師が日本人はしばしば”I could eat Sushi when I went back to Japan last month.”などと使うが、聞いている人はそれでは本当に食べたかどうか分からないというのだ。それは単に可能性を表しているに過ぎないからだという。本当に食べたということを表したいときには”I was able to eat sushi.”などとすべきだという。ようやく日本に帰って寿司が食べられたのよ、ということを表したいときに私たちは「できた」を使う。そういう日本の訳語的な発想で英文を綴るからそうなるのだ。'could'をはじめとする英文法では、英語の発想でいろいろな意味使い方があるので、それは英語で教えられたときにはじめて分かることがある。一旦「エッ、知らなかった!」と思って、「新しいことを知った」という瞬間が来たとき、嬉しいものだ。

こういう一つでも新しい発見をすると「遠くまできた甲斐があったなぁ」と思う。

教室で負けないように話すには

2008-09-24 11:47:19 | Weblog
 教室で他の国の学生と比べると、日本人は明らかに発話が少ない。負けているといってもよい。
 日本人4人、韓国人3人、スペイン人1人、チリ人1人のクラスだ。人数が少し増えた。日本人は4人いるが存在感が薄い。パッ発言できない。日本語でもそうなんだから英語では尚更なのだろう。残念ながら私もその1人だ。
 特にスペイン人とチリ人はすごい。ときどき「Aだ!」「No,Bだ!」と張り合う。アレグレッシブなのだ。先生は「どう思う?」と聞いているのだから意見を述べるべきなのだ。けれど日本人はその流れについていけない。確信がもてないうちは言わないのだ。多分それではコミュニケーション力をつけるには損だ。

 私は様子見と今日の場合くしゃみが何回も出てなんだか集中できなかったので、あまりアグレッシブに発話できなかった。
さてこの状態を克服しなければならない。どうしたらよいか。まず予習復習をすることだ。そうすると学習の大状況が把握できる。大状況がわかると何がトピックで今何が問題になっているかがわかる。そうすれば自分の解答や意見を決めやすい。

 クイックリーディングも結構ハードだ。辞書を見るな、わからない言葉は無視せよと言われる。でもキーワードがわからない時は全体がわからないのでそれだけ辞書を引く。または隣の学生に聞いてしまう。それでずいぶん違う。大意がわかればいいのだ。こういう訓練は私の学生時代にはしなかった。逐訳方式なので、わからない言葉ごとに辞書を引き、その言葉の意味をそばに書き、全部わからない言葉を無くしてからよっこらしょと文を訳しにかかった。このやり方では英語の「使える力」を育成できなかったというのが、私見である。たとえば新聞のコラムを1分でよむといった能力をつけられなかったのだ。「日本人は話せないけど読める。」というのは、だから嘘なのだ。

 今、わからない言葉を無視することに苦労している。しょうがないから大きな筋だけをつかむようにまずザッと読む。そうすると詳細がわかっていないのだから、後で細かいことを聞かれたときわからない。でもそのようにやっていると、少しずつ読みが早くなっているような気もする。まだ未知数だけれど。

 一番の困難はリスニングだ。これは自分ではなかなか上達の術がわからない。左耳が聞こえにくいことも災いしている。これは昨日より今日一歩進んだら満足することにしている。(教師の言うことがずいぶん分かってきたなど)
 パートタイム学生(午前だけ受けているのもスキップされているようで問題があるのかもしれない。みんなは午後も受けるフルタイム学生だ。いろいろ学習については探っている状況だ。

携帯電話トラブル

2008-09-23 11:48:47 | Weblog
持参したインターナショナル用携帯電話が繋がらない。
予定では宿舎で全部いろいろな連絡ができるはずだった。小型PCも持参したから携帯を使っていろいろ用を足すはずだった。

携帯が使えないことにより、他の手段でやることになった。

一つは学校のPCを使う。今の大学でも英語学校でもPCを自由に使えるようにしていないと学生が集まらない。だから、必ず学生用のPCルームがあるのだ。英語バージョンになっているから日本語バ-ジョンにするところから隣の学生に聞いて覚えなければならない。それもコミュニケーションである。最初なかなか繋がらなかったりしてフラストレーションに陥った。でも今はこうして昼休みに使っている。

二つは宿舎にもPCが置いてある。ただし一台なので、子どもたちとの順番待ちになる。それは使いにくいところだ。使っていても「おばさん、後何分で終わる?」と聞かれて「すぐだよ」と急ぐので、ミスが多くなり、あとで誤植をたくさん見つけた。直しようがない。大学には15台ぐらいあるコンピュータールームなのでゆっくり使える。ただしマキシマム1時間である。授業がある時間は使えない。

三つはブラステルという電話の仕組みを初めて使っている。番号を買うといったらわかるだろうか。公衆電話でも家の電話でも、携帯が通じれば携帯でも多分通じる。国際電話番号や希望の言語の番号を打った後、その買った電話番号を打ち、次に国番号その他の国際電話の番号を打てばよいのである。すごく長い番号を打つので間違いやすいことは間違いやすい。一定の金額をチャージしておいてチャージがなくなるまでどの電話からもかけられる。なれると便利だ。誰のでも電話機を借りさえすれば自分のマネーチャージでかけられるのだ。その意味で、日本では公衆電話が消えつつあるが、多少はそういう立場の人たちのために残しておくべきだと思った。チャージがなくなったら、日本で家族にでもチャージしてもらうのがやや難だ。

四つは、プリペイドのレンタル電話も借りた。電話機がその辺に見つからないときはやはりブラステルは使えないので、レンタル電話も借りたのだ。これはときどきスーパーなどに行って、マネーチャージしなけばならないので、ちょっと面倒だ。昨日、わざわざ一つ前のバスストップで降りてスーパーがあるのでチャージしようと思ったら、隣のフィッシングショップ?にいけばあるというので行くと、店を閉めかけていて「もうクローズするから駄目」といわれた。商売っけがない。前に来たときも洋服売り場で同じ目にあったことがある。退社タイムは厳格に守るのがこちらのやり方のようだ。遅い時間なら分かるが、昨日は午後2時だった。「エーッどうしてこんな時間に!」と思ったが、その辺は固い。しょうがなくてとぼとぼとかんかん照りのなか、水とヨーグルトだけ買って宿舎に帰った。
この1週間、こういうことに随分エネルギーを使った。この点に関しては今はもう大丈夫だ。

学習システム

2008-09-22 11:50:00 | Weblog
JCU(ジェイムスクックユニバーシティ)の一般英語コースの学習システムを丸ごと理解したわけではないが、記してみる。

教科書中心に学習が回る。
 ①先週たくさんいた学生が国に帰ってしまった。今週は5人になった。先週まで18人いた。つまり入れ替わりが激しいのである。そういう状態のとき、新しい学生がわからないだろうからと最初からやっていたのでは間尺に合わない。だから基準はある教科書を一定期間かけて終わるように進めるのである。私は8課の時入ったので8課の学習から始まった。今週9課に入った。新しい学生が入って来てその学生は9課から学習が始まるのである。
 ②教科書中心に学習が回っていると教師はいつでも交代できる。今週から違う教師になった。各課の内容の進め方はどうも教師によって違う。もう少し今度の教師のやり方を見ないとわからないが、どうもそのようだ。

コミュニケーション(運用力=使う力)を重視している。
 ①それを学びに来ている学生が多いのだから当然であるが、時間を取るからであろうが、あまりノートを取らないように進められる。問題をやってもすぐ隣と答えあわせに移る。両者で答えが違うときはなぜその答えなのか、理由を述べさせ、議論させる。
 ②単語を覚えさせるパートもあるが、ゲーム式アクティビティ式でやる。ノートに書かせてそれを覚えろとは決していわない。直接、その場で頭(当然'脳')の中にインプットして直接その場でアウトプットさせるやり方だ。グラマーも何もかもだ。
 ③使えなければグラマーも何も役に立たない。すぐその場で例文を挙げて使わせる。教師も例を示し、学生も例文を作る。

「基本路線は運用力付与」ここではそれが英語教育の方法である。
だから入学したばかりの学生でも、スケジュール的にプレゼンテーションの時間があれば、やらせるのである。
 いろいろ文句があるような人もいるらしいが、目的と方法は一体だからそういう目的で来たのでなければ、他の学校を選ぶ外ないのである。
 研究をしたければ大学だ。
 英語言語学を学びたければ、そういうコースのある大学を選べばよい。

まだ細かくはわからないがそういう風だ。

ケアンズもバブル?

2008-09-21 11:53:37 | Weblog
ケアンズの市内に2年ぶりに来た。好景気に沸いているらしく随分開発が進んでいる。熱帯雨林は大丈夫かなと心配になる。
中心地を外れたところにどんどん建物が新しく建てられている。高さ制限はどうやら続けられているのだろう。高層ビルなどは建っていない。

オーストラリアは環境ケアが行き届いている国だというイメージで来るとちょっととまどう。何をどのようにケアするのかの内容が問われるのだろう。環境問題環境問題といってそれをビジネス化することに忙しいやり方もある。本当に環境問題に取り組むとはどういうことかを考えるべきだ。節約したりリサイクルしたりするのはダサいという考えはまず改めるべきだ。

不便ももう一度受け入れてみるべきというのがオーストラリアへきて感じたことだ。生物としての生存能力が復活するような気がする。それともう一つ「自己責任」ということを強く迫られている気がする。

バスを降りるときは自分のバスストップの景色を覚えておく(名前がないのだ)。
そしてブザーを鳴らす。「ブザーが鳴りません。」というバスもあるのにはたまげた。自分で言葉で「次、降りる」と言えばいいのだ。バスが1時間に1本でも待つ、その間に本でも読めばいいのだ。そういう適応力が必要とされる。サバイバルの力がつく。

子どもは朝早くから外で遊んでいる。こういう牧歌的な教育力を、残念ながら日本はどこか遠くに置き忘れてしまったと思う。