秋空とはどんな色だったのだろう。
今日も神戸の空を見上げて歩くぼくは、
ふと記憶の扉を開けてみる。
六甲の山はくすんでいて、
東には都心の汚れた大気が見える。
どうやらぼくらは、
蒼穹という言葉を失ったようだ。
あれは二十歳前後のことだったか。
はじめて登る山の上で、
ぼくは満天を埋め尽くす星を見上げていた。
8月だというのに、くちなしの花が匂っていた。
ぼくらはもう、
天の川がどのように流れているのかを知らない。
夕空にかすむ半月は平面的で、
わずかに瞬く星は寂しげだ。
何よりも空を見上げる人は、本当に少ない。
ぼくらはもう、
具象的に宇宙を語れなくなったのか。
未来を生きる子どもたちに、
このような空を残すのだとすれば、
人間存在の希薄化を、さらに増すだけだろう。
ぼくらは再び、蒼穹を、天の川を、満天の星を、
手に入れなければならない。
そうでなければ、
この宇宙の中で、宇宙とともに生きている実感を、
人間は失ってしまうだろうからだ。
いま必要なのは、
抽象性と対をなす、生々しい具象性ではないのか。
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