
カレーです。
特に花粉症というわけでも、
年度末が特別忙しいというわけでもありませんが、
私は個人的に、年末、年度末のような“期変わり”の時期が苦手です。
それは、どこかに“別れ”の色を内包すること、
そして特に春に関しては、どこかになんとなく“学生生活”のイメージを
想起させることが起因しているのかも知れません。
昨年4月、DDTグループからの独立という1つの“別れ”を経験した
ガンバレ☆プロレスは、それから約1年となる4.11に、
独立後初となる後楽園ホール大会を開催します。
メインイベントはもちろん、
団体の誇る王座であるところの、
スピリット・オブ・ガンバレ世界無差別級選手権。
王者・今成夢人に相対するのは…
冨永真一郎。
かつて学生プロレスラーとして活躍した王者が、
大学生活の締め括りの卒業制作として、
自らのアイデンティティを映像作品にまとめ上げた「ガクセイプロレスラー」。
その監督と、被写体が。
アマチュアからいでて、プロへの道に一度は挫け…
それでもリングに上がり、“プロレスラー”であり続けた二人が。
格闘技の聖地、後楽園ホールのメインイベントで相対します。
今成夢人は1985年生まれ、
多摩美術大学時代にHWWA(一橋大学世界プロレスリング同盟)に所属し、“金的桜ヶ丘”として活動。
DDTプロレス恒例のビアガーデンプロレスでマッスル坂井とシングルマッチ(※)で戦うと、
翌年、当時の学生プロレスラーたちをふんだんにリングに上げ、
一部の選手たちがその後プロになったり、ならなかったりした
“マッスルハウス6”では村田晴郎アナウンサーから
“学生プロレス界のエース”として紹介され、
アントーニオ本多選手からジャンケンで勝利。
同年、BOYZのリングにも上がっており、
今もデビュー日としてはそのBOYZ参戦時の日付が引用されたりしています。
今成夢人は卒業後、プロレスラーではなく映像制作の道へ進み、
愛知県のテレビ局へ就職することになります。
…自身ではこの経験をある種の“挫折”として形容することがありますが、
紆余曲折を経て愛知を辞することとなります。
今成夢人はその後DDTプロレスの映像班に。
DDTプロレスにあの“金的桜ヶ丘”がいる!と知ったときには、
個人的にはとてもワクワクしていたのを記憶してます。
心のどこかで、“DDTならきっと、何かしらの形で表に引っ張り出させるだろう”と考え、
その時をこっそり心待ちにしていました。
なんとなく“表”に出だしたなと感じたのは、
男色ディーノ選手プロデュースの映像企画、
“男色牧場Classic”にて、ディレクターとして登場した時。
自身と同世代であり、マッスル出場の際にも声をかけてくれたことを
とても心強く思っていたという、当時DDT所属、安部行洋の“卒業”を、
ディレクターという裏方の立場ながら、号泣しながら見送る姿が
とてもとても脳裏に焼き付きました。
私はプロレス関連の映像作品のなかで、いまでもこの“安部ユキヒロの憂鬱”が、
一番好きです。
時を同じくして、というか、タイミングの妙か。
もう一人の“ガクセイプロレスラー”が、DDTグループに加入したのもこの時期。
冨永真一郎は、帝京大学からSWS(帝京大学プロレス研究会)に所属し、
“エロワード・ネゲロ”として活動。
学生プロレスラーながら卓越した運動神経と独創的な動きを示し、
学生プロレスサミットでもメインイベンターを務めるなどして名を馳せると、
その才能に目をつけた高木三四郎大社長がスカウト。
同じく学生プロレスからキャリアを築いたKUDOになぞらえて大きな期待を寄せるなど、
ユニオンプロレス所属として迎え入れると、
当時ユニオンに参戦していた矢郷良明選手から
「学生プロレスに生産性を与えた」と、痛烈な批判を食らっていました。
後楽園ホールでエル・ジェネリコ(現在のWWEサミ・ゼイン)を
相手にしてのシングルマッチという破格のデビューを迎えた冨永真一郎。
しかしその後、肘の負傷、さらには単位不足による留年という事態に見舞われると、
翌年2月、契約満了による退団が発表されることとなりました。
”主演”が表舞台を離れた一方で、
今成夢人はDDTグループの映像班としての職務を継続。
DDTの映像配信でMCのような立ち回りを見せ、
自身のリングへの登場については「会社の意向次第」と述べたり、
さいたまスーパーアリーナ大会に向けた
テレビさいたま「さいたまースラム!」では
映像制作・編集に加えナレーションを担当したり。
かたや冨永真一郎は、無事卒業。
自らが主宰として社会人プロレス団体「COWPER」を
立ち上げてプロレス活動を再開。
一度は交わりかけた二人の「ガクセイプロレスラー」の道。
それぞれが再びリングへの情熱を向けたことで、
その歯車は着実に動き出しました。
石井慧介に敗れ、ユニオンプロレスを退団を契機に
大家健が立ち上げることとなった、
新団体「ガンバレ☆プロレス」。
突如として、浪口修の襲撃を受けたことで、
その会見の模様を映像班として届けていた今成夢人は、
再びリングの上に、表舞台に、引きずり出されることになりました。
そして表舞台に現れた今成夢人が、
ガンバレ☆プロレスの、プロのリングにもう一度、
手を引いて連れてきたのが…冨永真一郎。
二人の「ガクセイプロレスラー」が、
プロの、プロレスラーとしての時を再び刻み始めた瞬間でした。
さて。
1985年生まれの今成夢人と、1987年生まれの冨永真一郎。
その間の1986年生まれの人間として個人的に、
二人に思うところとしては、
“世代の空気感”を共有しているようになんとなく感じています。
決して世代全員、全てがそうだったわけでもない、
ということを予防線として申し上げておきますが…
生き方に後悔があるわけではない。
生きた時代に生じた様々な困難な出来事、
決して、そうした出来事のせいだけではない。
…でも、なんとなく、
重苦しい。息苦しい。
そんな、空気感。
どこかに挫折や困難、葛藤を抱えながら、
それでも前に、前に進む、進もうとする
ガンバレ☆プロレスに参戦するプロレスラーの姿から、
目を離せなかった一つの理由が、
個人的にはその「空気感」です。
そしてその重苦しさを抱えながら重ねた努力を、
どこかで誰かが見ていてくれている。
その姿に、何故だかとても、救われています。
田中将斗とシングルマッチを戦ったときの今成夢人を、
大谷晋二郎から勝利を手にした今成夢人を、
竹下幸之介からバイオニックエルボーを食らったときの今成夢人を。
高岩竜一から“お前はプロの、プロレスラーだ”と言われたときの冨永真一郎を。
思い出すと未だに、目が熱くなるのは、何故だろう。
思うに、そうしたもがき、苦しみ、歩んできた過程を、
それでも誰かが、見てくれている。
眼差してくれている。
しかも、これ以上なく心強い、誰かが。
そんな姿に、おこがましく自分を重ねるわけではないけれど、
”ああ、よかったな”
と、心から思うことができる。
そんな空間が、ガンバレ☆プロレスに、あります。
今成夢人はもはや、映像班ではない。
ガンバレ☆プロレスを創成期から支え、
大谷晋二郎とともにベルトをまき、
阿部史典と後楽園シングルメインを戦い、
独立後最初の興行で「"プロレスラー”になりたかったんだ!」と叫び、
”ガンバレの魂”の名を冠するベルトを唯一2度巻いた、
プロの、プロレスラーだ。
冨永真一郎はもはや、”最強の素人”ではない。
後楽園ホールでプロとしてデビューし、
ケガも経ながら10年以上、ガンバレ☆プロレスで戦い、
独立に際して所属にもなり、
”超竜”にもその力を認められた、プロの、プロレスラーだ。
かつて自ら「ガクセイプロレスラー」の監督と、
冨永真一郎がその被写体となったことを、
今成夢人は合わせ鏡に例えました。
15年余を経た、二人の”ガクセイプロレスラー”。
もう二人を覆う空気感には、”重苦しさ”みたいなものはないかもしれない。
なればこそ、プロのプロレスラーとして向き合う2人の姿が、
聖地のメインで向き合う2人のプロレスラーが、
一体どのような戦いを紡ぐことになるのか。
見届けずには、いられない。
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