SIA人物紀行

◇フォトデッセイ◇ アジアに抱かれる 中国・上海編




  上海を訪問した去年12月の時点では、まだ中国のギョウザ問題は起きていなかった。


 凄まじいスピードで成長を続ける上海で、人々は何をどう食べているか、に単純な興味があったし、常住人口が1800万人といわれる大都市で、富裕層から低賃金の労働者まで、飢えることなく食べることができる奇跡を、この目で確かめてみたいと思い、今回は「食」をテーマにしたのだった。


 都市の景観は、とても象徴的だ。百メートルを越す高層ビルが、細く高く乱立する一方で、ビルとビルの間には石庫門(シークーメン)と呼ばれる長屋が取り残されている。


 立ち退き料は新しく立つビルに入居できる金額ではないため、郊外に移らなくてはならない。石庫門の住人はお年寄りが多いので、郊外では生活が一変する。


 富裕層と地方からの出稼ぎ労働者の収益の差だけでなく、老人と若者の生活感覚の違いも、際立ってきている。日本も地域格差、貧富の差が拡大する問題を抱えているけれど、大きく違うのは、中国では家族や親類縁者が助け合っていることだ。


 私が突然訪れた石庫門の奥では、足の不自由な老女のために、暗い台所で義理の娘がやってきて夕食を作っていた。見回すとお年寄りばかりだ。


 日本で考える清潔な台所ではなかったけれど、上海の食を賄う有名な市場である嘉善菜場を見てきた直後だっただけに、自分の中の清潔感を改めて考えるきっかけになった。


 「食の安全」と声高に言うけれど、そしてそれは大事なことに違いはないけれど、では具体的にどんな食が安全なのだろう。清潔なものが安全なのか。清潔とは何だろう。


 嘉善菜場の魚や貝は、水の中で生きたまま売られていた。肉類も巨大なかたまりでつるされている。日本人の感覚ではグロテスクな光景。肉はお客の求めに応じて切り分けられるし、魚も目の前でしめられて捌かれる。

 大きな鯉が俎板の上を跳ね回り、頭を落とされ、鱗を剥がれるのを、お客は「安心」のために見ている。目の前で生きていた食材だから、その鮮度を疑う余地はない。


 当然ながら市場内を流れる水は、血で赤く濁り、内臓が浮いているし、あたりは生臭い。


 ここでの「新鮮さ」とは、血の臭いなのだ。新鮮な食材とは、直前まで生きていたものに違いないのだから、絶たれたばかりの生命の勢いは、なまなましく残る。


 けれど日本人の感覚では、これらを新鮮さとは感じず、不潔に思うだろう。まだ鮮血が流れる鯉の切り身を、新聞紙に包んで渡されることに、戸惑いを覚えるに違いない。


 生きているものを、そのまま食材として受け取ることに、抵抗がある。見えない所で殺して、切り身にしてパックにして貰わなくては清潔な食材にならない。切り身の鮮度を見分けるすべを知るより、目の前で血が流される方が、ずっと確かなのに。


 この市場には、日本人から見て「清潔」ではないけれど「新鮮」な食材が溢れていた。キュウリにはどれも花が付いていたし、なぜだか冬だというのに並んでいる竹の子も、掘り出したばかりの土まみれ。


 冷凍ギョウザに混入していた農薬や殺虫剤については、ここでは何とも言えない。けれどこの市場に溢れる食材のような、生命の手渡しではない。農薬や殺虫剤はとんでもない話だが、日本人が「安心」できるように、究極の「清潔」を目指して加工される、その過程で、様々な消毒剤も使われているのではないだろうか。


 ギョウザぐらい、自分の家でつくろうよ、という気持ちになったのは、私だけではないだろう。


 上海といえば、やはり上海蟹を食べたくなって、専門店に出かけた。そこで心にとまった光景二つ。


 一つはオーナーの手の甲だ。何十年も蟹の爪で手の甲を引っかかれ、その強弱で鮮度を測り続けながら、上海でのし上がってきた。蟹の爪には毒があるそうで、手の甲はデコボコに盛り上がっていた。


 もうひとつは、店の片隅で黙々と蟹の足から身を取り出している、地方からの出稼ぎの少女たち。彼女たちの賃金が上がれば、上海蟹の一皿の値段が跳ね上がるのは間違いない。


(この記事は文藝春秋2008.6号に掲載されました。)



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