SIA人物紀行

◇フォトデッセイ◇ アジアに抱かれる ベトナム編

 アメリカがベトナムから敗退して三十年、ドイモイ政策で市場経済を導入したこの国は、オートバイに恋人を乗せた若者で溢れていた。ハノイのホン川に夕暮れが迫るころ、川岸ではラブシーンが繰り広げられ、市内の公園ではカップルが、光の届かない場所を選んで身を寄せ合う。


 パン屋の店先では、フランス統治時代からの伝統を受け継いだフランスパンの香りが、通行人の鼻腔をくすぐる、かと思えば、映画館では入り組んだ不倫関係を想わす恋愛映画の宣伝ポスターが、賑やかだ。


 この国では恋愛小説、恋愛映画が、大量消費されている。暑い国独特の開放的な本性が、経済成長の力に押し上げられて地表に噴出したのかもしれない。



 南部に行くにつれ、陽光も強くなり、恋人たちの熱気もあからさまになっていく気がしたのは、私の記憶のどこかに、マルグリッド・デュラスの『愛人(ラ・マン)』の残影がこびりついていたからだろう。


 ―――十八歳で私は年老いた。


 この一文が醸す熟れたくだもののような、性の煮つまった喘ぎのような、フランス植民地支配の断末魔の美。


 フエ在住の恋愛小説作家チャン・トゥイ・マイさんと共にメコン川に浮かび、さざ波立つ水面に顔を映すと、そこがつい三十年前、ベトコンたちが身をひそめ、アメリカ兵に悪夢を植え付けた場所だということも忘れて、文学の中に恋が匂い立ってくるのは不思議だ。


 同じ川が『愛人』の若い男女を出合わせ、『地獄の黙示録』の舞台ともなる。カフェオレ色の川が、甘やかにも恐ろしげにも見えてくる。





 ふいに「恋愛」と言う言葉が、とても贅沢なものに思えてきたのは、ハノイの南方の農村で会った、元女性兵士を思い出したからだ。その人はダオさんと言い、十四歳の息子と一部屋の家でつましく暮らしていた。


 ダオさんはアメリカが手こづったあのホーチミン・ルートで弾薬運搬や看護に当たっていたとき、防空壕が空爆でつぶれて聴力を失った。そればかりか激しい頭痛や妄想の後遺症に悩まされ、戦争が終わった後も人並みの恋愛や結婚を諦めなくてはならなかった。


 何年もの山中での戦闘の末、栄養失調やマラリア、身体の損傷、精神的なトラウマなどで社会復帰が出来なくなった元女性兵士は、決して少なくなかったという。


 それでもダオさんが息子を持つことが出来たのは、ある政策のおかげだった。一九八〇年代に入って、こうした戦争傷病女性に対して、婚姻外の出産が容認されたのだ。いやひそかに推奨されたふしもある。



 ある日ダオさんに、村の友人が子供を持つことを勧めた。その後街を歩いているとき昔顔馴染みだった男性と会う。昼間その男性がダオさん宅を訪問し、そのまま出て行く。そして夜、男性が再びやってきて性交渉を持ち、一回の性交渉で子供が出来た。息子のズン君だ。父親である男性にはお礼のお金が支払われ、その後母子の前に二度と顔を見せてはいないという。


 誰かが男性を世話したのか、偶然の出会いか。


 しかしダオさんが別の人に語った話では、共に戦った元女性兵士が運良く結婚でき、一夜だけの約束でダオさんに夫を貸してくれたのだという。生死を共にした女性兵士は、家族以上の絆があるのだとか。


 何が真実なのかわからない。が、そうまでして子供を持ちたかったのは、自分を世話する身内が欲しいという理由だけではないようで、土地や田畑は基本的に国の管理下にあるという社会主義の事情も少しずつ見えてきた。子を産み一個の家族であると認められることで、特別に土地が与えられ、生活の基盤が得られたのだ。


 不倫や恋愛の結果の母子家庭ではない。そのような人間的な営みをはなから諦めたところに在る、生きていくための、受胎だけを目的にした性。その一回の性交渉が、もしかしたら彼女の人生で、最初で最後のセックスだったかもしれない。


 国力増強のためには傷ついた女性の子宮まで酷使するのかと、最初私の中にわいた疑問や怒りだったが、寄り添う母子の姿には、安らぎと無条件の愛があった。どんなことがあったにせよ、彼女は息子を持てて良かったのだ。


 一夜かぎりの性交渉で子供を得て、ベトナム社会で生きる場所を獲得した元女性兵士は、何千人にものぼるそうだ。


(この記事は文藝春秋2006.12号に掲載されました。)



   ◇フォトデッセ... »