SIA人物紀行

◇フォトデッセイ◇ アジアに抱かれる 韓国編



パク・ワンソさんの短編「親切な福姫さん」では、儒教社会の男性優位な家族観のなかで、子供たちのために耐えて生きる女性の半生が描かれている。
自己主張の強い私たち団塊世代の女性から見ると、何とももどかしい限りだが、
パク・ワンソさんの人気ぶりからすると、韓国ではこうした辛抱強い女性が、自分
の母親への情や哀れみにも通じる共感でもって、受け入れられているのも確かなようだ。



主人公の福姫さんは、夫の身勝手さに耐えるとき、自分の実家にあったアヘンの小さな缶を取り出し、気持を落ち着ける。


アヘンはもちろん今では違法薬物だが、その昔は自宅の庭などで罌粟が栽培されていて、まさに自家薬籠中の劇薬だった。医療が行き渡らない時代、痛みの緩和や胃腸薬としても使われたそうだ。


このアヘンを多量に服用すれば死ぬことができる・・それは弱い女にとっての心の支えでもあった。


実際に何人かの女性に会って聞くと、母親や祖母の世代には、女性が懐剣を持ち、自殺も可能な長い針がついた耳掻きを所持していたという。日本の武家の妻を思い出す。


韓国人の精神世界を読み解くキーワードとして、しばしば「恨」(はん)の一字が引き合いに出されるけれど、「恨」を抱えた女性たちのアヘン缶や懐剣、耳掻きは、ちょっとコワイ。


この短編の最後で、福姫さんはアヘンの缶を漢河に投げ捨てる。捨てられた「恨」は、美しい弧を描いて落ちて行く。
文学を核にして現代の社会に触れるSIAである以上、何としても「福姫さん」を探し出さねばならない。「恨」を象徴するアヘン缶も見てみたい。




福姫さん探しに奔走した。けれど離婚した女性は憑きものが落ちたようにサバサバとして未来志向だし、中年カップルは日本より人生を謳歌していて、明るく元気なのである。


59年に北朝鮮の元山から逃れてきたユ・ジュワンさんは持ち前の独立心とキリスト教の愛に支えられて、呆れるほどポジテイブだし、アクテイブ・シニアを名刺の肩書きに置くクオンさん夫妻は、定年後の恋愛の素晴らしさを主張。お匙を持てる力があればセックス出来る、と妻の手をとっての体力自慢。




「恨」はどこに在るのかと、全州市を訪ねれば、市の施設「老人福祉館」の正面に大きな垂れ幕が下がり、「性には定年がない」と書かれていた。この福祉館では、韓国で初の老人性相談センターが置かれていて、おずおずと覗いてみると、日本ならとうに自ら性を諦めてしまっていると思われる老人が二人、真剣に性の不満を訴えていた。


センターの責任者に聞くと、半年で181名の相談があり、異性を求める人には出会いを、性的に充足できない人には性補助具の使用法を含むアドバイスもしているそうだ。


そのあっけらかんとした雰囲気に呑まれてソウルに戻ってくると、非婚を主張する女性グループが待っていた。母親たちの「恨」の人生はイヤだとして、男性とお付き合いはするが結婚はしない主義の人たちだ。


有名大学の女子学生を中心に、ラジオ番組まで持って、非婚を訴えている。


日本でもフェミニズムの先魁となった中ピ連が、中絶やピルは女性の権利だと叫んでいた時代があったけれど、非婚を訴えた記憶はない。いまや日本の女性は、韓国とは逆に婚活に必死である。


韓国で「恨」は消えてしまったのか。





非婚宣言女性たちと話しているうち、いや消えてなどいないと思われてきた。「恨」があるからこそ、このような運動も起きるのではないかと。


非婚主義者だけでなく、若い女性たちは一様に「母親のような生き方はいやだ」と言う。ほぼ例外なく、高学歴の女性はそう言う。感謝しながらも、母親の自己犠牲への反発は強いのだ。


母親が抱える「恨」へのアンビバレントな感情が、若い女性の新たな「恨」になっている気がする。それだけ母親に寄り添って生きているからで、否定とは結局、関わりの濃さ、共感の深さの結果なのではないかとも思った。


それにしても「恨」を脱皮した中年熟年男女の陰りのない生命謳歌には参る。つくづく日本人の血は、薄いと感じた。


(この記事は文藝春秋2009.12号に掲載されました。)



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