SIA人物紀行

◇フォトデッセイ◇ アジアに抱かれる 台湾編

 台湾の海洋少数民族タオ族は、台東から小型飛行機で二十分の沖合いに浮かぶ蘭嶼(ランユイ)島に住んでいる。作家シャマン・ラポガンさんは、この島を拠点に自らの民族のアイデンティティを、伝承的神話的作品として発信しつづけている。島で生まれたのち台北で勉強し、民族の大切さに気づき、タオの地へと戻ってきた、いわばインテリ。



 彼の文学に近づくためには、タオの労働に付き合うしかなかった。まずは山に入って木を伐りタタラと呼ばれる船を作る。その山は植林された日本の山と違い、足元の雑木をナタで払い倒しながら上っていかなくてはならなず、これがまた急傾斜で、転ぶ、滑る、落ちる、の連続。枯れた木を掴むと文字通り共倒れだが、細く頼りないつたや小枝でも、生きた木なら全体重でぶら下がっても大丈夫。生命(いのち)は偉大なり、だ。


 伐り倒した木を削り始める前に、シャマンさんは祈る。より良い「友人」として私たちの役に立って下さいと。二十一本の友人のおかげで一隻のタタラが出来る。


 タタラは主として夏場のトビウオ漁に使われるが、タオ族にとってはトビウオも友人だ。


 友人の犠牲で自分たちの生命(いのち)が養われている。祈りや感謝はそこから生まれてくるらしい。


 山を下りて海岸線を行くと、饅頭のような形をした小山が、海に突き出している。この山は古くからのタオの墓地である。


 タオ族の死者は母体の胎内にいたときの恰好で埋葬されると聞いた。これは限られた土地の有効な利用方法で、横に寝かせて埋めるより場所をとらない。死者さえも謙虚でエコロジーに協力的、となると、大変な分量の重油を使って火葬にする我々は、ちょっと耳が痛い。


 チベットでは鳥葬といって死者は鳥たちの食料になる。こちらも資源の有効利用。地球上には約六十億の人間がいるけれど、全員火葬することになったら、それこそ石油資源の無駄使いで、大気も汚染される。


 やはり母親の胎内に戻った恰好で、小さな穴に埋葬されるのが合理的だ、とは思うものの、目の前にある饅頭山は、どう見ても岩だけで出来ていて、その小さな穴さえ掘るのも困難な様子。さらに聞けば、この山はその昔、風葬の場所だったそうな。


 はたと気がついた。風葬ならば一切の土地を使わず、朽ち果てた末にその名のとおり風に舞うチリとなって消えるのだから、これ以上のエコロジー、省エネはない。


 あらためて良く見ると、饅頭山の一角の岩壁が削られたようにくぼみ、テラスのように棚が出来ている。この山で平らな場所といえば山頂かこのテラスだけで、山頂まで死者を運び上げるのは絶壁で無理、となるとおそらくはこの岩棚が、風葬の場所だったのだろう。


 そこは死者たちがチリになって大自然に還って行く場所 ――じっと目をこらすと、岩棚のあたりから、ふわふわとチリが舞い上がり、海へと流れていく気配。


 チリが降りていく海面に目を転じて、どきりとした。小舟が浮かび、その周辺の海で何かが動いている。


 何人もの人の頭だ。何をしているのだろう、列を作ったり円を描いたり。どうやら追い込み漁らしい。


 小舟と人の頭は少しずつ動いて、饅頭山の岩棚近くを回り込むようにして岸へとちかづいてきた。


 十人ばかりの男たちが陸へと上がってきた。小舟から魚が水揚げされて汐溜りへと放り込まれていく。体調七〇センチはあろうか、サンマとタチウオを一緒にしたような美しい魚。サヨリだという。


 やがて百尾ものサヨリが、人数分だけ均等に、地面に並べられた。漁に参加した男たちは老人から若者まで様々だし、体力も能力も差があるはず。小舟や漁網の所有者に、多く分配される様子はない。ここでは小舟や漁網などの「資本」の配当はないらしい。


 生命(いのち)をかけた漁では、誰もがみんな、たったひとつの生命を提供して獲物を手に入れる。生命のひとつひとつで見れば、そこに優劣も程度の差もない、ということだろう。


 生命をかけて手に入れた魚を食べて生き、そして死ぬ。目を上げると饅頭山の岩棚がすぐ近くにあった。


 チリになって海に降りそそいだ死者は、サヨリの美しい体となり、そしてふたたび男たちの獲物となる。永遠の循環が、私の視界の中で繰り返されている気がした。



(この記事は文藝春秋2007.6号に掲載されました。)



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