クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

スイスの戦争犯罪・消えたユダヤ人資産

2009年02月23日 | 欧州・中東関連
         中立国スイスの戦争犯罪
                消えたユダヤ人資産
                                        我々にとってスイスと言えば、先ず風光明媚な美しい国と言う観光案内その物のような印象である。しかしこの国は、その立場を守るために、想像外のしたたかさを持っているようである。私はこのスイスを発祥とする国際赤十字の裏側の事やIOC不祥事の事を知ってから、この国の暗部を覗いてしまった様である。ここに記録する事実もそのうちの一つであり、全ては、スイスが共産主義ロシアか?ナチス・ドイツか?の二者選択で、ナチスを選んだ事に起因している。

スイスの銀行が、ホロコーストの犠牲者の金だと知っていながら、それを返そうとはしていないと言う事実がある。第二次世界大戦の始まる前、ヒットラーの台頭に恐れを抱いた欧州のユダヤ人は、その資産をスイスの銀行に隠した。しかしこの金は戻らなかったのである。スイスの銀行は、これらのユダヤ人預金者の多くが、殺されてしまっている事を知っていた。そしてこの金を自分たちの物にしてしまった。生き残ったヤダヤ人たちは、この資産の返還を求めている。その返還要求額は200億ドル。ただホロコーストの生き残り逹は年をとっている。彼等が死んでしまえば銀行の勝ちとなる、長い間、隠されてきたスイスの闇の歴史が明るみに出ようとしている。
第二次大戦を戦った関係国は、歴史上、はっきりと善と悪とに色分けされている。スイスは、中立国と決めていながら、どうやら悪に荷担した事によって、その戦争責任を問われその仮面を剥がされなくてはならない。

1930年代の半ば、ナチスの恐怖に怯えたユダヤ人たちは、続々とスイスに逃れてきた。彼等は金や宝石をコートの裏地に縫い込んだり、飲み込んだりして密かに運び込んだ。彼等は金さえあれば、命を守るための何らかの交渉ができると思っていたから、財産こそは、彼等の命を守る唯一の切符であった筈である。これによってスイスの銀行は、莫大な預金を獲得することになった。預金者の身元は決して明かさないと言うスイスの銀行法の存在が、追い詰められたユダヤ人を引きつけたのである。莫大な欧州の資産が唯一安全な場所と思われたスイスの銀行に集められた。
しかし、ナチス・ドイツでは、ゲッペルス宣伝相が『我々の我慢の限界が来たら、ユダヤ人の口を封じてやる。若し彼等が我々に戦争を仕掛ければヨーロッパのユダヤ人が滅びる結果となる』と演説し、ユダヤ教会を取り壊し、彼等を鼠になぞらえて貶めた。ユダヤ人が銀行に口座を持つことも、犯罪とされたのである。

スイスの銀行から、家族の財産を取り戻す事に生涯を懸けてきた人が居る。『ナチスは、何の罪もない人々から金品を奪ったのである。 50 年以上経った今でも、あれは盗み以外の何物でもないと、そう思っている。ナチスはユダヤ人であれば、誰彼の見境も無く収容所へ送った。ユダヤ人は人格も誇りもはぎ取られ財産も全て没収された。ユダヤ人の子供はゲシュタポに目を付けられていた。彼等は、子供は労働力にならないので、生かしておいても無駄だと考えていたからである。だから子供達は見つからないように何時も、隠れていなくてはならなかった。ユダヤ人が押し込められたゲットーは飢餓状態であった。遺体が腐るが儘に道端に捨てられていた』と生き残りのE.T.グロスさんは語る。
彼女の母親は、ナチス高官にスイスの銀行から賄賂を贈って自由を買おうとしたが、告発され、ポーランドの収容所送りとなった。ユダヤ人ではない乳母によってゲットーから助けられた彼女は、終戦後、スイスの銀行から母の預金を返還して貰おうとして、スイスの銀行を訪れた。欧州のほかの国々は、戦争によって無残にも荒れ果てていたが、スイスは奇妙なほどに、戦争の痕跡が見られない国であった。ホロコーストを生き抜いたグロスさんのようなユダヤ人達は、預けていた預金を取りにスイスにやって来た。しかし、スイスの銀行は、彼等が用意できるはずのない書類を要求したのである。彼女には母親の死亡証明書を出すように言ったと云う。この事は非常識で人を馬鹿にした事である。ホロコーストで何があったかを銀行は知っていた癖にである。彼女は結局預金を取り戻す事は出来なかった。母親の口座の手掛かりも、煙のように消えていたのである。
ニューヨークでは、ユダヤ人の団体が、スイスの銀行に対して200 億ドルの預金の返還を求める裁判を起こしている。この知らせに、訴訟に加わりたいと言う電話が毎日のように掛かってくる。生き残った人達は既に高齢で、若し彼等が死に絶えれば預金は永遠に銀行のものになってしまうので、裁判を長引かせることは出来ない。
ユダヤ人生存者のS・フォティ氏は、口座の番号を覚えていた。彼は現在の価値にして 200 万ドルの預金の返還を求めたが、スイスの銀行から断られている。銀行は一切の記録を消してしまっていたので、溯って調べる事ができないのである。
米国在住のユダヤ人団体代表のブロンフマン氏は、ホロコーストの犠牲者達の資産を取り戻すために立ち上がった。彼はスイスの歴史を白日の下ら晒し出す計画を練った。この国の仮面を引き剥がそうとしたのである。
彼は『スイスは一般の人が思っているような善良で清潔な国ではない』と言い切り、彼と共に行動したシンガー氏は『第二次大戦を戦った人達は、はっきり善と悪に決め付けられているが、スイスは中立の立場を取っていたはずである』
この動きを察してか、スイスは突然ユダヤ人名義の口座が幾つか見付かったと表明した。彼等はそれを動きを止めさせる賄賂と受け取った。ユダヤ人団体は、米国政府に働きかけ上院銀行委員会に協力を要請する。若しこの委員会がその気になれば、米国に於けるスイスの銀行を営業停止にする力を持っているからである。又、大統領に対して戦時中のスイスに関する文書を公開するように求めた。
1997年11月、米国に逃げて来たスイスの銀行の警備員C・メイリをユダヤ人の団体が保護をした。彼はナチスに関する文書を銀行が処分しようとしているのを知り、その一部を持ち出して逃げたのである。その書類は戦前のスイスがナチスと密接な関係であることを示す物であった。
ブロンフマンは、戦時中の書類を丹念に調べた。すると崇高な人類愛に満ち溢れていたはずのスイスと言う国の実像が、全く違ったものであったことを発見した。 
戦前、スイス・アルプスのリゾート地では、ナチスの党員が制服を着て行進することが許されていた。スイスのナチス指導者の葬儀がヒトラーの命令で盛大に行われた事もある。スイスのナチス党はドイツと同様に反ユダヤ主義であり、スイス政府はドイツでのユダヤ人の苦境は良く知っていた。しかしスイス政府は、スイスのユダヤ化を食い止めようとしていたのである。
1938年のナチスの外交文書には、ドイツからスイスにユダヤ人が流出しないように、スイス政府に配慮を求めたものがある。スイス政府も又、ユダヤ人のパスポートに『J』のスタンプを押すようにナチスに要請している。ドイツからスイスへの脱出を拒まれたユダヤ人達は、国境から送還されたが、それは死を意味していた。
ヒトラーはユダヤ人を悪その物と決め付けたが、それに対してスイス政府は、何の異議も唱えなかった。スイスの銀行は、平和の時代より戦時のほうが遥かに儲ることを知った。スイス国内には、スイス製の兵器を買い付けにくるドイツ人で溢れ、欧州を引き裂いた戦争もスイスに取っては、絶好の金儲けのチャンスであった。自国の中立を守るためのスイス兵たちは、ナチスがやって来ると、戦わずに山岳地帯に退避し、スイスの軍需工場は、空襲の心配も無くナチスのための兵器を、昼夜を分かたず生産していた。
この間に 7名のメンバーからなるスイスの連邦議会は、『戦争に勝利するのはヒトラーであり、従ってスイスを守るには、ベルリンにとってスイスが必要不可欠の存在になれば良い』と言うことを秘密のうちに決議していた。議長のゴラクは、自分こそヒトラーと取引の出来る人物であると自負し、彼はドイツが戦争に勝利して、後は丸く収まると考えていたのである。
スイス・ベルンの米国公使館は、7 名の連邦議員のうちで、ヒトラーと手を切り、スイスの自立性を守ろうとしていたのは僅かに二名だけであったと記録している。結局スイスはヒトラーと悪魔の取引をしてしまったのである。スイスの銀行は軍需産業の中核に置かれた。兵器を初めとするドイツの物資は、戦争産業と化したスイスの銀行の効率的な金融システムに支えられていた。戦時中には、ドイツ・マルクは国外では通用しなかった。従ってドイツは国外で通用する通貨がどうしても必要となった。ドイツはそれをスイスで手にいれていたのである。ナチスは、スイスの助けによって戦争を遂行したが、やがてドイツの資金は底を衝く筈であった。しかし、ナチスは占領した地域で奪った金を、ベルリンで溶解してスイスに持ち込んでいたのである。スイスはそれらが盗品であるかどうかに付いては詮索しなかった。スイスの国立銀行は、戦争の始まる前にドイツがどれくらいの金を保有しているかを、正確に掴んでいる。保有量以上の物が送られてくれば、それらは略奪品であると判断できていたはずであった。
ナチスの略奪ルートのもう一つは、強制収容所である。ユダヤ人達は殺害前に金歯や髪の毛を取られている。ユダヤ人から取り上げた金は、特別の箱に入れられていたが、スイスの銀行家たちは一切の質問はしなかった。銀行家に言わせると、金の出所がどこかなどとは聞かないと言うのは、普通の事であるとのことである。
ホロコースト行きを逃れたユダヤ人はスイスの人道主義に望みを託してスイスへと向かうが、安全だと信じたスイスで彼等は僅か一日で逮捕される。彼等は列車で国境に送られ強制送還される。スイスではユダヤ難民の受け入れは、自国民の食料不足となるとして、それが彼等にどう言う運命をもたらすかを承知の上で拒否したのである。スイスは紛れも無くナチスのユダヤ人虐殺に手を貸したのである。
それでも生き延びたユダヤ人たちは、終戦後になって自分たちのスイスの銀行口座が消滅していることを知ることになる。スイスの銀行は、第三者の会計士に無くなった口座の調査をさせたが、会計士は何も発見することは出来なかった。かっては口座は存在したが、その記録はなくなっていると云う事であった。しかし、このスイスと言う国では、様々な記録が詳細に残されている。例えば、収容所よりも自殺を選んだ囚人の独房の血を洗い流した費用の請求書までが残っている国である。そのくせ、何千ものユダヤ人の銀行口座の記録は、不思議な事に全く残っていないのである。
難民にとってスイスは魅力的な国であった。暗闇の中に差し込む一筋の光りのようにスイスは、難民を引きつけた。昔スイスの山道には『スイスは放浪者の天国、家なき旅が富をもたらす』と言う看板が立てられていたが、今はそれも伝説である。絶対にユダヤ人は入国させない言う空気が漂い、欧州のどこの国より反ユダヤ主義が高まり、ナチスに手を貸してユダヤ人たちを絶滅収容所へと送っていたのである。スイスで入国を拒否されたヤダヤ人の多くは、その後フランスから東方行の列車に乗せられ、ポーランドのアウツシュビッツで不幸な最期を遂げるが、その中にはスイスの銀行に口座を持っていた人が多く、スイスは金は受け入れたが、人は受け入れなかったのである。
1942年にスイスの警察は『送り帰された人が処罰を受けると云うのは噂に過ぎない』と言う声明を発表したが、実態は送還が死刑の宣告であったのである。このスイスの方針に従わなかったスイス人も罰せられている。ある警察署長は、人道的立場からユダヤ人がライン川を越えて入国してくるのを黙認したために、告発され裁判で有罪となっている。
戦争の初期には、スイスはまだ難民を受け入れていた。しかし間もなく方針が変わって何万もの難民が国境で追い返されるようになる。首都ベルンはドイツの強力な支援者でありながら、表面的には戦争とは無関係に見えた町である。しかし、ドイツの銀行家や武器商人たちはこの町で様々な取引をしていた。ナチスが占領地区で略奪した膨大な数の美術品もベルンのギャラリーで競売に掛けられている。それにナチスが不法に手にいれた銀行手形や株券は、ベルンのドイツ大使館に送られ、スイスの銀行がそれを買い取っていたのである。スイスは最早ナチスに取ってなくてはならないパートナーであった。スイスの銀行は、我が身を守るためであったにせよ、ナチスの代わりに世界中と取引をしていたのである。
ドイツの軍需工場が連合軍の執拗な爆撃を受けているとき、中立国スイスの軍需工場は爆撃の心配もなく、せっせと武器を生産してナチスに供給していたのである。スイスの援助が無かったら、ナチスは二か月も持ちこたえられ無かったであろうと推測されているくらいである。ヒトラーがスイスに攻め込まなかったのは、山岳戦に長けたスイス軍を恐れたためと言われる。スイス軍はアルプスの高い山に要塞を作り、山道には地雷を付設していたからでもあるが、それ以上にナチスの侵攻を阻んだのは、スイス国立銀行の存在であった。金の卵を産むガチョウをナチスが殺すはずはないとは、当時ヒトラーの副官であったシュピッツィの証言である。彼によれば、ナチスの資金調達のためにはスイスはどうしても必要であり、武器を供給してくれる数少ない国の一つであったので、占領とか侵略とかは問題外であったと云う。
1945年、欧州大戦は終り、ナチスの野望は潰える。この時スイスは、世界で最も裕福な国の一つになっていた。銀行の預金高は戦前の三倍に膨れ上がり、スイスは難しい危険なゲームを勝ち抜いたのである。ある元スイスの情報部員は、振り返ると余り綺麗なやり方ではなかったが、スイスは賢く行動したのであると評価している。
戦後になって連合国側は、スイスに対してナチスが略奪した金を返還するように強く迫っている。所がその最中に東西冷戦が勃発して、西側の関心事は急速にスイスから離れ、ソ連に対抗する強いドイツを求めたのである。同時にユダヤ人の財産の問題も忘れ去られてしまったのである。そして全てのユダヤ人が死んでしまったと言う話と共にその預金口座が消滅する。
ユダヤ人団体代表のブロンフマン氏は、そろそろ結論を出すときと言い切っているが、はっきりと結論を出してくれる銀行は今のところ皆無である。しかし彼の行動は、諦め掛けていた人達に希望を与えた。彼は、金だけでは無く、人の死を利用して金儲けをするなどのことが許されるはずがないとして、この運動を正義の問題としている。スイスの銀行協会は、最近になってユダヤ人団体の圧力に負けて、二億スイス・フランの基金を設立し、ホロコーストの犠牲者への返還に当てられるとし、ナチスの金塊に付いての調査委員会も設立することを発表した。
ユダヤ人団体が、ニューヨークで起こした返還訴訟は今も継続中であるが、事務局では
『支払うかどうかの問題ではなく、何時?幾ら?の問題である』と言っている。
大戦後、西ドイツの産業は、スイスに隠していた資金のお陰で素早く立ち直り、経済は奇跡の復興を遂げた。しかし、ホロコーストで犠牲になったヤダヤ人への補償は、五十年以上も経った今、やっと始まったばかりなのである。

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1 コメント

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記事を閲覧して (未定)
2011-05-05 10:45:37
youtubeにて、この問題のビデオを見ました。
”ユダヤ人から見たスイス”の色が強すぎるのではないかとも思えたのですが、

事実は事実ですよね。事実上、スイスの国立銀行が戦争への参入をしていた事実は変わりません。

非常に興味深い出来事でした。

民族迫害への関心を高める、一つのきっかけとなるのではないかと考えます。

そして世界の国々でも、どこかで同じような出来事が起こっています。

私たちは、それに対する関心を持つべきだと、強く思いました。

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