クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

ガガーリン 世界初の宇宙飛行士の悲劇

2009年02月23日 | ロシヤ関連
        ユーリー・ガガーリン
             世界初・宇宙飛行士の悲劇

1961年 4月 11 日、その男・ガガーリンは人類として始めて宇宙へ飛び立った。地球を一周する 108分間の飛行が終わる頃、彼には世界中からの視線が注がれて居た。
地球に戻ったとき彼のみせた笑顔は、世界中の人を魅了した。国家の指導者フルシチョフと肩を並べるガガーリンの姿は、自由で幸福な国、新しいソ連の幕開けの象徴であった。しかし、その僅か七年の後、彼は訓練中に飛行機事故で 34 歳のその命を落とす。彼の死は、未だに謎に包まれている。彼の葬儀に集まったブレジネフ率いる当時のソ連上層部は内心安堵の溜め息を漏らしていたのである。彼等はガガーリンの本当の姿が公になることを望んでいなかったからである。英雄として生きることに無理を感じていたガガーリン、その栄光の裏には、国家体制に縛られ息が詰まりそうになっていた男の姿が見えるのである。

ガガーリンは、1934年 3月 9日生まれ、スモレンクス州の共同農場で育つた農民の子である。1941年、ガガーリンが七歳のとき、ナチス・ドイツはソ連との不可侵条約を破棄してソ連国内に侵攻し、独ソ戦の火蓋が切られる。彼の村もドイツ軍に占領され、一家は家を追い出され防空壕がその住家となる。そんな暗い時代でも彼は飛行機好きで、明るく活発な少年に育ち、その頭脳の明晰ぶりは一際目立っていた。
彼は空を飛ぶ事に夢を持ち、16歳のとき、ヴォルガ川沿岸のサラトフの町にあった技術学校に入る。この町で彼は航空クラブに入り、大空への自分の夢を確信した。
1955年に、彼はオレンブルグ航空士官学校への入学を許可される。彼の夢は戦闘機のパイロットになることであった。当時のソ連は国全体が希望に湧いていた時代である。恐怖の独裁者スターリンが死に、その跡を継いで共産党書記長になったフルシチョフが、これまでに無い開放的な社会を作り上げようとしていたからである。後に『春の訪れ』と言われた時代である。フルシチョフ新政権は世界初の人工衛星打ち上げを計画していた。この計画の発表には世界が驚いたが、米国人を始め世界の大部分の人は、それがソ連の手で成功するとは誰も思ってもみなかった。

1957年、驚愕の打ち上げ実況放送がラジオで伝えられる。『史上初めて人工衛星が宇宙に飛び立ちました。スプートニクは、計算された軌道で地球を周回しています。……』スプートニク1号の成功を伝えるものであった。そして、秘密裡にスプートニクのロケットを開発してきたコロリョーフに、新たな指示が下される。それは一か月後のソ連革命 40 周年記念に、もう一度衛星を打ち上げ、世界を愕然とさせる事をせよと言うものであった。そして1957年 11 月 3日、コロリョーフはライカ犬を乗せたロケットを打ち上げ、地球周回の軌道に乗せることに成功する。それは宇宙に生命体を送ることができることの証明であり人類がそれに到達する日は近いと予測させる快挙であった。
米国はNASAを設立し人類を宇宙に送り出すための開発競争は過熱していくが、その頃ガガーリンは戦闘機のパイロットとして、北極圏内の基地にいた。彼は、飛行機乗りになることも実現したし、医学生ワーリャと結婚もして娘も生まれて幸せの絶頂でもあった。しかしこんな時でも彼には、より高く、より早く、より遠くへ飛びたいと言う情熱は消えることはなく、月へ行きたいと言う願望を妻にも漏らしている。
1959年 10 月、彼は軍から新しい機体のパイロットを探していると聞かされる。新しい機体とは宇宙船のことであった。こうして、その六か月後には、彼は宇宙飛行士としての訓練を受けることになる。全国から集められた飛行士候補は 2.000人、様々なテスト・訓練の後、それは 20 人に絞られ、最終的にはその内の六人が合格している。彼はその最終候補に残った。
1960年 6月 18 日、ガガーリンらの六人の訓練中のパイロット達は、彼等のうちの一人を宇宙に運ぶ巨大なロケット『ボストーク1号』と対面する。彼等はその巨大さに驚愕すると共にある不安に駆られる。それは、パイロットが乗り込むカプセルが、ただの大きな球体で主翼も何も無かったからである。
最終訓練が始まると候補者はガガーリンとチトフの二人に絞られた。彼等は今までのパイロットとしての経験にはない訓練を受ける。それはモルモットのように座ったきりで重力に耐える訓練であった。打ち上げの数日前までは、チトフが選ばれる可能性が高かったようである。訓練の責任者であったカマーニン将軍は1961年 4月 5日の日記に『チトフか?ガガーリンか?どちらを選ぶべきか?どちらも優秀な人材であるが、この数日間、チトフを支持する声が多いと感ずる。私自身も彼を信頼している』と書いている。
しかし、最後の決め手となったのは、彼等自身の能力ではなかった。チトフは『彼が選ばれるような気がしていていた。何故なら彼は農民の息子であり、労働者階級の出身であったからである。しかし私は教師の子供であった』と回想しているが、彼の感じた事は正しかった。当時の国家にとっては、ガガーリンの方が完璧な候補であったのである。彼の陽気な性格は人々に好感をもたれていたし、彼が選ばれれば、共産社会では労働者・農民の息子も成功することができると言う証明にもなるからである。彼には宇宙飛行士としての能力だけではなく、英雄として何を象徴できるかが重要視されたのである。
こうしてガガーリンは、第1号に選ばれ<チトフはその控えに回る。今でもチトフは、あの時は行きたかったと残念がっている。
1967年 4月 12 日、数年間のロケット開発と11か月の宇宙飛行士の集中訓練を経て、人類が始めて宇宙に飛び立つ日が、バイコヌール宇宙基地にきた。打ち上げの数分前になってもチトフは、自分が行ける望みを捨てなかった。ガガーリンが船内検査で、その防護服に僅かにでも穴等の欠陥が発見されれば、交替の可能性があったからである。しかしガガーリンの準備が完璧と通知され、彼はようやく防護服を脱ぐ。
このボストーク1号は機械による自動操縦の宇宙船であった。一度宇宙に飛び出せば、ガガーリンに何が起きるかは分らないのに、手動に移すコードは彼には正式には伝えられていなかったのである。それは亡命などの防止のためであると言うから、いかにもソ連らしい。しかし責任者のヤズトフスキーは、処罰を覚悟で、ガガーリンがカプセルに座ろうとしたとき、そのヘルメットを叩き秘密のコードを伝えた。しかし、その前にカマーニン将軍がこっそり教えていたらしい。

27歳の人類初の宇宙飛行士は、『出発だ』と叫びながら宇宙へ飛び出していく。彼は地球の引力を離れるまでの短い時間、操縦席に押しつけられ、初めての重力体験をする。
宇宙船が軌道に乗った後、『こちら宇宙飛行士、異常なし、順調に飛行中』とガガーリンの声が地上に届く。窓のシェードが開いたとき、ガガーリンは始めて宇宙から地球を見て『素晴らしい、まさに驚異だ』と叫んだ。
地球で見守る人々は、彼が打ち上げ後も生きていられるかどうかは、半信半疑であったが宇宙船は地球の軌道を旨く回っていた。ソ連政府は、この功績を世界に発表する準備をしていた。『こちらはモスクワ、全ラジオ局は以下のニュースを放送して下さい。タス通信の公式発表です。世界初の宇宙飛行士が、今宇宙空間にいます。…』とラジオが叫ぶ。 ガガーリンの母も姉のゾーヤも、この時まで彼が宇宙に行くことは知らなかった。一緒に住んでいたのに、彼はちょっと遠くへ出張に行くと出掛けただけであったからである。
しかし大気圏に再突入する際に彼は危機に直面する。宇宙船のカプセル部分と打ち上げ用ロケットとの切り離しが旨く行かなかったのである。混乱したガガーリンは地上からの指示には従わず、測定不能の高さで脱出してしまったのである。
そして、モスクワから遠く離れた農村で或る農民が爆発音の後に、空から降りてくる人間を発見した。それが、ガガーリンであった。
彼の家は、報道陣に取り囲まれ、家族は世界中のマスコミからの取材に困惑する。この歴史に残る宇宙飛行から二日後、ソ連政府は世界一の有名人になった彼の偉業を称えた。モスクワの飛行場に帰還した彼は、支持者で国家元首でもあるフルシチョフに帰還報告をする。この二人はスターリンの恐怖政治から解き放たれた自由な社会の象徴となった。
飛行場からパレードは赤の広場に向かい、クレムリン迄凱旋をする。1961年 4月 14 日の事であった。
チトフは、政治家たちと肩を並べているガガーリンを見て史上初の宇宙飛行がどれ程大きな事かを思い知らされる。それてしても、今まで誰かが特別の存在となることは決して許され無かったソ連の国家体制の中で、彼だけは例外になったのである。人々は農民の息子の彼に自分を重ね合わせ、誰もが彼を身近な存在に感じていたし、フルシチョフもこの点を特別な宣伝価値と考えていた。彼はこの後、ソ連の広告塔として世界中を回ることになった。インド、日本、エジプト、メキシコ、キューバ、カナダ、リビアそして米国等、彼の行く先々で群衆は熱狂した。しかし彼は孤独であった。彼には栄光を分かち合える人物が誰一人としていなかったのである。そして名声のプレッシャーを最初に感じ始めたのは繊細な彼の妻ワーリャである。彼女には名声も脚光も苦痛でしか無く、英雄の妻と言う立場に不安を募らせていたのである。次第に彼女を悩ます問題が増え、夫をあらゆる誘惑から守り、しかも周囲の目に晒されることに疲れ果てていた。
1961年秋、彼の一家はクリミヤ半島の行楽地フォロスに、かってのライバル・チトフと共に行く。しかし二人は毎日酒浸りで、滞在最終日にガガーリンは事件を起こす。これが彼の私生活に影を落とす最初のスキャンダルであった。彼は酔った揚げ句にホテルの看護婦アンナ・ルマセイエワに乱暴を働き、揚げ句にバルコニーから下へ落ちてしまう。
この一週間後、共産党会議に出席した彼には、はっきりとした傷跡が残されていたが、真実は隠され、表向きの釈明は子供を抱いていて転倒したと言うことになっていた。この後も彼は、モスクワの高級ホテルでソ連の女子体操選手と問題を起こしている。
フルシチョフ時代の彼はソ連の友好大使の役割を果たしていたが、彼には既に宇宙計画に携わっていたときのような喜びは無かった。勿論共産党員ではあったが、政治には関心がなかった。彼にとっての支えは、フルシチョフとの親密関係にあったが、後にこの事が多くの人から憎悪を買うことになる。大統領府補佐官ブルラッキーは『軍部の長官の中には彼を快く思っていなかった者もいたらしい。彼がフルシチョフと親しく、その時代にかなり影響力を持っていたことに激しい嫉妬心を抱いていたからである』と証言する。
1964年、ガガーリンの世界は崩れ出した。フルシチョフが解任されて、ブレジネフがその後任となったからである。彼は孤立し、身分も地位も失ったも同然になってしまった。
以前のように外遊も無く、軍の中でも昇格するでも無く、何の役目も回してもらえ無かった。ガガーリンは混乱し、それが彼の人生を悲劇に変えたのである。
そんな彼を救おうとしたのはカマーニン将軍であり、彼を宇宙船ソユーズ号の飛行に備えさせることとし、彼に体力の回復と新しい宇宙技術の勉強をさせる。こうしてかれは復活し、次ぎに打ち上げ予定のソユーズ1号でコマノフ宇宙飛行士の控えに成る。
しかし、このソユーズ1号は、地球に帰還するときのパラシュートが開かずに、コマノフは宇宙船もろとも地球に叩き付けられて、潰されてしまうと言う大失敗となる。
この失敗には多くの人に責任があった。コマノフの打ち上げ以前に、その宇宙船の欠陥に気付いていたガーリン達は、問題点のリストをKGB経由でブレジネフに送った。しかしその警告は闇に葬られた。夫人から飛行中止を請われたコマノフは『もう断れない。若し断ったら人類初の宇宙飛行士ガガーリンが飛ばなくてはならない。そして彼は死ぬことになる』と言ったと伝えられている。ガガーリンは、コマノフにとって自分だけが頼りであると分かっていたので、必死でブレジネフとの会見を要請するがいずれも拒否される。
コマノフは、死を覚悟して宇宙に飛び立ち、地球に激突する寸前に『私は殺されたのだ』と叫ぶ。ガガーリンは、仲間を救う事すら出来なかった自分の無力を思い知らされ、その上に彼の宇宙行きは二度と無いと宣告される。彼は最早、宇宙飛行士ではなく、その存在はただ、生きた歴史の証人でしか無かったのである。
そして彼は失意のまま、出発点であった飛行機の世界に戻ることになる。しかし航空機の急速な進歩によって、宇宙飛行士の彼も飛行機パイロットとしては再教育の対象である。1968年 3月 27 日、教官セルーギンとガガーリンはテスト飛行をやって事故に遭遇する。
事件から 30 年以上経った今でも、彼等の乗っていた飛行機の残骸は、モスクワ近郊にある保管所の地下で厳重に管理されている。彼の最後の数時間に一体何が起きたのであろうか?当日彼等のフライトを担当した航空管制官にも未だに、事故が何時に起きたのさえ分かっていない。航空管制官ピコフスキーは『何が起こったのか全く理解できない。調査報告では、墜落は離陸から 31 分後になって居るが、その十分後に彼と連絡を取っている』と証言している。この事件の真相を掴んでいると確信している人物は、元宇宙飛行士のアレクセイ・レオノフである。『調べて見ると事故当時同じ空域に、普段ならもっと高空を飛ぶはずのSE11と言うジェット戦闘機がいた。この戦闘機のために彼等はコントロールを失ったのである』と言う彼が、事故の二十年後にファイルを見直して見ると驚くべき事が発見された。調査委員会のメンバーの一人として彼が提出した資料の一部が、彼の筆跡ではない物にすり替えられていたのである。       保安担当者のイゴール・リプキンも『何者かが自分の名声のために事実を隠そうとしていたのは明白である』と言う。
34 歳で亡くなったガガーリンとセルーギンの国葬は、1968年 4月に行われたが、彼の死の謎を解く機会は永遠に無いであろう。
現在宇宙開発は目覚ましい発展を遂げ、『我々を宇宙へと掻き立てたのはガガーリンである』と言っていた米国のアームストロングも1969年 7月 20 日に月面に立っている。各国の飛行士は宇宙空間で共同作業を行うまでになっている。この月への思いを誰よりも強く持っていたのはガガーリンではなかったか?彼の死に、ソ連の相変わらずの暗部を垣間見たようである。

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