『三星堆』新発見
今日ほど我が身のボケの前兆を自覚した事はない。たまたま甲子会々報と一緒に送られて来たマインドアップを開き、東芝中川常務の寄稿文を読んでいて、ひょっと右の裏表紙を見たら『機器快々』の欄で『三星堆』のことが書いてあった。慌ててカレンダーを確認する。今日は七月二十四日ではないか?しまったと思ったがもう後の祭り、世田谷美術館の三星堆展示期間は終わっていた。この展示が始まった四月の終り頃は絶対に行きたいが未だ期間があるしと思ってそのままにしておいたのである。世田谷美術館へは世田谷通りを行けば良いと聞いていたので、あの道なら大脇さんが亡くなった時、会社の車に便乗させて貰ったから環八からの進入方法はよく分かっているし、わが車のカーナビにもセットしておいたので気軽に考えていた。しかし結果はこの体たらくで見逃してしまった。しかし七月の末から京都市立美術館でやるから、これも高崎から楽々と日帰りできるので今度は都合を付けて行きたい。この三星堆に付いては少し古い百科事典などには勿論記載されていないし、中国古代史を語るものの中でも殷・周の青銅器に付いては書いてあるが、発見が比較的新しいので三星堆のことは見当たらない。
そこで展示会に行くにしても予備知識があると無いでは面白さに格段の差があるので例によってテレビの力を借りて三星堆の事を予習しておこうと思う。それにしても『三星堆』の様な固有名詞がワープロ変換キーに依って一発で出てくると、知らないのはお前だけだと言われているようで、少し悔しい思いがする。
三星堆遺跡は1986年 7月に一号坑が発見され、その一ケ月後に二号坑の存在が分かった。この二つとも農民が偶然発見したものと言うところは兵馬傭坑の発見に似ている。因みにこちらは1974年の発見、1979年からの一般公開である。三星堆遺跡の場所は四川省成都の東北に当たる。
この三星堆出土品の造形の異様さと量の多さに発掘関係者は興奮して言葉を失うほどであったと言う。その出土品が考古学者を驚かせたのはその独自性であり、遺物の巨大さと造形のユニークさはそれまでの古代中国青銅器の常識を打ち破る物であった。例えば立人像は82㌢もの台座の上に身長172 ㌢の人物が立っているのであり、人物造形としては異例の巨大さである。これはその上部のみ。
巨大と言えば神樹と言われる青銅製の樹木は高さが実に 4㍍、夫々の枝の先についた花の蕾には鳥が止まっている。
そして三星堆遺跡を世に喧伝した青銅仮面の数々も大きさと奇怪さでは負けていない。
最大の『縱目仮面』は幅138 ㌢、高さ65㌢、蟹の目のように飛び出した目玉は見る者に強烈なインパクトを与える。説明なしでこれらを始めて見てこれが古代中国の文物だと見抜く者は皆無であろう。
それほど非中国的造形に満ちているし、この他十数点に上る人頭像や巨大な鳥・虎などの動物、更に菱形の目や車輪そっくりの物など、全てが前代未聞の出土品であったのである。
古代の青銅技術は当時としては超ハイテク技術であった。大量且つ高温の熱のコントロールは専門の技術奴隷が行ったらしいが、発掘された大量の青銅器は、かってこの地に高度な技術が存在し、それをもたらした富の集中と厳しい社会統制があったことを物語っている。この事は同時に発掘された大量の金製品に付いても同様である。
長さ142 ㌢、重さ 463 ㌘の黄金の杖はその時代の中国では類を見ない大きさである。その表面には人物や鳥とか魚が流暢な線で刻まれて居る。
青銅人像の顔に張られた黄金のマスクも素晴らしい。薄く引き伸ばされた金が漆を混ぜた接着剤で張られているがこれらは発達した錬金術が確立していた証しでもある。
これらの三星堆文物の特徴は非中国的と言う一語に尽きるが、中国的なるものとは多くの人が見ている殷・周の青銅器である。しかしながら殷・周の青銅器は器の類いが中心であり、表面の装飾模様は伝統と単純な重複を重んじ個性的な創意工夫は抑制されて居た。これに対して三星堆遺物は人間とか動物等の不規則な物を自由な発想とイマジネーションで表現して居る。この表現や形式の違いを比べても黄河文明の中核たる殷・周文化と三星堆文化の間には大きな違いが有る。この様な常識を覆す異質なものの出現は学会にも大きな波紋を投げ掛けたのである。こんな時代にこれだけの技術、文化を持った集団が四川に居たと言う事実、これを育んだ人々は一体どういう人達であったのか?しかもこれだけの文化がどうして滅んでしまったのか?と言う疑問等、中国古代史を塗り替える画期的な発見であったのである。発見されてから十二年、三星堆遺跡の謎は多くの学者によって究明されて来た。しかしいまだに不明の部分が多く論議が繰返されている。例えば去年の七月、日本への輸送の梱包中に立人像の頭の後ろにある数個の小さい穴に付いて日本側のスタッフが質問したら中国の学者たちが或る者は花飾りを差す穴と言い、又或る者は鋳造技術的に必要な穴と言って激論する場面もあった。十二年経っても見解が分かれ未だ定説を見ない文物も少くない。それでも出土文物の全てが日用品ではなく祭祇用であるということだけは一致している。
1986年の発掘記録には何時も二人の青年が映っている。陳顕丹と陳徳安である。二人とも当時は 30 歳、四川大学考古学教室の同級生で四川省文物考古研究所の若手研究員として発掘に従事していた。そのうちの一人、現在四川省文化庁職員の陳顕丹の案内説明では発掘現場の近くに土塁があり、近くで見ると地層の色が異なって居ると言う。これは人工的に突き固められたもので商(殷)代の始めの頃、祭壇として作られた物であり、こうした土塁が三つあったことから『三星堆』と言う地名になったそうである。現場の近くの三星堆遺跡工作站長は陳徳安、出土した土器の整理が重要な仕事である。
三星堆遺跡が世の中の注目を集めたのは今から十四年前、ここが巨大な城壁に囲まれた古代都市であると判明したからである。陳徳安によると現存する西の城壁は長さが 800㍍、底辺 40 ㍍、高さ 8㍍の台形に突き固められている。その中で一か所、抉り取られているところは城外と城内を結ぶ川の跡だそうである。東西2100㍍、南北2000㍍の広大な城壁が築かれたのは、今から3600年の昔であると言う。それを築くに要した膨大な労働力から極めて統制の取れた強大な王国が存在したことが窺える。ある推定によるとこの城壁内には 15300世帯、約 76000人が居住していたと見られる。そして最も重要な祭りごとは、支配者の居住区であった城内の北側の神殿で行われていた。
三星堆と同じ頃、或いは少し前この平原には少くても九つの城壁都市があったらしいが、歴史が黄河中心に展開されるようになって三星堆王国はいつしか人々の記憶から忘れ去られ、四川盆地は野蛮の地と言われるようになってしまったのである。
しかし古代に限って言うならば四川盆地の成都平原は文明的に他の地域を凌駕する最高水準の位置にあったことは間違いがない。三星堆文明はいかなる精神世界に支配されていたのか?これを縦目仮面から追って見る。
1871年、ドイツ人シュリーマンに依るトロイの遺跡発掘は世界をアッと言わせた。ホメロスの叙事詩には詩れていても、神話伝説だと思い込まれていたものが考古学で実証されたからである。同じ事が三星堆でも確認されたのに大騒ぎにならなかったのは、この時代の神話伝説が現代人に馴染みがうすかったからである。李白や杜甫の活躍した唐の時代なら大騒ぎになっていたであろう。何故なら唐の人達は三星堆の王様を知っていた。唐の時代四川盆地にあった『蜀』の国は黄河流域の長安の都から見て飛んでもない僻地であった。蜀へ行く道の険しさを李白は『…蜀道の難きは晴天に上るより難し、蠶叢と魚鳬、国を開く事何ぞ茫然たる、爾来四万八千歳、秦塞として人煙を通ぜず』と詠んでいる。開国した事が最早霞んでしまったと言われた蠶叢と魚鳬とは三星堆の王様であり、二人の王は唐の時代まで伝説の王として人々の脳裏に生きづいていたようである。伝説が書物として始めて記されたのは三星堆が滅びてから1200年後の秦の時代の『華陽国史』である。『蜀侯に蠶叢あり、その目は縦なり、始めて王と称す…』目が縦とはいかなることか?諸説紛々として定説が無かったが、それが今回の『縦目仮面』の発掘で一挙に解決してしまったのである。陳徳安の話では2号坑から目玉の飛び出した仮面が出土して考古学者や歴史学者はこれを華陽国史の記述と一致させて考えたと言う。しかし伝説と考古学とを安易に結び付ける事には批判の声もある。
巨大仮面にはついていないが小形の仮面には鼻筋にそって取り付けられている飾り付けがある。巨大仮面にもあったらしいが紛失したものと思われる。この妙な飾りは三星堆の龍のシンボルであり、つまり縦目仮面は王であり、龍であり、神だったのである。
三星堆の龍には大きな特徴がある。例えば神樹の枝からぶら下がって頭を持ち上げている龍の額には二本の縦飾りがついているし、立人像のガウンには空を舞う龍が描かれているがその頭にも飾りがついている。この様に三星堆の龍にはいずれも縦飾りが付いている。同じ縦飾りを付けている縦目仮面は従って龍であると言うことになる。
『山海経』と言う中国の古書には妖怪としか思えない想像上の獣たちが数多く登場するが『神がいる、人面蛇身にして赤く、目は直にして真ん中に乗る…』と言う記述もある。目が立っていると言うのは縦目仮面そのものではないか?更に『神が目を閉じると暗くなり目を開くと明るくなる。食わず寝ず息せず風雨をば招き九陰(トコヤミ)をも照らす、これを蜀龍と言う…』縦目仮面は三星堆初代の王蠶叢であると同時に蜀龍であるという事になる。だから青銅に鋳造して神殿に祭ったのである。人面蛇身にして赤くとは多分、仮面は神殿の中でとぐろを巻いた赤い蛇の置物の上に置かれていたのであろう。
車の車輪のような物には太陽であるとか目であるとかの二つの説が有る。太陽説は中心の円形の物が太陽で軸は光線を意味し、目であるとすると中心が目で軸は視線、外輪は視野となる。実はこの目が三星堆のキーワードである。立人像のガウンにも目と思しき模様が有る。虫の目とからだと見る事ができるが、これとよく似た形が殷の甲骨文字にある。甲骨文字の蜀は上がこの模様の目、下が虫の形である。甲骨文字の蜀と言う文字は蚕が蠢く様の意味としている。一方古代蜀の国の王の蠶叢の蠶は蚕であり、叢は集まると言う意味であった。蠶叢とはこの地に養蚕をもたらした人物と言うのが今の定説である。当時織物が盛んであった事は紡錘車が数多く出土していることからも明らかである。成都は古くから絹の産地として知られてきた。四川省の省都の成都が錦城と言われるのも、成都を貫く川が錦江と言われるのもいずれも絹の錦に由来する物であった。四川から雲南を経てインドに至る西南シルクロードの起点は絹の都成都とであった。今も尚、町の特産品である絹織物をこの地にもたらしたのは、遥か四千年の昔、三星堆初代の王『蠶叢』であった。
『華陽国史』には蠶叢の次ぎの王は『柏灌』、その次ぎが『魚鳬(ギョフ)』と記してある。三星堆王国は魚鳬王の時、栄華を極めたがこの時代に滅んでしまっている。魚鳬の鳬は水鳥を意味し従って魚鳬とは魚と水鳥と言う意味になる。 三星堆博物館には黄金の間があり、その中央にあるのが142 ㌢の黄金の杖である。この金製品は古代中国の金の出土品としては最大級である。この杖の側面には魚が描かれ、その魚を突き刺している矢の中ほどには水鳥が描かれる。その矢の示す方向に人の顔が彫られているが、これは魚鳬王の顔ではないだろうか? 又青銅製の巨大な鳥も出土しているが、これには魚鳬王の権力と王をおそれ敬う人々の心が反映して居る。三星堆の土器の特徴は水鳥の頭の形をした取っ手を持つ『鳥頭柄杓』等のように曲がっている嘴、長い首といずれも鵜の特徴を示している。この鳥頭柄杓は酒を酌み交わす道具であった。出土した膨大な数の鳥頭柄杓は当時の人々の生活が酒を楽しむ余力ある食生活であったことを物語っている。このような文物から魚鳬王は漁業、とりわけ鵜飼い漁を広めた人物と推定される。驚いた事にこの鵜飼いが大昔そのままの形で三星堆博物館の側の川で行われている。日本の鵜飼い漁と違うところは鵜の首に綱を付けないことで伝統が育んだ高度のテクニックであると言える。
三星堆博物館は奇妙な形をしている。中央が突き出ているのでありここは神の樹のレプリカを置くホールである。この神樹は三星堆の人々の精神世界を最も色濃く反映する文物である。陳徳安の説明では古代の中国人は大樹を崇拝し神々が大樹を伝わって天地を往来すると考えていたので、神樹は太陽を祭祀する時に用いられたと言う。大昔、空には十個の太陽があった。それを弓の名人が射落としたと言う話は中国人なら誰でもが知っている神話であり、神樹は空に十個の太陽があった頃の大樹である。古代中国人は太陽は鳥が背負って運んでいると考えていた。神樹に九羽しかいないのは一羽は太陽を運んでいる最中だからといわれる。
今日ほど我が身のボケの前兆を自覚した事はない。たまたま甲子会々報と一緒に送られて来たマインドアップを開き、東芝中川常務の寄稿文を読んでいて、ひょっと右の裏表紙を見たら『機器快々』の欄で『三星堆』のことが書いてあった。慌ててカレンダーを確認する。今日は七月二十四日ではないか?しまったと思ったがもう後の祭り、世田谷美術館の三星堆展示期間は終わっていた。この展示が始まった四月の終り頃は絶対に行きたいが未だ期間があるしと思ってそのままにしておいたのである。世田谷美術館へは世田谷通りを行けば良いと聞いていたので、あの道なら大脇さんが亡くなった時、会社の車に便乗させて貰ったから環八からの進入方法はよく分かっているし、わが車のカーナビにもセットしておいたので気軽に考えていた。しかし結果はこの体たらくで見逃してしまった。しかし七月の末から京都市立美術館でやるから、これも高崎から楽々と日帰りできるので今度は都合を付けて行きたい。この三星堆に付いては少し古い百科事典などには勿論記載されていないし、中国古代史を語るものの中でも殷・周の青銅器に付いては書いてあるが、発見が比較的新しいので三星堆のことは見当たらない。
そこで展示会に行くにしても予備知識があると無いでは面白さに格段の差があるので例によってテレビの力を借りて三星堆の事を予習しておこうと思う。それにしても『三星堆』の様な固有名詞がワープロ変換キーに依って一発で出てくると、知らないのはお前だけだと言われているようで、少し悔しい思いがする。
三星堆遺跡は1986年 7月に一号坑が発見され、その一ケ月後に二号坑の存在が分かった。この二つとも農民が偶然発見したものと言うところは兵馬傭坑の発見に似ている。因みにこちらは1974年の発見、1979年からの一般公開である。三星堆遺跡の場所は四川省成都の東北に当たる。
この三星堆出土品の造形の異様さと量の多さに発掘関係者は興奮して言葉を失うほどであったと言う。その出土品が考古学者を驚かせたのはその独自性であり、遺物の巨大さと造形のユニークさはそれまでの古代中国青銅器の常識を打ち破る物であった。例えば立人像は82㌢もの台座の上に身長172 ㌢の人物が立っているのであり、人物造形としては異例の巨大さである。これはその上部のみ。
巨大と言えば神樹と言われる青銅製の樹木は高さが実に 4㍍、夫々の枝の先についた花の蕾には鳥が止まっている。
そして三星堆遺跡を世に喧伝した青銅仮面の数々も大きさと奇怪さでは負けていない。
最大の『縱目仮面』は幅138 ㌢、高さ65㌢、蟹の目のように飛び出した目玉は見る者に強烈なインパクトを与える。説明なしでこれらを始めて見てこれが古代中国の文物だと見抜く者は皆無であろう。
それほど非中国的造形に満ちているし、この他十数点に上る人頭像や巨大な鳥・虎などの動物、更に菱形の目や車輪そっくりの物など、全てが前代未聞の出土品であったのである。
古代の青銅技術は当時としては超ハイテク技術であった。大量且つ高温の熱のコントロールは専門の技術奴隷が行ったらしいが、発掘された大量の青銅器は、かってこの地に高度な技術が存在し、それをもたらした富の集中と厳しい社会統制があったことを物語っている。この事は同時に発掘された大量の金製品に付いても同様である。
長さ142 ㌢、重さ 463 ㌘の黄金の杖はその時代の中国では類を見ない大きさである。その表面には人物や鳥とか魚が流暢な線で刻まれて居る。
青銅人像の顔に張られた黄金のマスクも素晴らしい。薄く引き伸ばされた金が漆を混ぜた接着剤で張られているがこれらは発達した錬金術が確立していた証しでもある。
これらの三星堆文物の特徴は非中国的と言う一語に尽きるが、中国的なるものとは多くの人が見ている殷・周の青銅器である。しかしながら殷・周の青銅器は器の類いが中心であり、表面の装飾模様は伝統と単純な重複を重んじ個性的な創意工夫は抑制されて居た。これに対して三星堆遺物は人間とか動物等の不規則な物を自由な発想とイマジネーションで表現して居る。この表現や形式の違いを比べても黄河文明の中核たる殷・周文化と三星堆文化の間には大きな違いが有る。この様な常識を覆す異質なものの出現は学会にも大きな波紋を投げ掛けたのである。こんな時代にこれだけの技術、文化を持った集団が四川に居たと言う事実、これを育んだ人々は一体どういう人達であったのか?しかもこれだけの文化がどうして滅んでしまったのか?と言う疑問等、中国古代史を塗り替える画期的な発見であったのである。発見されてから十二年、三星堆遺跡の謎は多くの学者によって究明されて来た。しかしいまだに不明の部分が多く論議が繰返されている。例えば去年の七月、日本への輸送の梱包中に立人像の頭の後ろにある数個の小さい穴に付いて日本側のスタッフが質問したら中国の学者たちが或る者は花飾りを差す穴と言い、又或る者は鋳造技術的に必要な穴と言って激論する場面もあった。十二年経っても見解が分かれ未だ定説を見ない文物も少くない。それでも出土文物の全てが日用品ではなく祭祇用であるということだけは一致している。
1986年の発掘記録には何時も二人の青年が映っている。陳顕丹と陳徳安である。二人とも当時は 30 歳、四川大学考古学教室の同級生で四川省文物考古研究所の若手研究員として発掘に従事していた。そのうちの一人、現在四川省文化庁職員の陳顕丹の案内説明では発掘現場の近くに土塁があり、近くで見ると地層の色が異なって居ると言う。これは人工的に突き固められたもので商(殷)代の始めの頃、祭壇として作られた物であり、こうした土塁が三つあったことから『三星堆』と言う地名になったそうである。現場の近くの三星堆遺跡工作站長は陳徳安、出土した土器の整理が重要な仕事である。
三星堆遺跡が世の中の注目を集めたのは今から十四年前、ここが巨大な城壁に囲まれた古代都市であると判明したからである。陳徳安によると現存する西の城壁は長さが 800㍍、底辺 40 ㍍、高さ 8㍍の台形に突き固められている。その中で一か所、抉り取られているところは城外と城内を結ぶ川の跡だそうである。東西2100㍍、南北2000㍍の広大な城壁が築かれたのは、今から3600年の昔であると言う。それを築くに要した膨大な労働力から極めて統制の取れた強大な王国が存在したことが窺える。ある推定によるとこの城壁内には 15300世帯、約 76000人が居住していたと見られる。そして最も重要な祭りごとは、支配者の居住区であった城内の北側の神殿で行われていた。
三星堆と同じ頃、或いは少し前この平原には少くても九つの城壁都市があったらしいが、歴史が黄河中心に展開されるようになって三星堆王国はいつしか人々の記憶から忘れ去られ、四川盆地は野蛮の地と言われるようになってしまったのである。
しかし古代に限って言うならば四川盆地の成都平原は文明的に他の地域を凌駕する最高水準の位置にあったことは間違いがない。三星堆文明はいかなる精神世界に支配されていたのか?これを縦目仮面から追って見る。
1871年、ドイツ人シュリーマンに依るトロイの遺跡発掘は世界をアッと言わせた。ホメロスの叙事詩には詩れていても、神話伝説だと思い込まれていたものが考古学で実証されたからである。同じ事が三星堆でも確認されたのに大騒ぎにならなかったのは、この時代の神話伝説が現代人に馴染みがうすかったからである。李白や杜甫の活躍した唐の時代なら大騒ぎになっていたであろう。何故なら唐の人達は三星堆の王様を知っていた。唐の時代四川盆地にあった『蜀』の国は黄河流域の長安の都から見て飛んでもない僻地であった。蜀へ行く道の険しさを李白は『…蜀道の難きは晴天に上るより難し、蠶叢と魚鳬、国を開く事何ぞ茫然たる、爾来四万八千歳、秦塞として人煙を通ぜず』と詠んでいる。開国した事が最早霞んでしまったと言われた蠶叢と魚鳬とは三星堆の王様であり、二人の王は唐の時代まで伝説の王として人々の脳裏に生きづいていたようである。伝説が書物として始めて記されたのは三星堆が滅びてから1200年後の秦の時代の『華陽国史』である。『蜀侯に蠶叢あり、その目は縦なり、始めて王と称す…』目が縦とはいかなることか?諸説紛々として定説が無かったが、それが今回の『縦目仮面』の発掘で一挙に解決してしまったのである。陳徳安の話では2号坑から目玉の飛び出した仮面が出土して考古学者や歴史学者はこれを華陽国史の記述と一致させて考えたと言う。しかし伝説と考古学とを安易に結び付ける事には批判の声もある。
巨大仮面にはついていないが小形の仮面には鼻筋にそって取り付けられている飾り付けがある。巨大仮面にもあったらしいが紛失したものと思われる。この妙な飾りは三星堆の龍のシンボルであり、つまり縦目仮面は王であり、龍であり、神だったのである。
三星堆の龍には大きな特徴がある。例えば神樹の枝からぶら下がって頭を持ち上げている龍の額には二本の縦飾りがついているし、立人像のガウンには空を舞う龍が描かれているがその頭にも飾りがついている。この様に三星堆の龍にはいずれも縦飾りが付いている。同じ縦飾りを付けている縦目仮面は従って龍であると言うことになる。
『山海経』と言う中国の古書には妖怪としか思えない想像上の獣たちが数多く登場するが『神がいる、人面蛇身にして赤く、目は直にして真ん中に乗る…』と言う記述もある。目が立っていると言うのは縦目仮面そのものではないか?更に『神が目を閉じると暗くなり目を開くと明るくなる。食わず寝ず息せず風雨をば招き九陰(トコヤミ)をも照らす、これを蜀龍と言う…』縦目仮面は三星堆初代の王蠶叢であると同時に蜀龍であるという事になる。だから青銅に鋳造して神殿に祭ったのである。人面蛇身にして赤くとは多分、仮面は神殿の中でとぐろを巻いた赤い蛇の置物の上に置かれていたのであろう。
車の車輪のような物には太陽であるとか目であるとかの二つの説が有る。太陽説は中心の円形の物が太陽で軸は光線を意味し、目であるとすると中心が目で軸は視線、外輪は視野となる。実はこの目が三星堆のキーワードである。立人像のガウンにも目と思しき模様が有る。虫の目とからだと見る事ができるが、これとよく似た形が殷の甲骨文字にある。甲骨文字の蜀は上がこの模様の目、下が虫の形である。甲骨文字の蜀と言う文字は蚕が蠢く様の意味としている。一方古代蜀の国の王の蠶叢の蠶は蚕であり、叢は集まると言う意味であった。蠶叢とはこの地に養蚕をもたらした人物と言うのが今の定説である。当時織物が盛んであった事は紡錘車が数多く出土していることからも明らかである。成都は古くから絹の産地として知られてきた。四川省の省都の成都が錦城と言われるのも、成都を貫く川が錦江と言われるのもいずれも絹の錦に由来する物であった。四川から雲南を経てインドに至る西南シルクロードの起点は絹の都成都とであった。今も尚、町の特産品である絹織物をこの地にもたらしたのは、遥か四千年の昔、三星堆初代の王『蠶叢』であった。
『華陽国史』には蠶叢の次ぎの王は『柏灌』、その次ぎが『魚鳬(ギョフ)』と記してある。三星堆王国は魚鳬王の時、栄華を極めたがこの時代に滅んでしまっている。魚鳬の鳬は水鳥を意味し従って魚鳬とは魚と水鳥と言う意味になる。 三星堆博物館には黄金の間があり、その中央にあるのが142 ㌢の黄金の杖である。この金製品は古代中国の金の出土品としては最大級である。この杖の側面には魚が描かれ、その魚を突き刺している矢の中ほどには水鳥が描かれる。その矢の示す方向に人の顔が彫られているが、これは魚鳬王の顔ではないだろうか? 又青銅製の巨大な鳥も出土しているが、これには魚鳬王の権力と王をおそれ敬う人々の心が反映して居る。三星堆の土器の特徴は水鳥の頭の形をした取っ手を持つ『鳥頭柄杓』等のように曲がっている嘴、長い首といずれも鵜の特徴を示している。この鳥頭柄杓は酒を酌み交わす道具であった。出土した膨大な数の鳥頭柄杓は当時の人々の生活が酒を楽しむ余力ある食生活であったことを物語っている。このような文物から魚鳬王は漁業、とりわけ鵜飼い漁を広めた人物と推定される。驚いた事にこの鵜飼いが大昔そのままの形で三星堆博物館の側の川で行われている。日本の鵜飼い漁と違うところは鵜の首に綱を付けないことで伝統が育んだ高度のテクニックであると言える。
三星堆博物館は奇妙な形をしている。中央が突き出ているのでありここは神の樹のレプリカを置くホールである。この神樹は三星堆の人々の精神世界を最も色濃く反映する文物である。陳徳安の説明では古代の中国人は大樹を崇拝し神々が大樹を伝わって天地を往来すると考えていたので、神樹は太陽を祭祀する時に用いられたと言う。大昔、空には十個の太陽があった。それを弓の名人が射落としたと言う話は中国人なら誰でもが知っている神話であり、神樹は空に十個の太陽があった頃の大樹である。古代中国人は太陽は鳥が背負って運んでいると考えていた。神樹に九羽しかいないのは一羽は太陽を運んでいる最中だからといわれる。
三星堆の記事を読んで興味を持ったのですが、
参考にした文献はありますか?
記事が面白かったので是非読んでみたいのですが。
「謎の古代王国」-遺跡は何を語るのか?
除 朝龍著 1993年 日本放送出版協会
「中国古代文明の謎」
除 朝龍著 1998年 あじあブックス
何れも書店にはないと思いますので
図書館で。