楽しく遍路

四国遍路のアルバム

初めての遍路 ③ 民宿寿・・・切幡寺-(吉野川)-鴨島駅前

2012-02-18 | 四国遍路
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2001.12.23 二日目 曇  民宿寿・・・切幡寺-(吉野川)-鴨島駅前 

5:40 起床 9時間も寝ました。こんなにも眠る体力が、まだ残っていたのです。少々の自信となりました。
北さんが納め札を記入している間、私は足にテープを巻きました。まだ水泡にはなっていませんが、皮膚は弱っていました。「触るとヒリヒリする」と記録しています。間接、筋肉は、まだ大丈夫でした。
7:00 朝食 この宿では、もっと早くにお願いすることは出来たと思われます。なぜ7:00だったのでしょう。
理由は書き残していませんが、おそらく、私たちの日常生活では、7:00より早い朝食は、なかったのです。食欲の減退はありませんでした。
7:45 民宿発 遅く着いて、遅く出立しました。夕方、暗くなってから、昼間の付けを払うように早歩きする「悪癖」は、これからも長く続くことになります。 
少し歩くと、やはり、足が危険信号を発しました。軽く痛みを感じましたが、対処の仕様はなく、歩き続けました。やがて麻痺したのでしょう、痛みは感じなくなりました。しかし問題が消えたわけではありません。その時こそ、問題は深刻度を増しているのでした。昨日歩いた距離が15Kほどだったことから、「15K足」、すなわち15Kしか歩けない足、と自分の足を命名しました。
北さんは、まあ大丈夫なので安心した、と記録しています。

    
さて、すでにおわかりのように、この辺を歩いているときの私は、ひたすら三泊四日の「試し遍路」を歩ききることに精一杯で、周辺の景色を楽しむ余裕はありませんでした。
そこで今日のページは、これまでたびたび登場している北さんの記録・「同行三人」をそのまま引用、ご紹介します。撫養街道の景色、歴史、出来事を、私には信じられないほどの余裕で、記録しています。いい紀行文です。
以下、「である調」の文は北さんのものです。カッコ内の「ですます調」と写真説明は、私の文です。

7:45 民宿寿食堂 発
6番安楽寺まで2㌔ほど。ゆっくり歩き出した。どうやら足に異常がないのでほっとした。

8:05 第六番温泉山安楽寺 着 本尊・薬師如来 真言宗(高野山)



安楽寺宿坊の空海真筆!
慶長年間、阿波では8ヶ寺の「駅路寺」が定められました。遍路を含む旅人に宿などの便宜を供し、かつ、人の流れを監視する制度でした。そのうちの瑞運寺が、万治年間、温泉山安楽寺と併合、それ以降、安楽寺が「駅路寺」とされてきました。
後の区切り歩きで、私たちは安楽寺の宿坊に泊めて貰いましたが、さすが「駅路寺」の伝統を受け継いでいる、と感じました。なかでも、本堂への通路沿いの、空海の文字の石刻は必見です。空海の真筆を拡大し、石に刻んであります。触ることも出来ます。写真は「飛白十如是」です。文字の中に隠れている蝶や人物やを、探すだけでも楽しいです。
8ヶ寺の一つ、同じく撫養街道沿いの長谷寺(ちょうこく・じ)については、「七回忌アルバム⑥」をご覧ください。

長衣を着た人物

8:36 安楽寺 発 
途中、少し人家の密集する曲がり角で通りがかりの中年の女性が近づいてきて(舐めながら歩きぃ、と)飴一個ずつを戴く。聞いていたお接待なのだが、対応できずただ礼をいったきりだった。これが一回目のお接待。
和三盆にするサトウキビ畑が点々とある。畑は小石がいっぱいで地味はよい状態とはいえない。やがては吉野川に入る小さな支流が作る扇状地の扇央部分に当たるらしい。田んぼには石は少ないとは現地の人の話である。軍手をはずすと指先が冷たい。このあたりは山川出版の「徳島の歴史散歩」にある原士階級(はらし・蜂須賀藩の郷士)が開発した土地であるかもしれない。だとすると最近まで水田が全く不可能なところであったはずだ。扇状地は扇頂部で水が地下に浸透し、扇央部にはほとんど水がないのである(関東周辺だと桑畑などの水をあまり必要としない作物が植えられる)。近くに吉野川が流れているが、大戦後に揚水機の発達する迄は農民にとって苦しい所であったようだ。最近になって水稲栽培、京阪神への近郊蔬菜栽培が出来るようになったようである。家々は落ち着いて豊かな感じである。



十輪寺(談義所)側に「ガソリン喞筒(そくとう)」寄贈の石碑がありました。喞筒とはポンプのことで、北さんの記述にある「揚水機」だと思われます。七回忌遍路で撮影したものです。

畑で殻を焼いている老夫婦に「これが和三盆の畑か」と問うと、招じいれられ、サトウキビを持ってきて見せてくれる。私の知っている縁日などで売っている沖縄産(甘さが不足なのだそうだ)と比べると細い。約20㌢程の8本で1㌢に満たない和三盆の砂糖ができるのだという。上品な甘さをもつ和三盆は高級和菓子のは欠くことが出来ない存在となり、茶道文化の重要な位置を示すようになっていった。甘さの少なかった江戸時代、「阿波藍」と共に、「天下の台所」と言われた大阪に近い徳島藩の現金収入の為の重要産業であった。和三盆を2個、サトウキビ4本、ポカリッスエット1缶のお接待を受ける。今回もただお礼をいうのみで内心は戸惑っている。和三盆や藍産業の展示施設・藍屋敷があるはずで見学しておきたいが諦める。



この辺を二度目に歩いたH20年、老夫婦の和三盆作業場を探してみましたが、見当たりませんでした。サトウキビ畑も、少なくなっていました。阿波和三盆は、讃岐和三盆と競い、技術交流し、発展しました。



石井町の藍屋敷 「拾い歩き」遍路で訪ねました。阿波の藍は品質の良さで知られていたそうです。吉野川下流域の名東(みょうどう)、名西(みょうざい)、板野、阿波、麻植(おえ)などが主産地で、固形化して藍玉として出荷したといいます。名西は、遍路宿「名西旅館」から、耳に馴染んでいる方もいらっしゃると思います。

8:55 第七番光明山十楽寺 着 本尊・阿弥陀如来 真言宗(高野山)
9:25 発
この辺りの家の庭には赤い実のなる「もちの木」が必ずある。きちんと剪定されて庭の主木となっていて、太いものがある家ほど古い家だという。大方の庭はきれいに整備され気持ちがよい。寄せ植えの垣根が多い。赤い実をつけているピラカンサ、赤・白のサザンカの花も盛りだ。それに椿や羅漢槇・カイズカイブキ等々を組み合わせて道路脇の垣根としている。庭には柿、桜などが多い。今はたわわに実った夏みかんが寒空に黄色い景色をつくっている。春や秋に来たらさぞかし楽しいところだろう。



「もちの木」 縁起のいい名前です。常緑樹で、西日本に多く見られます。

途中、一人歩きの遍路とすれ違う。逆周り遍路(遍路は何番札所から歩き出してもよく、逆周りでもよいのだそうだ)かと思って声を掛けると、一番~八十八番を終わり、今から一番に行ってお礼参りをし、その後高野山奥の院に登って結願を迎えるという。42日目であるという。かなり早い「通し打ち」で、11月10日頃一番霊山寺をスタートしたことになる。うしろ姿を見ると1100㌔を越えて歩いてきた人の歩みとはとても思えない力強い歩みである。元気づけられる。(私は、彼我の差、1200㌔の重さを感じていました。ここに再び、あの人のように帰ってこられるだろうか、と)。

途中の小さな商店には正月の注連縄が並んでいる。我々が荒縄と呼んでいる程度の藁を撚った比較的細いものである。注連縄は地方によって太さ、撚った時の形がいろいろあるが今まで見たなかでは細い方だ。
しばらく行くと集落の神社の鳥居で氏子が集まって太い孟宗竹で作った門松を立てている。関東あたりではこれだけ立派な竹はちょっと見られない。一流企業の門松がこんなだったなと思ったりする。女性をまじえた4~5人ほどが、立てる位置をああでもないこうでもないと言って楽しそうだ。顔がゆったりして微笑ましい風景だ。当方も自然に笑みが出てくる。「年用意」とは集落の人々が集まって鎮守の森の社や祠を飾ったりするこんな感じのものだったのだろう。その後各自宅の障子を張り替え、餅をつき、おせち料理を作り、晴れ着を縫ったりして新しい年を迎えたのだろう。自然そんな事まで想像してしまう光景だった。

  竹切って へんろの道の 年用意  (へんろの道も正月準備、まずは竹を切り出しましたが、おしゃべりが先行し・・・)



熊谷寺仁王門 畑の中にポツンと立っていて、それが、なにやら風情を感じさせます。今でさえ広大な寺域です。かつてはどれほど大きかったのでしょう。

11:18 第八番普明山熊谷寺 発  本尊・千手観世音菩薩 真言宗(高野山)
岡の中腹にある。春にきたら桜が素晴らしいことだろう。まったく人がいない。山門、多宝塔など雰囲気がよく静かである。「シーン」とした境内にスピーカーからお経が流れていて、スキー場を思い浮かべて少し興ざめである。
何処の札所も人がおらず寒々としている。寺で休んでいるとせいぜい数組の人たちがお詣りしていれば多いほうで、我々だけだったりする時もある。明らかに「歩き」だと思える人はいない。バス(今回一度だけバスの団体をみた)にしろ、マイカーにしろ遍路の季節は春である。続いて秋だ。シーズンになるとバスが何台も止まり、一台について30人~40人程の遍路が下りてきて、人でいっぱいになるという。そして到着したバスの中から添乗員が預かった納経帳・掛軸を持って納経所に走り一括して預けるのだそうだ。歩きの人などは納経帳に朱印・揮毫して貰うのにうっかりすると30分位待たされてしまうと聞いている。
冬はオフシーズンで、いくつもの寺で工事中であったり、工事が終わったばかりといった感じである。
(北さんが私を遍路に誘ったのは10月でした。すぐに私が応じていれば「秋遍路」だったのですが、こんな時季になってしまいました)。

11:50  第九番正覚山法輪寺 本尊・涅槃釈迦如来 真言宗(高野山) 
岡を下りてきて、平坦部の真ん中にある。こぢんまりした寺である。八十八カ所の中で涅槃の釈迦如来を本尊としている寺はここだけだそうだ。



中央の木立が9番法輪寺です。こちらは、すっかり寺域を削られましたが、かえって、いい雰囲気を出していると、私には思われます。

12:10 発 朝から8・3㌔。14305歩。
門前「梅の家」にて食事。ワカメうどん・おにぎり3個で600円なり。今日も貧しい。昼食は座敷に上がり足を休ませる。
13:00 出発

14:16  第十番得度山切幡寺 本尊・千手観音菩薩 真言宗(高野山)
第八番とともに山の中腹にあり堂宇もさびれてなかなかよい雰囲気である。333段の石段があり、寺の標高は155㍍である。
比較的若い人たち(30代半ば~40代半ば)の5人ほどのグループが来て、般若心経を唱え始めた。もうお詣を済ませてベンチに座りひと休みしているところだった。5人とはいえ、ずいぶん大きな声で、まるで歌を合唱しているようにリズムがある。しばらくじっと聞いていた。実に上手いものである。リーダーがいて合わせているのだろう。持っているCDは僧侶の息継ぎはバラバラだが、彼らの場合息継ぎまで一緒だった。皆で唱え方を調整し、事前に練習してきているような感じだ。
比叡山延暦寺の僧侶が特別な行事で(どんな時だかは忘れた)、深夜に大勢で根本中堂かで唱えるお経は実に見事な合唱になっていると何かの本で読んだことがある。「声明・しょうみょう」といい、お経の中の歌の部類に属するらしい。この声明は天台宗特有のものなのかどうかは知らない。一度聴いてみたいと思っている。
  
 心経の 唱和のリズム 春隣  (若い唱和はハーモニーとなって、あたかも春を呼んでいるようでした)              



H21年4月、ようやく88番まで打ち終えて、切幡寺に参拝したときのことです。石段の中程に、息子夫婦と見られる二人に付き添われ、おばあさんが立っていました。
「お達者ですね」と北さんが声をかけると、おばあさんは、堰を切ったように、「残念です、無念です、(お大師さんに)お会いしたかったのに、ヒザが・・・」、と話しました。足が痛くて登れなくなっていたのでした。付き添いの二人が、「気持ちは届いとるよ。見てくださっとるから」と懸命に慰めるのですが、おばあさんは、得心できないでいたのでした。
おばあさんは、北さんとの会話で、少し癒やされるところがあったようでした。やがて、その場でお祈りをして、降りることになりました。北さんの心中では、やはり88ケ所巡拝を願っている、ほぼ同年齢の母上と重なっていたのでしょう。


ここで吉野川左岸の十里十ヵ寺を終了。一番から約40㌔歩いたことになる。
今日は何回も高速道路(徳島自動車道)の橋脚の下を通った。この札所の下には小さな門前町があり、仏具・表具・旅館、食堂などがある。一番の霊山寺から歩き始めた遍路がこの辺りで丁度一泊することが多かったのだろうか。次の11番迄は約10㌔あり、そのうえ途中に吉野川が横たわっているのも理由なのだろう。標高が高いせいか風が強く手袋を外すと手が冷たい。155㍍あるので剣山を主峰とする山塊が吉野川を隔てて見渡せる。これから四国三郎を渡り対岸の麓にでて、明日は今回の遍路で最もきつい12番焼山寺に登るのである。

14:50 出発
いよいよ吉野川を目指して住宅が多くなった緩い坂(扇状地の扇端部分)を延々と下る。途中の新開道路脇に公園が出来ている。郷土出身の故三木首相の銅像が立たされたままで、どこやらを指さしている。俺の手には手袋をあるが、君は冷たくないのかと言ってみたりする。こんな像をみるといつもかわしそうで情けなくなる。君は暑くないのか、足は草臥れないかと思ったりする。中国の大都市の繁華街で近頃珍しくなった毛沢東のそれこそバカでかい像を見た。町のロータリーの中央に右手をあげて立っていた。その時も彼は何しているかと言うことになり、タクシーを停めようとしているが、未だに停まってくれないのだと言う結論になった。
標高が下がったせいか風はなく対岸に見える煙突の煙が真っ直ぐである。観覧車等も見える。

 

「三木武夫」像。文字は、自ら弟子を名乗る海部俊樹さん。後藤田 正晴さんとの選挙トップ争いは、全国版を騒がせたものでした。讃岐には大平正芳さんがおり、三角大福中の二人までが四国にいたのでした。野党ですが、社会党の成田知巳さんも讃岐でした。けっこう全国レベルの政治家がいたのでした。

15:47 吉野川左岸堤防に到着
今日は一日中曇り空である。一休みして、缶コーヒー。(堤防の手前に自販機がありました。私は足のテープを貼り直しました。明日の「遍路転がし」という不安はありましたが、意気は軒昂でした)。
この大河には大きな中之島(川中島)があり手前は竹林になって対岸は見えない。土手のすぐそばに潜水橋があるが水は殆どない。それを過ぎるとわずかに登りになり中之島に入る。この島は善入寺島という。さすが大河で畑が延々と続き、20分以上は歩いていたろうか。



善入寺島の一本道

畑の所々に個人名を書いた白い杭が立っている。この川は国有地で有るはずだから賃借人の名前なのだろうか。大根・花菜・キャベツ・レタス等が育つており、家族総出で収穫にいそしんでいるといった光景もある。大根を満載した小型トラックとすれ違う。さっき堤の上からみた竹林はこの畑を守るための防風林・水害対策であったのだ。島を抜ける前にもう一つ竹林がある。少し下ると本流があり、川島橋という潜水橋がある。当然欄干はなく、車が一台が通れる程の幅で、水の抵抗を受けないように作りはシンプルにできている。洪水の時には水の下に沈んでしまい橋は流されないで済むのである。小舟が数艘もやってある。白鷺が一羽足をあげて休んでいる。我らも一休みして写真。



吉野川右岸堤防から阿讃の山々を望む。(徳島では「沈下橋」ではなく「潜水橋」の方が一般的だと聞きましたが)潜水橋の先が、川中島である善入寺島です。

対岸は川島町で古代の名族忌部氏の時代から栄えた町である。中世に城があったようで五層だか三層だかの借金コンクリート製の復元城が建っている。この町に入った街角で不意に逆廻りの若い遍路とすれ違う。挨拶のみ。未だ人との接触がうまくできない。この町を抜けて国道192号を鴨島町に向けて歩く。すでに5時を廻り暗くなっている。歩道が完備されていないので、白衣を着ているとはいえ危険である。びゅんびゅん通り抜けていく自動車に知らせるべく懐中電灯を後ろに向けて持つ。
スーパーマーケット「ママの店」で一休み。(私の足はかなり厳しくなっていました。暗い国道で手当てすることはできませんので、我慢して歩いてきたのでした)。使い捨てカメラとリンゴと柿を買う足の手当。(私の足治療が終わるのを)待つ間、ベンチで缶コーヒーを飲みながら中年の男性と話をした。(忌部氏と麻植郡については、「高越寺あれこれ②」 をご覧ください)。



「ママの店」 私の居住地辺では見かけない店ですが、チェーン店のようです。H14、「拾い歩き」遍路で石井の町を歩いているときに見かけ、初遍路をなつかしく思いだして撮りました。

再び国道をせっせと歩いていると、反対路線のファミリーレストランの駐車場から道路を横切って駆けて来た男女が「どうぞ」といって小さいレジ袋を手渡した。さっきスーパーで話した中年男性と奥さんだった。手に持つと袋が暖かい。大急ぎでお礼を言う。餃子か饅頭か何かだと思った。腹は空いていたが車の多い国道で開けるわけにもいかない、そのまま手のひらに暖かさを感じながら歩いた。嬉しかった。そして戸惑いも続いていた。なかのものが飴とチョコレートだと分かったのは旅館から食事に出て、一緒に食べようと思って開けた時だった。さっき戴いたとき暖かかったのは何故か不思議だった。ご夫婦の暖かさだと解釈する以外なかった。
(この「暖かさ」は、私もよく覚えています。理系頭の友人が、寒くて手が冷えている分、暖かく感じたのだ、と解説してくれましたが、面白味のない友人ではあります。「ご夫婦の暖かさ」と勘違いしている方が幸せじゃないですか。しょせん、世の中のこと大方を勘違いして、私たちは生きているのですから)。

18:00 飛び込みで鴨島駅前の「ビジネスホテル双葉」に入る。
宿泊4000円。朝食700円。夕食は外食。うどんとカレーとビール。二人3850円。寿司等もあったが、とにかく暖かい物以外食べる気にならなかった。



北さんの巡拝用品一式。白衣、頭陀袋はお母さんの手縫いです。菅笠、白衣は、知り合いのお坊さんが文字を書き、お父さんが使っていました。杖は、今では短くなって、下り坂では使い勝手が悪く、二代目になっています。初めのうちは「ジャマ」にも思い、何回かは置き忘れたりした杖でしたが、今では、なくてはならぬ「お杖」になっています。

19:30 宿に帰る。
食事の時のテレビで、明日は雨か雪の確率50%、徳島は最低4度、最高8度の予報を知る。山の上ではもっと確率が高くなり、もっと寒いであろう事は容易に想像できる。内心ちょっとビビル。(翌朝には予報は、曇のち一日雨または雪、と変わりました。後に、焼山寺辺ではよく雪が降るのだと知りました)。

朝食を6時にして貰う。(状況の中で、人は少し進歩するのかもしれません。駅の売店が6:30に開店することも確認できました。昼弁当を買うためです)。吉野川辺りで明日の予報を知っていれば鴨島駅に廻らず直接11番藤井寺付近の宿を探したのだ。三角形の二辺を歩くようなことはしなかった。やはり昼頃には一度天気予報は聞かなければいけないのだろう。
風呂で足を揉むと右のすねの筋が痛い。踵はじんじんしている。足の甲は赤くなっているが(私から貰った)絆創膏で大丈夫である。明日の天気を知って、少しでも荷物を軽くすべく、もう通過してきた寺や道路地図のコピーを処分し、さっき買った柿・リンゴは宿のおかみさんに進呈する。

今日はクリスマスイブである。テレビは不審船を延々と流している。北朝鮮の船であろうか。
部屋のエアコンの上に白衣・和袈裟・頭陀袋・遍路杖・遍路傘・リュック等を並べて写真にとる。
  本日の歩行距離: 22・6㌔ 34177歩
  二日間の合計:   37・4㌔。58098歩。 

ようやく二日目の報告が終わりました。三日目は「雪の遍路転がし」となります。
次回「初めての遍路 ④」は、3月10日頃アップの予定です。

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