楽しく遍路

四国遍路のアルバム

H25 秋 その6 丈六寺 如意輪寺 中津峰山 星の岩屋

2014-04-09 | 四国遍路
     右上で文字サイズの変更ができます。
     →この記事の末尾    →新しいアルバムの目次    →古いアルバムの目次    →神々を訪ねて目次

ご挨拶
グーブログの「楽しく遍路」へ、ご訪問、ありがとうございます。
移転後、初めての更新です。今後もよろしくお願いいたします。


牟岐線地蔵橋駅

さて、(2巡目を終えて) 高徳線板東から牟岐線地蔵橋へ移動しました。丈六寺に参るためです。
丈六寺は毎年、11月1日からの三日間、寺宝を公開しており、その期間は丈六仏を拝むことも出来ます。今日はその最終日です。ぜひ参拝したいと思いました。
丈六寺に参った後は、中津峰山の北山腹にある如意輪寺に参拝、中津峰山(773㍍)を越えて、南山腹の星の岩屋へ降りてゆきます。


旧土佐街道 へんろ道

旧土佐街道を示す石柱です。
阿波から土佐に向かう土佐街道は、おおきくは、二本あります。那賀川を遡り、物部川を下ってゆく土佐中街道(ほぼ国道195に近い)と、海沿いを行く土佐浜街道(土佐東街道とも呼ばれ国道55に近い)の二本です。ただし、この石柱が立っている地点では、まだ分岐していません。
奥に見えるへんろ道標は、「へんろ道」とだけ刻まれています。恩山寺への道を示しているのでしょう。


丈六寺一ノ門(撮影時期が他と異なります)  

丈六寺は白雉1(650)、天真正覚尼がこの地に庵を構えたことに始まる、とか。その後、行基さんが訪れ、丈六観音を刻み安置なされたとも言われます。
定かなことはわかりませんが、境内から奈良期の古瓦が出土しているとのことで、古代、この地に寺があったのは確かでしょう。


丈六寺二の門

室町時代、文正1(1466)、阿波国守護・細川成之(しげゆき)が、ほぼ現在の形に伽藍を整備し、禅宗の寺院に改められたそうです。寺史は、これを以て「中興」としています。
江戸時代には、徳島藩歴代藩主(蜂須賀家)の庇護を受けました。


三解脱門(撮影時期が他と異なります) 

空(くう)、無相(むそう)、無願(むがん)の三つの境地に至る門ということで、三解脱門(さんげだつもん)、略して三門と呼ばれるそうです。室町時代末の建築物で、国重文になっています。


公開中の宝物館  

長宗我部元親の侵攻による「天正の戦火」が多くの寺社を席巻する中、丈六寺はこれを免れ、多くのものを残すことが出来ています。そのため「阿波の法隆寺」とも呼ばれるそうです。土佐の予岳寺(香美郡に現存する)の末寺であったことが幸いしたようです。
丈六聖観音像の胎内仏(32cm)が印象的でした。数多くの文書類もあるのですが、これを読むには、時間が圧倒的に不足です。


本堂 書院

山門と本堂・書院が一直線上に並び、右に徳雲院、左に僧堂、経堂を配しています。禅宗様の伽藍配置です。国重文。


僧堂

修行の場です。


徳雲院

「徳雲院」は阿波11代目守護(16c前半)、細川持隆の法号なのだそうです。


境内から見た三解脱門

簡素の中の、落ち着き、ということでしょうか。


血天井

侵攻してくる長宗我部軍に、阿波の牛岐城主、新開遠江守忠之は激しく抵抗したそうです。攻めあぐねた土佐軍は、和議を口実に新開忠之を丈六寺に呼びました。新開忠之を歓待し、酒を飲ませて謀殺します。
忠之の血が飛び散った縁板を天井板に使ったのが「血天井」です。忠之の無念を伝えているとも、また「深酒」を戒めるているとも言われています。忠之の本意ではないかもしれませんが、今日、忠之は「禁酒の神様」として霊験あらたかだそうです。


墓塔群と観音堂

観音堂は、今日は扉が開かれています。まさに一丈六尺(約3.6㍍)、大きな観音様でした。建物は重層屋根の寄せ棟造り。国の重文です。
阿波国守護であった細川氏一族、藩主家の蜂須賀氏一族など、多くの墓塔があります。


勝浦川

丈六寺は勝浦川沿いにあります。
如意輪寺に行くには、勝浦川の支流、八多川を遡り、さらに八多川の支流、金谷川を遡ります。


標識

金谷川を離れ、左に曲がります。前方に山が近づいてきます。


中津峰山

中津峰山(773㍍)です。これを越えねばなりません。大丈夫?ちょっと怖じ気づいてしまいます。


西国33カ所

集落の中をすこし登ると西国33カ所の1番があります。如意輪寺への道は観音様の道です。


旧道

西国の(ちょっと自信がありませんが)3番から旧道に入ります。
「保存協力会」の地図ではすべて車道と表示されているので、立ち止まり考えていると、私の迷いを察したかのようにおばあさんが現れ、穏やかに声をかけて下さいました。・・・歩きの方は、みなさん、この道を行かれますよ。先で、また車道と出合いますが・・・。




五来重さんが「四国遍路の寺」で話しておられます。・・・弘法大師はなぜ四国に行かれたのか、そしてなぜ歩かれたのでしょうか。私は、弘法大師その人が、古い修行形態の中に身をおかれていたというふうに発想を変えてみました。なぜなら、弘法大師以前の四国遍路は、山を拝むというよりは海を拝んでいたからです。・・・




・・・実は日本の民族の古い宗教として、山岳宗教以前に海洋宗教がありました。縄文時代の人々の住居は、山と海の両方にあったといわれています。・・・昔は土器一つで暮らしていたでしょうから、簡単に夏・秋と冬・春の住居を往復しえたとおもいます。・・・彼らの移動性を考えますと、海の宗教と山の宗教が併存していても少しも不思議ではありません。・・・




・・・ところが、人間が内陸に住んで土地を耕すようになりますと、山が宗教的な聖地として機能してきました。ただ、海で生活する猟師たちは、龍神さんや夷様のような海の神様を拝んでいましたから、一種の退化した宗教として海洋宗教は存在しました。・・・




・・・たとえば、阿波の焼山寺では山が焼けるぐらい火を焚いたようです。最初は寺はなかったので、焼山といいました。火を焚いたと考えられる頂上は937㍍ですから、四国の札所の中ではいちばん高いところです。・・・


山門

・・・そこから紀淡海峡が非常によく見えます。逆にいえば紀淡海峡からそこが見えるということですから、火を焚くと山が焼けているように見えました。紀淡海峡から西を見ると焼山寺の火が見え、東を見ると犬鳴山七宝滝寺の上にある燈明岳の火が見えるので、二つの灯台の間を航海することになります。もう一つ、北のほうの淡路の先山千光寺の常夜灯も航海の目印だったといわれています。・・・


駐車場下

・・・ただし、航海のために火を焚いたのではありません。海の神に捧げるために焚いた火が、たまたま航海者の目印になって航海を安全にしたわけです。のちにはそれが目的になってしまって、やがて灯台化していきます。・・・


石段

ちょっと長目の引用をさせていただいたのは、焼山寺に起きたことと同様のことが、これからお参りする中津峰山如意輪寺でも起きていたからです。焼山寺-七宝滝寺-千光寺の「火」が三点観測されたように、中津峰山(773㍍)の如意輪寺-日峰山(165㍍)の日峰神社(ひのみね)-津峰山(287㍍)の津峰神社(つのみね)の、いわゆる「阿波三峰」で焚く火が、夜の航海者達によって三点観測されていたといいます。なお、日峰山は芝山とも呼ばれるようです。


鏡石

「鏡石」は、まさに信仰上の灯台です。
この岩面は「鏡石」と呼ばれ、進路を失った船が如意輪観音菩薩を念じる時、光を発し、船にその位置を知らせ、波風を鎮めてくれたというのです。


第三駐車場に立つ「燈」

鉄塔の先に電灯があり、毎夜、点灯されているそうです。「灯台」の伝統を継ぐものです。
なお、阿波三峰の他の二峰でも、今も毎晩、常夜灯が灯されているとのことです。このような例は、西竜王山(建治寺)や大麻山(大麻比古神社)でも見られると言います。前回に触れた大麻山山頂の「鉄塔」は、どうやら、その常夜灯だったようです。


山門

昔の航法は「地乗り航法」でしたから、陸地が見えない夜間は、原則的には航海を避けたと思われます。しかし、なにせ風まかせの時代です。やむなく夜間の航海を強いられることは、しばしばあったでしょう。また、商取引の発展は、嫌も応もなく、夜間の航海を促しました。


立木観音

山門の脇の、気づきにくい所です。地元の方が教えてくれました。


石段

この上が本堂です。訪れたのは紅葉の始まることでした。


本堂

中津峰山は、南海上にあるという観音浄土 補陀落山に擬せられています。「海が見える山」ではなく、「海から見える山」なのです。


高野山遙拝所

残念ながら「目視」することは出来ませんでした。心の目をこらす他ありません。


海方向

天候によっては、海はもちろん、高野山までもが「目視」できるというのですが・・・。

ok
如意輪寺の縁起

・・・永正年間(16世紀初)のことだそうです。ご修理申し上げようと、ご本尊の観音様を京の都にお送りしましたが、時はまさに戦国時代、あろうことか観音様が行方知れずとなりました。・・・もう駄目か、諦めかかっていた頃のある日のこと、小松島の船頭さんが尼崎の浜にいたところ、一人の小僧さんがやってきて、阿波国まで自分を乗せてほしいと頼み込みました。・・・


如意輪寺の縁起

・・・小僧さんは、もし乗せてくれたら、一刻で(およそ2時間で)阿波に着かせてあげると言います。船頭さんは、そんなバカなことがあっていいものか、それに天気も悪いしと思い、断ったそうです。ところが小僧さんは翌日もやって来て、船頭さんに頼みます。・・・なにか感じるところもあったのでしょうか、船頭さんは断り切れず、小僧さんを乗せて船を出したそうです。ところが、あら不思議、帆はたっぷりと風をうけ、にもかかわらず波は鎮まり、船はたちまち阿波に着いてしまったということです。・・・


如意輪寺の縁起

・・・小松島湊に着いたので船頭さんは船室に降りてゆきました。すると、またまた不思議なことに、そこに小僧さんの姿はなく、観音様のお姿があったということです。ビックリ仰天、船頭さんは浜の衆を呼びました・・・。ところが、浜人たちが集ってみると、そこに観音様のお姿はなく、今度は浜の岩のに立っておられたというのです。観音様は岩の上で、グラリグラリ、右に左にゆれているはありませんか。・・・


山頂への登り道

・・・船頭さんは観音様の御座の下に石を入れ、傾きを直おしてさしあげました。・・・この石は「助石」と呼ばれて、今も如意輪寺に残っているそうです。霊験あらたかで、石を触った手で躰の痛いところや悪いところをさすると、快癒するのだそうです。・・・


山頂への登り道

・・・阿波の藩主家、蜂須賀の殿さまが、そんなありがたい観音様なら私が祀りたいと願い、寺まで建立して乞いましたが、観音様は、自分は中津峰山に帰りたいと、殿さまと寺の住職に夢告されたのだといいます。・・・そんなわけで、今、観音様は中津峰山如意輪寺におわします。・・・


天津神社と防風の石積み

中津峰山の山頂に天津神社があります。
中津峰の「津」は、水のうるおす所、舟着き場などを意味する「津」で、(前述のように)海との関わりを表しています。
しかし、天津の「津」は格助詞の「つ」で、現代語の「の」に当たります。よく知られる例を挙げると、「目つ毛(まつげ)」の「つ」です。「目つ毛」は「目の毛」というわけです。よって天津神社は、「天の神社」ということになります。


天津神社 

では、「天」とはなにを指すのでしょうか。
(私にはよく理解できていませんが)天津神社は、九曜二十八宿の星々と地元の神を合祀した「三十八社大権現」を祀っているとのことです。察するに、「天津神社」の「天」は、北極星を初めとする星々を指しており、「天津神社」(天の神社)は、「星々の神社」を意味するようです。
これら星々が、(如意輪寺のご本尊である)如意輪観音菩薩の眷属として、人々の厄除に働いてくださるのです。


如意輪寺境内の三十八社

如意輪寺境内にも三十八社は祀られています。・・・と言うより、本来、如意輪寺に祀られていたと言うべきでしょうか。
三十八社は神仏分離で如意輪寺から切り離され、天津神社という名で山頂に祀られましたが、ふたたび寺内に戻った(戻した)と考えられます。


中津峰山頂上

中津峰山北面に如意輪寺が在って、北極星(北斗七星)に臨んでいます。
中津峰山南面には「星の岩屋」があります。弘法大師が悪星(妖星)を祈り落とし、封じ込めたという岩屋です。


二筋の山並み

山頂から二筋の山並みが見えます。奥の山並みのどこかに太龍寺があります。太龍寺から真北に辿ると如意輪寺があるそうです。興味深い位置関係です。
那賀川を挟んで、手前の山並みに鶴林寺があります。そして、その手前には勝浦川が流れています。私はこれより、勝浦川に降りてゆきます。


ハングライダー練習所

ここは初心者用ゲレンデだそうです。ベテランになると、トンビのように、一時間以上も空を回っているのだとか。
勝浦川側から中津峰山を確認する、よい目印になります。


星の岩屋への下り

星の岩屋から西に降りると、「妙見山 取星寺」があります。星の岩屋同様、弘法大師が妖星を祈り落とした寺伝をもっています。山名の「妙見」は北極星です。
寂本さんは「四国路遍礼霊場記」で、星の岩屋と取星寺に触れています。・・・いはわき村(岩脇村)といふに取星寺あり。此寺に大師釣召の星(ちょうしょう)といふ物あり、・・・此所より二十丁ほど隔て、星合(星谷)といふに星の岩屋あり。三間四方もありなん。岩窟の口半斗に数丈の滝あり。殆霊区ときこゆ。此岩上に取星寺の星降れりといひ伝えたり。・・・


下り

ふたたび「四国遍路の寺」から五来重さんのお話を引用させていただいて補足します。
・・・信仰対象となる星には二つあって、一つは北斗七星(北極星)を信仰の対象にします。もう一つは、求聞持法が成就したときに、明星が降ってきます。それを星降りといいますが、そういう現象がおこらないと虚空蔵菩薩がその人に知恵を授けるということがありません。虚空蔵菩薩のお使いの明星天子がお告げにやってくるのが、星が降るということです。それは流星でもいいわけです。・・・


下り

・・・星谷に洞窟があって、その洞窟で(弘法大師が)求聞持法を修めた(=星が降ってきた)ことから「星の岩屋」と呼ばれています。「弘法大師釣召の星」の釣召は、・・・求聞持法を意味するものと考えてさしつかえありません。・・・阿波の山間部は、焼山寺といい太龍寺といい(そして高越寺といい)、求聞持法を行う修行者が集まる霊地であったことを示しています。・・・


穴門

上に宝筺印塔があります。
仏陀石の案内看板によると・・・弘法大師がこの地を訪れたとき、ある夜、山上に光り輝くものを見て奇異に感じられ、翌朝いばらを分け入り登られたところ、高さ数十丈の巨岩の上に、突然現れ光り輝く両部曼陀羅の諸仏を拝し、大師は歓喜し人々に信仰を勧められた・・・、ということでした。                  


仏陀石

・・・これを起縁として後代の人々が、この巨岩の上に七十三尊の仏像を刻んで安置した、といいます・・・         
 

星の岩屋 定ケ窟不動尊

星の岩屋に向かって左、仏陀石の方に進むと、建物の先にあります。遍路中に知り合った方から作者についての情報を得ましたが、ここには記しません。とにかく、見事な出来です。


星の岩屋

・・・星窟、星谷山中にあり。古木葱翠にして、石みな透徹鏡の如し・・・




・・・その中に瀑布あり。高さ数丈。右に石崖あり。高さ五丈許り・・・釈空海、星をここに祈る・・・


裏見の瀧

・・・弘法大師、悪星を祈って落せしかば、星、本村の山中、岩穴にこもる。よって星谷と称す・・・


みかん 

ミカン農家の人のお話です・・・ここは星の谷じゃが、ワシらには黄金の谷(ミカンの谷)じゃった。蜜柑には斜面が大切なんだなあ、田圃をミカン畑に替える人も出たが、平地では甘みが出なかったんよ・・・。

ご覧いただきありがとうございました。ようやく今回でH25秋遍路のシリーズが終わりました。次回はH26春遍路① 阿波路、撫養街道の東林院から別格一番大山寺に向かいます。
更新は5月1日の予定です。

   →この記事のトップ    →新しいアルバムの目次    →古いアルバムの目次    →神々を訪ねて目次 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« H25 秋 その5 大坂峠 卯辰峠... | トップ | H26春 その1 東林院から別格... »

コメントを投稿