さて、前回、神話(ミュトス)が世界生誕を説明する役割を果たしていたことを述べました。
それが自然哲学へ展開したというのは、神々の行為ではなく、そもそもこの世界を成り立たせているものは何か知りたいという欲望(エロス)が、別の知る仕方を求めはじめたということです。
ミュトスとしての神話、つまり物語という方法とは別の知る仕方ってなんでしょうね。
たとえば、僕らの時代で言えば、科学的に考えることは慣れていますよね。
僕は心霊現象に興味持っちゃうんだけれど、子どもの頃のNHKのテレビ番組では「人魂」を科学的に実証する特集が組まれていたことを覚えています。
なぜ、墓地に人魂が発生するのか、その原因を科学的に実証しようというものです。
その結果は、どうも墓地に埋められた遺体から発生するリンやメタンガスが何らかの発火減少と結びついているのではないか、というものだったと記憶しています。
それは、どうもある程度正しかったんじゃないかと思うんだよね。
なぜかっていうと、昔は土葬でしたが、ほぼ火葬になった現在では、人魂なんて話はあまり聞かないでしょ。
こんな感じで、僕らの時代は科学的合理的に説明できれば、納得する「知の枠組み」が日常的に浸透しています。
だから、古代において神話がその合理性を担保していたということは、「知の枠組み」として浸透していたことを意味しているんです。
ところが、同もそれでは納得できない部分があるんじゃないか。
僕らの時代でも、どうも科学的な思考だけでは割り切れない問題がありますよね。
生きる意味なんてのは、科学的に割り切れるものじゃないし、むしろ科学の発展が必ずしも精神的な豊かさをもたらすわけではないことは、僕らは身に染みてわかったはずでしょう。
3.11の東日本大震災では、果たして自然を乗り越えようとした科学の無力さが歴然と暴露されてしまいました。
すると、僕らは自ずと科学そのものがある種の神話だったことに気づかされていくわけです。
いや、だから神話が正しい「知の枠組み」だと言いたいわけじゃないですよ。
神話的思考も科学的思考も、人間がその「知の枠組み」を手に入れた以上、ゼロにするわけにはいかない。
人間は時代の転換期とともに、慣れ親しんだ世界観からその「知の枠組み」そのものが変わっていく、つまり世界を知る方法が変わっていくということなんじゃないかな。
もしかしたら、時代の転換期なんてしばしばいわれる現在に、その変化が訪れるかもしれない。
それが古代ギリシアにおいて生じた。
「なーんか、神々の行為で世界がつくられたっていう理屈って変じゃね」と疑いをかけたんじゃないかな。
もっと、なんか、こー、この世界のすべての原因となるものがあるんじゃないか。
それがアルケー(根源)というものへの探求につながった。
神に代わるような原因といってもいいと思う。
それが神話から自然哲学へという事態だったんだ。
ただし、それはドラスティックに神話から自然哲学へ転換するというよりは、少しずつその宗教性を引きずりながら自然哲学という新たな知の枠組みに転換していったと考えるべきでしょう。
アリストテレスによれば、自然哲学の始祖とされるミレトスのタレス(B.C.624—B.C.546)は、「万物は神々に満ちている」とも言ったそうですしね。
では、その宗教性や神性とは何か。
それが「驚き」に通じる経験なのだと思います。
●タレス(B.C624?-B.C.546?)

これについてタレスは、「万物のアルケー(根源)は水である」と言いました。
この意味をどう捉えますか?
人間は体重の60%が水でできている。そうだね。生物は水がなければ生きていけないのは疑いようもないことです。
その意味で、「水」は自然に存在する生命力の源という観点から万物のアルケーとするのがオーソドックスな解釈だとおもいます。
自然を動かす力が自然界の隅々にまでいきわたっていて、そのエネルギッシュな生命力の不可思議さの源に神性を見出したのではないか。
それが「水」だった、とね。

でも、僕自身はこの解釈に納得しながらも、ちょっと腑に落ちていなかったんですね。
すると、これとはまったく別の解釈に出会いました。
水は、それ自体としては無色無臭無味無形という奇妙な特性をもちます。
音は別として、感覚で捉えきれないにも関わず、僕らは水が「ある」ことを知っています。
しかも、その姿は氷や、川、泉、雨、雪、霧など変幻自在です。
生成流転しながらも、水は水として変わることはない。
古東哲明さんという哲学者はこれを「無であるからこそ全てである」という水の不可思議さにこそ、タレスは万物の根源を見たのではないかというのです(『現代思想としてのギリシア哲学』)。
なるほどな、と僕個人は妙に腑に落ちました。
皆さんはこの解釈をどう思いますか?
哲学って、こんな風に自由に解釈できる余地があるところに魅力があるんですよね。
もちろん、実際にタレスがどう思って万物の根源を「水」に求めたのかは知りえません。
得て勝手すぎる解釈がよいというわけではありませんが、「もしかしたら…こんな風にも読めるんじゃないか。そちらの方が腑に落ちないか」という仕方の思考の自由にこそ、哲学の魅力があるというべきでしょう。
古東さんの解釈は、何かが存在することの「驚き」を示していると思いますし、それは生命の躍動感に対する驚きとは少し別なようにも思えます。
万物を成り立たしめさせているのは「無であるからこそ全」であるようなものなのではないか、とね。
それは、人間臭い神々の行為などよりも、よほど神秘性に近い思考ともいえます。
だから、古代ギリシアの自然哲学は科学的思考とも違うのです。
あくまで「驚き」にもとづいた神性がともなった思考なのです。
あ、ちなみに、この「驚き」を手に入れやすい方法は何か知っていますか?
端的に僕は、それは「旅」の経験だと思います。
多くの哲学者が放浪していることは偶然ではないでしょう。
異文化や見たことも聞いたこともない人々の考え方に出会う「驚き」は、思考を開くことに直結する経験なのだと思います。
●アナクシマンドロス(B.C.610?-B.C.540?)
タレスの後には、古代ギリシアでは神々の行為ではなく、こうした無機物に万物の根源を見出していく哲学者が次々と登場しました。
同じくミレトスのアナクシマンドロスは、タレスの「水」の思想を受け継ぎながら、もうちょっと抽象的なものへ展開します。
彼によれば、この世界は昼と夜や夏と冬のような定期的に入れ替えがあることは、この世界は対立的にペアになっているもの同士から成り立っていることを示しています。
陰と陽とか、男と女とか、何ごとも表裏一体に対立したものとペアになっているのが、この世界のもののあり方だというわけだ。
逆に言えば、このペアになる関係性がないものは存在しないということです。
ならば、水も火というペアというか対立関係で存在しているのだとすれば、水そのものがそのペアの片割れにすぎないことになります。
アルケーというものはそれらの具体物のペア関係を超えたものでなければならないと考えた。
その対立的なペア関係を超えたものがアルケーであり、それをアナクシマンドロスは「ト・アペイロン(無限定なもの)」と名づけた。
これはとても抽象的な概念で、ちょっとわかりにくいかもしれないね。
でも、アナクシマンドロスは、その具体的な物を超えて、それらをシンプルに包括するものとして抽象的な概念でまとめようとしたんだ。
哲学の面倒くささってこういうところにあるのだけれど、まぁ、ちょっとした思考実験だと思ってもうちょっとつきあってよ。
●アナクシメネス(B.C.546頃盛年40歳)
アナクシメネスも万物のアルケーを「無限なるもの」というんだけれど、彼の場合は逆にそれは「空気」であると、再び具体的なものに求めている。
空気は、水と火のように対立するものってある?
ちょっと見当たらないよね。
だから、アナクシマンドロスと違って、ペア関係を乗り越えた普遍性を見出せるし、しかも感覚的にも検証可能なものだと考えたんだ。
水と同じように空気がなければ、生きとし生けるものは存在しえないという点からも、やっぱり古代ギリシアは感覚的に捉えられる生命的な不可思議さから世界をとらえる傾向があったんだと思う。
●ピュタゴラス(B.C.570?-B.C490?)

この三人がいた地域をイオニアというんだけれど、B.C.6世紀半ばにペルシアが急速に台頭しはじめ、B.C.494年にはミレトスが陥落しイオニア文化は全盛期を終える。
イオニアというのは、今のトルコのエーゲ海に面したアナトリア半島あたりを指している。
古代ギリシアといっても、今ではアジアと呼ばれる地域で自然哲学は生まれたんだ。
その動乱期に伴い、少しずつ彼らは西のイタリア半島やシチリア島に移動していくんだ。
その一人がピュタゴラス。
数学で耳にしたことのある人物だよね。
彼はとても謎めいた人だった。
彼は南イタリアに到着すると、死後の魂の運命と救済なんかを説く宗教団を結成してしまう。
なんか、彼はシャーマンだったり、相当のカリスマ性がある宗教者だったというんだよね。
これが数学者としての彼のイメージと全然結びつかないかもしれないけれど、彼の宇宙観と結びつくのが不思議で面白い。
それをつなぐのが音楽だった。
彼は肉体を清めるためには医学が必要だと考えたのだけれど、魂を救うためには音楽を用いたとされています。
僕は音楽が苦手なのでよくわかっていないんだけれど、ピアノを弾く友人によると、クラシックの楽譜はとても数学的に構成されているんだというんだよね。
音楽をやっている人、これってなんとなく理解できる?
ピュタゴラスもそうで、なんで音楽に魂の解放感があるんだろうと分析してみると、音階上の主要な音のあいだにはオクターヴ2:1、五度音程(3:2)などといった数的な比例関係があることを発見したと言われています。
だから、数学とは深く音楽を聞き取る方法であるというんだ。
これを一言でいうと世界を統一している「調和」(ハルモニア)を聞き取ることなんだと思う。
もっとも、ヘヴィメタルのような不協和音てきなものにピュタゴラスは調和を認めたとは思えませんが…
少し話は脱線するけれど、数学の先生は数学には美しい解答と美しくない解答があるとよく言います。
それが何を意味するか僕はいまひとつわからないけれど、どうやらシンプルかつ調和している解答があるらしい。
脱線しまくるけれど、小川洋子『博士の愛した数式』という小説知っている?

この小説は映画化されたし、とてもおもしろい。
もし、この小説と先に出会っていれば、もう少し数学に興味をもったかもしれないなぁと思えるほどだ。
話の内容は、80分しか記憶が持たない元数学者「博士」の家に依頼されてきた家政婦の「私」と彼女の10歳の息子との三人が、数学を通してあたたかいつながりを紡ぎだしていくというものだ。
その中に、こんな場面がある。
博士に誕生日を尋ねられた「私」が「2月20日(220)」と答えると、博士は「ほう、不思議だ!」と驚きながら、彼が大学時代に超越数論に関する論文で学長賞を獲った時に貰った腕時計の文字盤の裏の番号No.284(284)を見せながら、220と284が友愛数の関係にあることを説明する。
友愛数って何?
それぞれの約数を数え上げてみてほしい。
220の約数は、約数は1, 2, 4, 5, 10, 11, 20, 22, 44, 55, 110, 220である。
一方、284の約数は1, 2, 4, 71, 142, 284 で ある。
じゃあ、それぞれの約数の和を出してごらん。すると両方とも504になる。
なんか不思議な縁を感じるよね。
この約数の和同士が一致する数字を友愛数というんだ。
彼女の誕生日と博士の記念すべき腕時計の番号の一致。
こんな風に一見関係のなさそうな現象同士が、見えない何かで結ばれていて宇宙の調和は保たれている。
そのことをピュタゴラスは宇宙全体に数的な関係に基づいた調和が実現していると理解したんだと思う。
これは後々、ガリレイやニュートンといった近代科学の思想に結びつく大切な視点なんだ。
ちなみに彼は、数の神秘性を「テトラクテュス」という図形に見出して祈りに捧げたともいわれている。

テトラクテュスというのは、1から4までの整数の和が10であることを「点」でピラミッド型の図形に表したものだ。
ここに宇宙の調和である「数」を示すものとして、そこに神性性を見出したんだ。
これが彼にとっての「驚き」によるアルケーの発見だったんだね。
●ヘラクレイトス(B.C.540?-B.C.480?)

イオニアから南イタリアなどの西方へギリシア文化が移ったとはいえ、イオニア地方でも発展を遂げた。
その代表がエペソスのヘラクレイトスだ。
ヘラクレイトスの有名な言葉は「万物は流転する」というもので、世界の生成流転を「火」になぞらえたものだった。

「水」に劣らず「火も不思議な現象だ。
だって、火は小さな火花がついては消え消えてはつくという無数の運動を瞬間的にくり返すことで、ひとつの秩序としてまとまりをなしているからだ。
世界は変化し続けることで安定している。
だから、「戦争は全ての者の父であり、すべてのものの王である」とさえいうんだ!
なんだか恐ろしい気もするけれど、世界から一歩引いてみたとき、そうした残酷性の下で世界はまとまっているともいえる。
なんて矛盾に満ちた言葉なんだ!でも、個の逆説性に真理を直観させるだけの力が哲学の言葉の魅力でもあるんだ。
日本では鴨長明が「行く川の流れはたえずして、しかも元も水にあらず」といったね。
これは仏教の「諸行無常」という世界観とつうじるものがあるかもしれないね。
●パルメニデス(B.C.515?-B.C.450?)
でも、こうした物質の生成流転によって普遍的なアルケーを発見することに矛盾があると異を唱える哲学者が登場した。
それが南イタリア西岸エレアのパルメニデスだった。
水でも火でも物質である以上、いずれ消滅する。
彼は、論理的に考えれば、消滅するものを用いて「在ること」の不変的なアルケーを説明するのは矛盾しているといったんだ。
「在るのなら、在ったでも在るだろうでもなく、徹頭徹尾在るのでなければならない」
「在る」」ということは過去にあったということも、未来にあるだろうということでもない。
あるものは、まさに今、ここにあるんだ!
不動の存在に運動や生成消滅、変化でもって語っちゃいけない。
ということは、パルメニデスにとって何かがあるということは時間という条件がないんですよね。
無時間において存在することが「在る」ということ。
でも、そんなことってありうるの?
「いま」といった瞬間、まさにそれは川の流れのようにつかまえることができないじゃないか。
これはとても興味深いことですし、現代思想でもベンヤミンとかデリダという難解な人たちが扱っている問題です。
それはともかく、まさに論理的な思考を徹底した哲学とはこんな感じですね。
●ゼノン(B.C.490?-B.C.430)
パルメニデスの思想を受け継いだのがエレア派と呼ばれる人々です。
その一人ゼノンの「アキレウスと亀のパラドックス」という話を聞いたことありますか?
アキレウスは俊足の持ち主。それに対して亀の歩みがのろいことはいうまでもありませんね。
ところが、ゼノンは先に歩いている亀をアキレウスは追い抜くことができないというんだ。
なぜか?
たとえばアキレウスが10m進んだ時に亀は5cm進んでいる。
さらにアキレウスが10m進んだ時には亀はさらに5cm進んでいる。
こうして、アキレウスがどんなに猛スピードで亀に迫ろうとも、亀は必ず幾分か進んでいるために、永久にアキレウスはカメを追い抜くことができないというんだ。

実際にはそんなことは起きませんよね。
ここにはパルメニデスが存在から運動や変化を抜きに論じようとした思想を引き継いだゼノンの思想が示されています。
でも、これをめぐってはアリストテレスやヘーゲルといった名だたる哲学者たちが議論を尽くしてきた歴史があります。
皆さんはこのゼノンのパラドックスにどう応えますか?
●エンペドクレス(B.C.492?-B.C.432?)
エレア派では、もう一人エンペドクレスにふれておきましょう。
彼もまた、「在るもの」は「ないもの」から生じることは不可能だと考えましたが、その永遠に不変であるものを「火・土・空気・水」の四元素に求めました。
この四元素が混合したり、分離したりすることで自然はつくらているというんですね。
たとえば、土:水:火=2:2:4の比率で白い骨が形成されるというんです。
これをくっつけるのが「愛」であり、分離するものが「争い」だといい、これによって宇宙は形づくられているというんですね。
もちろん、現代の科学がからすれば荒唐無稽な理論かもしれません。
でも、問題はこの世界に存在するものの不思議さを、シンプルな原理=アルケーによって解こうとした点であることは言うまでもないよね。
●デモクリトス(B.C.460?-?)

さらにパルメニデスの存在論に対しては、「在るもの」は「分割できないもの」と「空虚」だけであるとしたのが、デモクリトスである。
この分割できないものをアトマと言いますが、英語ではアトム、つまり「原子」です。
鉄腕アトムが原子力発電とともに登場したことは知っているかな。そのアトムね。
原子という言葉は理科で習ったことがあるよね。
でも、いまや現代物理学は原子や分子どころか、どんどんどんどんそれ以上に物質を分割できるものとして分析している。
クウォークが最小単位だなんていわれているけれど、それもさらにクウォークは何でできているのという問いを立てれば、それ以上にまた分割できるのかもしれない。
これもまた無限の問いですよね。
ともかく、デモクリトスは必ずしも物質に原子=アトムを当てたわけではなく、これ以外に別のものにはなりえないものという意味が込められている。
それが分割不可能という意味です。
このほかにもまだまだ紹介したい自然哲学者はあまたいるんだけれど、
ここいらで止めておきます。
重要なのは、自然哲学者たちが何を探求していたのかということですね。
水や火、空気という中性的な物質に万物のアルケーを見出そうとしたことは理解できたと思います。
ただし、それは今日ぼくたちが慣れ親しんだ科学的な思考とは別な仕方なんですよね。
常に神秘性がつきまとう。
そこには、この多様なもので満ち溢れているものたちの根源をシンプルな原理でつかみたいという欲望もあるんだと思う。
けれど、だんだんパルメニデスやデモクリトスのように具体的な物質性から抽象的な論理によって、そこを突き詰めていこうとしたとき、そんなものほんとうにあるの?という疑問に僕たちはぶち当たるんじゃないかな。
二人がこだわっている無時間的な「在る」とか、分割不可能な「アトム」なんて、ほんとうにあるの?ってね。
これは、人間の思考の限界までぶち当たっていることなんだと思う。
神話によっても科学によっても答えの出しようのない、一見矛盾に満ちた事態。
この思考が宙吊りにされるような感覚の経験。
これが、さしあたり自然全体を相手に世界の根源を見出そうとした自然哲学者たちの思考の戦いだったのだと思う。
それが自然哲学へ展開したというのは、神々の行為ではなく、そもそもこの世界を成り立たせているものは何か知りたいという欲望(エロス)が、別の知る仕方を求めはじめたということです。
ミュトスとしての神話、つまり物語という方法とは別の知る仕方ってなんでしょうね。
たとえば、僕らの時代で言えば、科学的に考えることは慣れていますよね。
僕は心霊現象に興味持っちゃうんだけれど、子どもの頃のNHKのテレビ番組では「人魂」を科学的に実証する特集が組まれていたことを覚えています。
なぜ、墓地に人魂が発生するのか、その原因を科学的に実証しようというものです。
その結果は、どうも墓地に埋められた遺体から発生するリンやメタンガスが何らかの発火減少と結びついているのではないか、というものだったと記憶しています。
それは、どうもある程度正しかったんじゃないかと思うんだよね。
なぜかっていうと、昔は土葬でしたが、ほぼ火葬になった現在では、人魂なんて話はあまり聞かないでしょ。
こんな感じで、僕らの時代は科学的合理的に説明できれば、納得する「知の枠組み」が日常的に浸透しています。
だから、古代において神話がその合理性を担保していたということは、「知の枠組み」として浸透していたことを意味しているんです。
ところが、同もそれでは納得できない部分があるんじゃないか。
僕らの時代でも、どうも科学的な思考だけでは割り切れない問題がありますよね。
生きる意味なんてのは、科学的に割り切れるものじゃないし、むしろ科学の発展が必ずしも精神的な豊かさをもたらすわけではないことは、僕らは身に染みてわかったはずでしょう。
3.11の東日本大震災では、果たして自然を乗り越えようとした科学の無力さが歴然と暴露されてしまいました。
すると、僕らは自ずと科学そのものがある種の神話だったことに気づかされていくわけです。
いや、だから神話が正しい「知の枠組み」だと言いたいわけじゃないですよ。
神話的思考も科学的思考も、人間がその「知の枠組み」を手に入れた以上、ゼロにするわけにはいかない。
人間は時代の転換期とともに、慣れ親しんだ世界観からその「知の枠組み」そのものが変わっていく、つまり世界を知る方法が変わっていくということなんじゃないかな。
もしかしたら、時代の転換期なんてしばしばいわれる現在に、その変化が訪れるかもしれない。
それが古代ギリシアにおいて生じた。
「なーんか、神々の行為で世界がつくられたっていう理屈って変じゃね」と疑いをかけたんじゃないかな。
もっと、なんか、こー、この世界のすべての原因となるものがあるんじゃないか。
それがアルケー(根源)というものへの探求につながった。
神に代わるような原因といってもいいと思う。
それが神話から自然哲学へという事態だったんだ。
ただし、それはドラスティックに神話から自然哲学へ転換するというよりは、少しずつその宗教性を引きずりながら自然哲学という新たな知の枠組みに転換していったと考えるべきでしょう。
アリストテレスによれば、自然哲学の始祖とされるミレトスのタレス(B.C.624—B.C.546)は、「万物は神々に満ちている」とも言ったそうですしね。
では、その宗教性や神性とは何か。
それが「驚き」に通じる経験なのだと思います。
●タレス(B.C624?-B.C.546?)

これについてタレスは、「万物のアルケー(根源)は水である」と言いました。
この意味をどう捉えますか?
人間は体重の60%が水でできている。そうだね。生物は水がなければ生きていけないのは疑いようもないことです。
その意味で、「水」は自然に存在する生命力の源という観点から万物のアルケーとするのがオーソドックスな解釈だとおもいます。
自然を動かす力が自然界の隅々にまでいきわたっていて、そのエネルギッシュな生命力の不可思議さの源に神性を見出したのではないか。
それが「水」だった、とね。

でも、僕自身はこの解釈に納得しながらも、ちょっと腑に落ちていなかったんですね。
すると、これとはまったく別の解釈に出会いました。
水は、それ自体としては無色無臭無味無形という奇妙な特性をもちます。
音は別として、感覚で捉えきれないにも関わず、僕らは水が「ある」ことを知っています。
しかも、その姿は氷や、川、泉、雨、雪、霧など変幻自在です。
生成流転しながらも、水は水として変わることはない。
古東哲明さんという哲学者はこれを「無であるからこそ全てである」という水の不可思議さにこそ、タレスは万物の根源を見たのではないかというのです(『現代思想としてのギリシア哲学』)。
なるほどな、と僕個人は妙に腑に落ちました。
皆さんはこの解釈をどう思いますか?
哲学って、こんな風に自由に解釈できる余地があるところに魅力があるんですよね。
もちろん、実際にタレスがどう思って万物の根源を「水」に求めたのかは知りえません。
得て勝手すぎる解釈がよいというわけではありませんが、「もしかしたら…こんな風にも読めるんじゃないか。そちらの方が腑に落ちないか」という仕方の思考の自由にこそ、哲学の魅力があるというべきでしょう。
古東さんの解釈は、何かが存在することの「驚き」を示していると思いますし、それは生命の躍動感に対する驚きとは少し別なようにも思えます。
万物を成り立たしめさせているのは「無であるからこそ全」であるようなものなのではないか、とね。
それは、人間臭い神々の行為などよりも、よほど神秘性に近い思考ともいえます。
だから、古代ギリシアの自然哲学は科学的思考とも違うのです。
あくまで「驚き」にもとづいた神性がともなった思考なのです。
あ、ちなみに、この「驚き」を手に入れやすい方法は何か知っていますか?
端的に僕は、それは「旅」の経験だと思います。
多くの哲学者が放浪していることは偶然ではないでしょう。
異文化や見たことも聞いたこともない人々の考え方に出会う「驚き」は、思考を開くことに直結する経験なのだと思います。
●アナクシマンドロス(B.C.610?-B.C.540?)
タレスの後には、古代ギリシアでは神々の行為ではなく、こうした無機物に万物の根源を見出していく哲学者が次々と登場しました。
同じくミレトスのアナクシマンドロスは、タレスの「水」の思想を受け継ぎながら、もうちょっと抽象的なものへ展開します。
彼によれば、この世界は昼と夜や夏と冬のような定期的に入れ替えがあることは、この世界は対立的にペアになっているもの同士から成り立っていることを示しています。
陰と陽とか、男と女とか、何ごとも表裏一体に対立したものとペアになっているのが、この世界のもののあり方だというわけだ。
逆に言えば、このペアになる関係性がないものは存在しないということです。
ならば、水も火というペアというか対立関係で存在しているのだとすれば、水そのものがそのペアの片割れにすぎないことになります。
アルケーというものはそれらの具体物のペア関係を超えたものでなければならないと考えた。
その対立的なペア関係を超えたものがアルケーであり、それをアナクシマンドロスは「ト・アペイロン(無限定なもの)」と名づけた。
これはとても抽象的な概念で、ちょっとわかりにくいかもしれないね。
でも、アナクシマンドロスは、その具体的な物を超えて、それらをシンプルに包括するものとして抽象的な概念でまとめようとしたんだ。
哲学の面倒くささってこういうところにあるのだけれど、まぁ、ちょっとした思考実験だと思ってもうちょっとつきあってよ。
●アナクシメネス(B.C.546頃盛年40歳)
アナクシメネスも万物のアルケーを「無限なるもの」というんだけれど、彼の場合は逆にそれは「空気」であると、再び具体的なものに求めている。
空気は、水と火のように対立するものってある?
ちょっと見当たらないよね。
だから、アナクシマンドロスと違って、ペア関係を乗り越えた普遍性を見出せるし、しかも感覚的にも検証可能なものだと考えたんだ。
水と同じように空気がなければ、生きとし生けるものは存在しえないという点からも、やっぱり古代ギリシアは感覚的に捉えられる生命的な不可思議さから世界をとらえる傾向があったんだと思う。
●ピュタゴラス(B.C.570?-B.C490?)

この三人がいた地域をイオニアというんだけれど、B.C.6世紀半ばにペルシアが急速に台頭しはじめ、B.C.494年にはミレトスが陥落しイオニア文化は全盛期を終える。
イオニアというのは、今のトルコのエーゲ海に面したアナトリア半島あたりを指している。
古代ギリシアといっても、今ではアジアと呼ばれる地域で自然哲学は生まれたんだ。
その動乱期に伴い、少しずつ彼らは西のイタリア半島やシチリア島に移動していくんだ。
その一人がピュタゴラス。
数学で耳にしたことのある人物だよね。
彼はとても謎めいた人だった。
彼は南イタリアに到着すると、死後の魂の運命と救済なんかを説く宗教団を結成してしまう。
なんか、彼はシャーマンだったり、相当のカリスマ性がある宗教者だったというんだよね。
これが数学者としての彼のイメージと全然結びつかないかもしれないけれど、彼の宇宙観と結びつくのが不思議で面白い。
それをつなぐのが音楽だった。
彼は肉体を清めるためには医学が必要だと考えたのだけれど、魂を救うためには音楽を用いたとされています。
僕は音楽が苦手なのでよくわかっていないんだけれど、ピアノを弾く友人によると、クラシックの楽譜はとても数学的に構成されているんだというんだよね。
音楽をやっている人、これってなんとなく理解できる?
ピュタゴラスもそうで、なんで音楽に魂の解放感があるんだろうと分析してみると、音階上の主要な音のあいだにはオクターヴ2:1、五度音程(3:2)などといった数的な比例関係があることを発見したと言われています。
だから、数学とは深く音楽を聞き取る方法であるというんだ。
これを一言でいうと世界を統一している「調和」(ハルモニア)を聞き取ることなんだと思う。
もっとも、ヘヴィメタルのような不協和音てきなものにピュタゴラスは調和を認めたとは思えませんが…
少し話は脱線するけれど、数学の先生は数学には美しい解答と美しくない解答があるとよく言います。
それが何を意味するか僕はいまひとつわからないけれど、どうやらシンプルかつ調和している解答があるらしい。
脱線しまくるけれど、小川洋子『博士の愛した数式』という小説知っている?

この小説は映画化されたし、とてもおもしろい。
もし、この小説と先に出会っていれば、もう少し数学に興味をもったかもしれないなぁと思えるほどだ。
話の内容は、80分しか記憶が持たない元数学者「博士」の家に依頼されてきた家政婦の「私」と彼女の10歳の息子との三人が、数学を通してあたたかいつながりを紡ぎだしていくというものだ。
その中に、こんな場面がある。
博士に誕生日を尋ねられた「私」が「2月20日(220)」と答えると、博士は「ほう、不思議だ!」と驚きながら、彼が大学時代に超越数論に関する論文で学長賞を獲った時に貰った腕時計の文字盤の裏の番号No.284(284)を見せながら、220と284が友愛数の関係にあることを説明する。
友愛数って何?
それぞれの約数を数え上げてみてほしい。
220の約数は、約数は1, 2, 4, 5, 10, 11, 20, 22, 44, 55, 110, 220である。
一方、284の約数は1, 2, 4, 71, 142, 284 で ある。
じゃあ、それぞれの約数の和を出してごらん。すると両方とも504になる。
なんか不思議な縁を感じるよね。
この約数の和同士が一致する数字を友愛数というんだ。
彼女の誕生日と博士の記念すべき腕時計の番号の一致。
こんな風に一見関係のなさそうな現象同士が、見えない何かで結ばれていて宇宙の調和は保たれている。
そのことをピュタゴラスは宇宙全体に数的な関係に基づいた調和が実現していると理解したんだと思う。
これは後々、ガリレイやニュートンといった近代科学の思想に結びつく大切な視点なんだ。
ちなみに彼は、数の神秘性を「テトラクテュス」という図形に見出して祈りに捧げたともいわれている。

テトラクテュスというのは、1から4までの整数の和が10であることを「点」でピラミッド型の図形に表したものだ。
ここに宇宙の調和である「数」を示すものとして、そこに神性性を見出したんだ。
これが彼にとっての「驚き」によるアルケーの発見だったんだね。
●ヘラクレイトス(B.C.540?-B.C.480?)

イオニアから南イタリアなどの西方へギリシア文化が移ったとはいえ、イオニア地方でも発展を遂げた。
その代表がエペソスのヘラクレイトスだ。
ヘラクレイトスの有名な言葉は「万物は流転する」というもので、世界の生成流転を「火」になぞらえたものだった。

「水」に劣らず「火も不思議な現象だ。
だって、火は小さな火花がついては消え消えてはつくという無数の運動を瞬間的にくり返すことで、ひとつの秩序としてまとまりをなしているからだ。
世界は変化し続けることで安定している。
だから、「戦争は全ての者の父であり、すべてのものの王である」とさえいうんだ!
なんだか恐ろしい気もするけれど、世界から一歩引いてみたとき、そうした残酷性の下で世界はまとまっているともいえる。
なんて矛盾に満ちた言葉なんだ!でも、個の逆説性に真理を直観させるだけの力が哲学の言葉の魅力でもあるんだ。
日本では鴨長明が「行く川の流れはたえずして、しかも元も水にあらず」といったね。
これは仏教の「諸行無常」という世界観とつうじるものがあるかもしれないね。
●パルメニデス(B.C.515?-B.C.450?)
でも、こうした物質の生成流転によって普遍的なアルケーを発見することに矛盾があると異を唱える哲学者が登場した。
それが南イタリア西岸エレアのパルメニデスだった。
水でも火でも物質である以上、いずれ消滅する。
彼は、論理的に考えれば、消滅するものを用いて「在ること」の不変的なアルケーを説明するのは矛盾しているといったんだ。
「在るのなら、在ったでも在るだろうでもなく、徹頭徹尾在るのでなければならない」
「在る」」ということは過去にあったということも、未来にあるだろうということでもない。
あるものは、まさに今、ここにあるんだ!
不動の存在に運動や生成消滅、変化でもって語っちゃいけない。
ということは、パルメニデスにとって何かがあるということは時間という条件がないんですよね。
無時間において存在することが「在る」ということ。
でも、そんなことってありうるの?
「いま」といった瞬間、まさにそれは川の流れのようにつかまえることができないじゃないか。
これはとても興味深いことですし、現代思想でもベンヤミンとかデリダという難解な人たちが扱っている問題です。
それはともかく、まさに論理的な思考を徹底した哲学とはこんな感じですね。
●ゼノン(B.C.490?-B.C.430)
パルメニデスの思想を受け継いだのがエレア派と呼ばれる人々です。
その一人ゼノンの「アキレウスと亀のパラドックス」という話を聞いたことありますか?
アキレウスは俊足の持ち主。それに対して亀の歩みがのろいことはいうまでもありませんね。
ところが、ゼノンは先に歩いている亀をアキレウスは追い抜くことができないというんだ。
なぜか?
たとえばアキレウスが10m進んだ時に亀は5cm進んでいる。
さらにアキレウスが10m進んだ時には亀はさらに5cm進んでいる。
こうして、アキレウスがどんなに猛スピードで亀に迫ろうとも、亀は必ず幾分か進んでいるために、永久にアキレウスはカメを追い抜くことができないというんだ。

実際にはそんなことは起きませんよね。
ここにはパルメニデスが存在から運動や変化を抜きに論じようとした思想を引き継いだゼノンの思想が示されています。
でも、これをめぐってはアリストテレスやヘーゲルといった名だたる哲学者たちが議論を尽くしてきた歴史があります。
皆さんはこのゼノンのパラドックスにどう応えますか?
●エンペドクレス(B.C.492?-B.C.432?)
エレア派では、もう一人エンペドクレスにふれておきましょう。
彼もまた、「在るもの」は「ないもの」から生じることは不可能だと考えましたが、その永遠に不変であるものを「火・土・空気・水」の四元素に求めました。
この四元素が混合したり、分離したりすることで自然はつくらているというんですね。
たとえば、土:水:火=2:2:4の比率で白い骨が形成されるというんです。
これをくっつけるのが「愛」であり、分離するものが「争い」だといい、これによって宇宙は形づくられているというんですね。
もちろん、現代の科学がからすれば荒唐無稽な理論かもしれません。
でも、問題はこの世界に存在するものの不思議さを、シンプルな原理=アルケーによって解こうとした点であることは言うまでもないよね。
●デモクリトス(B.C.460?-?)

さらにパルメニデスの存在論に対しては、「在るもの」は「分割できないもの」と「空虚」だけであるとしたのが、デモクリトスである。
この分割できないものをアトマと言いますが、英語ではアトム、つまり「原子」です。
鉄腕アトムが原子力発電とともに登場したことは知っているかな。そのアトムね。
原子という言葉は理科で習ったことがあるよね。
でも、いまや現代物理学は原子や分子どころか、どんどんどんどんそれ以上に物質を分割できるものとして分析している。
クウォークが最小単位だなんていわれているけれど、それもさらにクウォークは何でできているのという問いを立てれば、それ以上にまた分割できるのかもしれない。
これもまた無限の問いですよね。
ともかく、デモクリトスは必ずしも物質に原子=アトムを当てたわけではなく、これ以外に別のものにはなりえないものという意味が込められている。
それが分割不可能という意味です。
このほかにもまだまだ紹介したい自然哲学者はあまたいるんだけれど、
ここいらで止めておきます。
重要なのは、自然哲学者たちが何を探求していたのかということですね。
水や火、空気という中性的な物質に万物のアルケーを見出そうとしたことは理解できたと思います。
ただし、それは今日ぼくたちが慣れ親しんだ科学的な思考とは別な仕方なんですよね。
常に神秘性がつきまとう。
そこには、この多様なもので満ち溢れているものたちの根源をシンプルな原理でつかみたいという欲望もあるんだと思う。
けれど、だんだんパルメニデスやデモクリトスのように具体的な物質性から抽象的な論理によって、そこを突き詰めていこうとしたとき、そんなものほんとうにあるの?という疑問に僕たちはぶち当たるんじゃないかな。
二人がこだわっている無時間的な「在る」とか、分割不可能な「アトム」なんて、ほんとうにあるの?ってね。
これは、人間の思考の限界までぶち当たっていることなんだと思う。
神話によっても科学によっても答えの出しようのない、一見矛盾に満ちた事態。
この思考が宙吊りにされるような感覚の経験。
これが、さしあたり自然全体を相手に世界の根源を見出そうとした自然哲学者たちの思考の戦いだったのだと思う。
何年か前にノーベル賞候補(化学賞)にも挙げられていたCCSCモデルという境界潤滑理論(摩擦理論)の提唱者でもありますね。摩擦プラズマにより発生するエキソエレクトロンが促進する摩耗のトライボ化学反応において社会実装上極めて重要な根源的エンジンフリクション理論として自動車業界等の潤滑機素設計のコア技術として脚光を浴びつつありますね。人類というものは機械の摩擦や損傷という単純なことですら実はよく理解していないということを理解させられる理論です。
重要となる焼入れ性評価に用いるTTT曲線の均一核生成モデルでの方程式の解析をPTCのMathCADで行い、熱力学と速度論の関数接合論による結果と理論式と比べn=2~3あたりが精度的にもよいとしたところなんかがとても参考になりましたね。