goo blog サービス終了のお知らせ 

高校「倫理」の授業録

高校「倫理」の授業で喋った与太話集。

【時事問題】住民自治とは?

2017年06月28日 | 時事問題
日本の地方が危機的な状況だというニュースをしばしば耳にしますね。
どのくらい危機的なのか。
2014年に民間研究機関の日本創成会議が発表したのは衝撃だった。
なんと、2040年までに行政機能の維持が難しくなる「消滅可能性都市」が、全国で896自治体に上ることが示された(毎日新聞・2014年5月19日)
福島県は原発事故が収束していないせいか、県単位のみの集計なので外されている。

この問題は継続的に追わなければいけないけれど、今回はこれに関連した住民自治のニュースだ。
2017年5月2日の日経新聞記事によると、高知県・大川村が人口流出と高齢化にさらされて村議会議員の担い手不足から、議会を廃止して有権者が参加する「町村総会」の設置が検討され始めたんだ。
2017年6月2日の朝日新聞によると、
鉱山で栄えた同村も、今や1960年代の人口の10分の1に減り、高齢化率は44%。
議員報酬も全国の町村議平均よりも3割低い15万5千円。
そんな中で浮上したのが「町村総会」だ。

地方自治法94条では町と村に限り、条例で議会の代わりに有権者全員で作る町村総会を置くことを認めています
いってみれば村政における直接民主制の実施ですね。
恥ずかしながら、こうした制度があることは今回のニュースで初めて知りました。
よく「政治・経済」の教科書に直接民主制の典型として、スイスの住民集会で有権者が挙手している場面なんか掲載されていますが、それが身近なものになるかもしれません。
もちろん、予算議決をはじめ政治的な専門性も必要ですから、これらを総会で決めていくことの困難は容易に想像されます。
山間の自治体では移動そのものも大変でしょう。
しかし、あらためて考えなければいけないのは、人口減社会・中央一極集中国家において地方自治はどうするかという課題が現実になっているところで、民主主義とは何かという問題でしょう。
むもしかすると、そこには誰かに肩代わりしてもらう代表民主主義ではない、真の民主政治のあり方が開かれるのかもしれない、と考えるのは楽観的に過ぎますかね?

それでも、近年、住民自治の変化は目覚ましい。
朝日新聞6月26日の記事によると、滋賀県愛荘町で通勤者・通学者も投票できる住民投票条例が成立した。
これもまた人口減社会において町外の人々に「第二の住民票」を発行するという街づくりに反映させようという取り組みだ。

これは首都圏に住む通勤者にも言えることかもしれませんね。
東京都に通勤しながら周辺県に住む人にとっては、都知事選や都議会選挙に一票を投じたいという思いはあるでしょう。
ただし、一応ここでは過疎化の問題に限定しておきましょう。

香川県三木町では2017年3月に「ふるさと住民票」を発行し、通勤・通学や出身者だけでなく、ふるさと納税をした町外在住者が登録すれば政策糧での「パブリックコメント」に参加できるという特典があるんだ。
その意味でいうと「ふるさと納税」という制度も興味深い。
そもそも故郷を離れた出身者が、「今は都会に住んでいても、自分を育んでくれた「ふるさと」に、自分の意思で、いくらかでも納税できる制度があっても良いのではないか」という発想が基本にある(総務省・ふるさと納税ポータルサイト)。
最近では、その納税の見返りの返礼品争奪が激化して、その趣旨から外れる問題も生じている(毎日新聞2016年1月31日)けれど、逆にその地域の問題解決に共感・賛同して納税をしてもらうような「ふるさと納税」もある。
たとえば、NPOが主体となって広島県では殺処分対象の犬を減らす活動のためにふるさと納税を利用したり、佐賀県では難病と闘う子供たち「毎日の治療」に伴う痛みを和らげるための研究にふるさと納税を利用するというものもあるようです。
地域の課題解決に共感賛同してもらう人々に、地域づくりを協力してもらうというのは「住民」という概念を拡大する意味もあるようですね。

実はこうした「住民」概念の変容というのは、原発事故で離散した避難自治体の問題にとって重要な意味をもっているんだ。
今、福島県内で避難指示を出されていた自治体の多くが、政府の避難解除宣言を受けて次々と帰還政策を始めている。
けれど、実態としては帰還率はかなり低い。
僕は住民の方に直接その理由を聴く機会を得たんだけれど、完全に元通りに回復されていない放射線汚染地に対する恐れはもちろんあるけれど、もう一つ重要なのは、原発事故の原因だった原発そのものが地域からなくなっていないことが不安だという声をいくつも聞いた。
え?原発は爆発して稼働しなくなったじゃないかって?
それは福島第一原子力発電所の方だよ。
福島にはもう一つ福島第二原子力発電所があって、そこは停止状態なんだ。
福島県議会では廃炉を求める議決を出したんだけれど、東京電力にその意思はないらしい。
一口に避難というけれど、その苦難は想像を絶している。
もう二度とその経験だけはしたくないというのが、原発避難の被害者たちの率直な思いであり、その原因がなくなっていないことが一番帰還を妨げる原因となっているという認識は持っておいた方がいい。

ところが、だ。
実は避難私事が解除された自治体の一つ富岡町の住民数は増えている。
これは帰還者がふえたということではないか、と即断すると理解を誤ることになるんだ。
この問題を考えている市村高志さんと山下裕介さんのセミナーを聴く機会があったのだけれど、それによれば第一原発の廃炉作業に仕事を求めてきた住民数が増えたということが実態らしい。
するとどうなるのか、というと基本的にそのような労働に住み始めた新住民だけが住民なのかという問題が生じる。
もともと住んでいた人々は、移住したことにさせられて、富岡という地域とは無関係な存在にさせられてよいのだろうか。
果たして、新住民の人々が富岡という街をこよなく愛して遠い将来まで責任をもって地域づくりをしてくれるのだろうか。
こうした原発事故による強制避難の苦難と「故郷」への愛着という思いが、いま地理的空間的な条件を超えた「住民」概念をつくり始めようとしているんだ。

でも、こうした新しい「住民」概念の生成にはとても関心があるんだけれど、それ以上に、それが何に基づいているのかというのがもっとも関心のある点なんだ。
言い換えると、なぜ避難者たちはかつての生活地域を簡単に移住したと割り切れないのだろうか。
一口に「郷土愛」というのかもしれないけれど、その人の人格をつくり記憶や経験の根っこというべき場所を失うということの意味づけが、そこには必要になってくるのだと思う。
実は、この点に関してぼくはけっこうドライで、僕自身は郷土愛というものがほとんどないんだよね。
でも、そんな人間でも故郷を失ったら、自分が育った場を失ったらどう感じるんだろうというのは、ものすごく考えさせられる。
新しい「住民」という概念は空間にとらわれない利害関係や理念への賛同というのがポイントになるのかもしれないけれど、原発事故の後にはその人にとっての「根」という場所論の視点も必要になってくるんじゃないかな。
そして、それは思想が相手にしなければいけない問題であるように思うんだ。

【時事問題】女子大とトランスジェンダー

2017年06月27日 | 時事問題
朝日新聞(2017年6月19日)に「〇は女性」女子大も門戸? 8校が検討前向き」という記事が載った。
さて、この新聞見出しの〇には何が入るだろうか?

答えは「心」。
「心は女性」の人が女子大に入るのは当たり前だって?
じゃあ、身体が男性の場合はどうだろう。
え、それは問題がある?なぜ?
「男性なのに女性のふりして更衣室に入るかもしれない」って?
でも、そのためにわざわざトランスジェンダーを装って女子大に入りたがるものなのかな。
むしろ、いつまでも女性を偽装しながら生活することに耐えられるとは考えにくいんじゃないかな。
実際、そういう誤解もあるようですが、このように心と身体の性が一致せず、違和感をもつ人々を「トランスジェンダー」というのは知っていましたか。
中には、病院で「性同一性障害」の診断を受ける人もいる。
こうした人々が、女子大で教育を受けることを求めはじめたんだ。

きっかけは、今年3月に日本女子大ではじまったとのことだ。
朝日新聞の3月19日の記事によれば、「検討のきっかけは2015年末、神奈川県に住む小学4年生の保護者からの問い合わせだった。この児童は戸籍上は男子だが、性同一性障害と診断され、女子として生活している。同大や付属校の入試の出願資格には、「女子」との規定があるが、同大付属中の受験を希望していた」とある。

どうしてわざわざ「女子」に限定された女子大や付属学校の入学を希望するのかって?
それは少し考えてみる時間をとった方がいいかもね。
かつて県立高校では進学校を中心として男子校と女子高に分かれていた時代があった。
僕の世代はまさにそうでした。
ただ、当時も男子校と呼ばれる高校は、制度上「男子」に限定していたわけじゃない。
実際僕の通っていた男子校では昭和30年代に女子学生も入学したらしいけれど、すぐに女子の入学者は絶えてしまった。
なぜだろう。
男子がほとんどの中で少数派として3年間も高校生活を送るのはつらいって?
そうなんだろうね。
しかも、僕の通った男子校は制度上は男女入学できると言いながら、女子更衣室はもちろん女子トイレはなかったし、女性教員も片手で数えられるくらいしかいなかった。
女子にとって教育環境が整備されていないにもかかわらず、権利上は女子も入学できるよ、という突き放した制度だったと言っていい。
今風に言えば「自己責任」ということだ。
そんなところにわざわざ女子が入りたいとはおもわないでしょう。
つまり、少数者として生きる上で安心できる場所を確保できるかどうかは死活問題なんだということは、ちょっと考えれば理解できるんじゃないかな。

だから男女共学が進められたんじゃないかだって?
そのとおり。
でも、そこが難しいところで、男女共学が進められれば、たしかに一見男女の平等が確立されたかのように見えるけれども、そうは簡単に解決と行かないところがジェンダー問題の複雑さがある。
これまで歴史的に長い時間をかけて差別抑圧されてきた側が、「もうそれは制度上解消されたのでどうぞ」と言われても、すぐに安心できるなんて思いこむのは抑圧する側の思い込みにすぎない。
いまでも女子高や女子大の存在意義を問う声は多々あるけれど、それは基本的に、社会的に抑圧されてきた女性という立場で安心して学べる環境を保証するという点にあるのだと思う。

被抑圧者や少数者が安心して学べる環境というのがポイントだということを抑えておこう。
これに関して、朝日新聞の2017年6月25日記事に興味深い記事が書いてあった。
津田塾大学長の高橋裕子氏によると、米国の女子大で、女性の体で生まれ、性別を男性に変更した学生に尋ねたところ、いじめや暴力などヘイト・クライム(憎悪犯罪)にあう恐れがあるが、女子大は「安全な場所」だからトランスジェンダーの人が女子大へ入学を希望するのだというエピソードを紹介している。
注意してほしいのは、この場合、「身体は女性だが心は男性」という学生の話だという点だ。
つまり、「心」や「身体」の性別が問題であるというのではなく、性的マイノリティという存在にとって「女子大」というのは「安全な場所」という役割を果たしているという点が重要なポイントなのだと思う。

もちろん、トランスジェンダーを女子大で受け入れるかどうかという議論は始まったばかりだ。
日本女子大の小山聡子氏によれば、教職員の中にも「気の毒だからやってあげる」という姿勢がゼロではなかったという。
これが同情に解決される問題ではないことは言うまでもないけれど、社会のこれまでの偏見が一気に解消される訳ではないことも現実だと思う。
それを徐々に「学習権利の保障」という観点で社会の認識を変えていくのはこれからの課題だ。

ところで、トランスジェンダーを含む性的マイノリティを「LGBT」と呼ぶのはご存知でしたか。
「L」はレズビアン、「G]はゲイ、「B」はバイセクシャル、「T」はトランスジェンダーです。
電通ダイバーシティ・ラボ(東京)が行った国内の成人約7万人を対象にした調査(15年)によれば、LGBTなど性的少数者に当たる人は全体の7・6%。トランスジェンダーは0・7%と言う結果が示されています。
この数字を考えれば、100人中7,8人は存在することになる。
周囲には見当たらないって?
もし、そのように感じているのだとすれば、その事実をどれだけ周囲に明かせない抑圧にさらされているのかと想像してみた方がいいと思う。
その存在があたかも友人の中にいるかのように想像すれば、振るまい方も変わってくるんじゃないのかな。

【コラム】プラトンの恐れたもの

2017年06月15日 | コラム


元同僚だった数学のS先生は、時々職員室で、もの思いに耽るのだが、そんな時は、たいてい数学の証明問題を頭の中で解いているらしい。そして、時々ニヤリとするのは、証明の解けた、この上ない幸福な瞬間だと言っていた。

残念ながら、高一の早い段階で、数学を捨てた僕には、この感覚がわからない。だから、S先生が「この証明は美しい」というのも、まったく意味不明だ。そもそも、数式に「美しい」といった形容詞がつけられるのは、いかなる権利においてのことなのだろうか。

ところで、プラトンは「身体は牢獄だ」と言った。彼は、思考する人にとって、病気や疲労が宿り、欲望や感情に翻弄される身体は、精神の働きを阻害する牢獄だと考えたのだ。だから、プラトンは「善く生きる」ためには、身体という牢獄から魂(精神)を解放し、感覚が邪魔しない純粋な真理(イデア)の世界へ赴くべきだと説く。感覚も身体も必要としない世界とは何か?それこそは、死の世界である。そのことを、ちゃんとプラトンは、「真に哲学にたずさわる人たちは…死を全うすることを目指している」(『パイドン』)と述べている。さらに、魂が身体の牢獄を抜け出して真理の世界へ行けるのだから、死はむしろ幸せなことだとさえいうのだ。

このプラトンのイデア説を踏まえると、S先生が頭のなかで証明問題を解いているとき、彼は「死の世界」へ赴いているということになる。まさか、本当に死んだわけではないが、そのときの彼は、すっかり自分の身体も他者の存在も忘れてしまっているだろう(だから、人目も憚らずニヤけられるのだ)。そして、この心身の分離の激しさは、同時に、他者とともに生きる世界から、死の世界へ棄脱するような経験を直観させるのである。

プラトンは、「洞窟の比喩」(『国家』第七章)で、この身体から魂が分離する過程を、こう説明する。そこでは、暗闇の洞窟のなかで鎖に縛られた囚人たちが、背後の光で壁に映し出された影を、ほんものの像と信じ込んでいる。すると、一人の囚人の鎖が解け、自由になった彼は、洞窟出口の上方から照らす光の根源、太陽を発見する。この太陽こそ、影を映し出す原因、すなわち真理である。

いわば、この影を本物と信じている囚人が、身体としての目であり、鎖から自由になって太陽を発見した人物が魂としての目である。と同時に、後者は哲学者の姿であり、この変容において幸福感は得られるというのだ。

ところが、厄介なのはこの後である。真理を見た哲学者は、仲間の囚人たちにもそれを教えようと、洞窟の奥へ戻るのだが、太陽に目が眩んだ彼は、そのことをうまく言葉にできない。すると、そのうち囚人たちは彼を失笑し始め、「洞窟の上へ行くから目が瞑れたのだ」と揶揄するようになる。

ここには、内なる魂でつかんだ真理が孕む二重の困難が示されている。一つは、魂でつかんだ真理を、外部世界の他者に伝えようとする途端、言葉になら
なくなってしまう問題である。二つ目は、真理を示す者に対し、身体の牢獄に安住する囚人(つまり、真理から目を背ける者)たちが反感を覚えてしまう問題だ。そして、後者の結末について、プラトンはこう述べる。

「彼ら[囚人たち]は、囚人を解放して[洞窟の]上の方へ連れて行こうと企てるものに対して、もしこれを何とかして手のうちに捕えて殺すことができるならば、殺してしまうのではないだろうか」(『国家』517A )。
 
プラトンがこう述べる背景には、ソクラテス裁判のトラウマがある。彼の師ソクラテスこそは、市民一人ひとりが魂を磨き、真理を発見できるように手助けしようとした人物である。その意味で、ソクラテスは、真理は他者と共有できると信じていた哲学者といえよう。だが、その活動の末に、彼はアテネ市民から反感を買い、死刑に処せられてしまった。 

この師匠の死に様を目の辺りにしたプラトンにとって、真理に目を向けようとしない民衆ほど、恐ろしいものはなかったのだろう。だから、一人静かに真理を看取できる内なる魂の領域こそ、幸福な「善き生」の場なのである。そして、真理に目を向ける哲学者が、民衆に殺されないためには、ただ一人、哲学者が王になればよい、という哲人政治の思想を打ち出すわけである。

実は、こんな話を書こうと思ったきっかけは、「人間にとって心はどんな場?」という質問に対する、君たちの意見を読んでのことだ。そこでは、心は「本当の自分を出せる場所」や、「自分だけの場所」といった意見が多数を占める一方、「他者には絶対に理解されない自分の居場所」という意見も多く述べられていた。なるほど、私の心の内は他者にはわからない。でも、「本当の私」が、他者に知りえない内面にしかないのだとすれば、いったい他者とともに生きる世界とは、君たちにとってどのような場なのだろうか。「偽の私」が生きる、虚構の世界だというのだろうか。それとも、プラトンとともに、暴力的な場でしかないということなのだろうか。

だが、皮肉にもプラトンが言うように、魂の領域は「死の世界」に過ぎない。むしろ、プラトンの断念を反転させることこそ、内なる「本当の私」を追い求めて苦しむ現代社会に必要な思想なのではないだろうか。

【第7回】プラトン①

2017年06月15日 | ギリシアの思想
ホワイトヘッドという現代の哲学者がいうには、「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」ということです。
はい。
というわけで、今回は西欧哲学最大の哲学者といってもよいプラトン(B.C.427-B.C.347)です。

彼は当初政治家を志していたのですが、28歳の時に、兄のアデイマントスとグラウコンとともにつきあいをもっていたソクラテスが死刑に処されたことに衝撃を受け、やがて哲学者としての道を歩むようになった人物です。

ソクラテスは自分の思想を何も書き残さなかったけれど、プラトンがそれを書き残したということは以前話したよね。
そうなると難しいのは、どこからがソクラテスの思想で、どこからがプラトンの思想なのか、という問題だ。
いちおう、研究上はプラトンの著作は前期・中期・後期に分けられており、前期の著作にソクラテスらしさが色濃く表れているとされているんだ。
最初は、師匠ソクラテスの思い出を、ただただ書き残そうと思ったのかもしれないね。
でも、少しずつ思い出の中の師匠と思考の対話をしながら、プラトンはソクラテスが述べなかった論理を自分なりに見出していったんじゃないかな。
だから、どこからソクラテスの思想かという区分は、実はあまり意味がないのかもしれない。

それでもあえて違いを意識するのだとすれば、ソクラテスが問答法によって相手を「無知」の困惑に陥らせるばかりで、自らはほとんど答えを示さなかったのに対し、プラトンはその答えを明示することができたという点だろうね。

たとえば、『メノン』では「徳は教えられるか」という問いに対して問答を重ねるうちに、ソクラテスは相手を無知の困惑に導きながら、そもそも「徳とはなにか、ぼくにもわからないのだ」と告白している。
それに対して問答相手のメノンは、「おやソクラテス、いったいあなたは、それがなんであるかが、あなたにぜんぜんわかっていないとしたら、どうやってそれを探し求めるつもりですか?」と逆に問い詰められる場面があるんだ。
すると、ソクラテスは、既に「知っているもの」は探求する必要がない以上、を探究することはありえないが、同時に「知らないもの」についても何を探究すべきか知られていないのだから、それもまた探求することもあり得ないという「探求のパラドクス」を示した上で、次のように説明する。
魂はなんども生まれ変わる不死のものであるが、その過程ですっかりあらゆることを学んでしまっている。
「徳」もその一つだから、それを学ぶということは、実は魂の中にあるものを「想起する」ことであり、それを思い出させるのが問答法なのだというわけです。
たとえば、僕らは自分で時計をもっていたことはわかっているけれど、しばらく使わないでおいたら、それをどこに置いたか忘れてしまって思い出せないという経験があるよね。
だからその時計を探し出そうとすることができる。そもそも時計をもっていないどころか、それが何かを知らなかったら探そうなんてことも思いつかないでしょう。
「徳」というのもそのようなもので、たしかに魂の中に刻まれているんだけれど、生まれかわる過程で忘れちゃった。
でも、忘れているだけで、それがどんなものであったのかは、問答によって魂から引き出すことができる。
これが「想起説」(アナムネーシス)というやつだ。
『メノン』の中では、そのことを数学も何も知らない奴隷の少年をソクラテスが問答しながら、少年が自ら幾何学の正答を導き出すエピソードを紹介している。
まぁ、「魂の生まれ変わり」という点はちょっと待てよと思うけれど、この想起説というのはよく考えるとうまくできている話でもあるんだ。
たしかに、まったく知りえないものだったら、僕らはそもそも探そうとすることもないからね。
だから、完全にわかっていないんだけれ、存在していることを直感させる何かがある。
それをプラトンは(もちろん著作ではソクラテスに語らせながら)、「ものそのもの」と言っている。
ソクラテスは「〇〇とは何か?」と問うたけれど、それに対応するのが「〇〇そのもの」というものだ。
プラトンはこれを「イデア」(真実在)と名づけた。

これを考える上でいつも君たちにやってもらっていることがあります。
これができたら1学期の成績は「5」をあげますよ。
それは「完全な直線」を書いてほしいというものです。どんな道具を使ってもいいですよ。
挑戦者は?ハイ、そこの君!どうぞ!

できた?
なるほど、きれいな直線ですね。
でも、これじゃあ、不十分ですね。僕は「完全な」といいましたよ。
え、何が不十分かって?
だって、これは細い長方形ではないでしょうか。
どんなに細く描いたとしても、この現実世界では不完全なものになっちゃうよね。
え?これじゃ、どんなに直線を精確に描いても正解はないじゃないかって?詐欺だって。はい、そのとおり、どのみち」「5」はあげられないという意味ではそのとおりです。ごめんなさい。
まぁ、それでも今体験してもらいたかったのは、まさに現実に書き表そうとすると、途端に不完全になってしまう直線って、じゃあなんなの?ということを考えてもらいたかったからです。
あらためて聞くけれど、「直線」って何?
数学ではどう教わった?
生徒:「二点間を最短で結ぶ線。」
そうですね。厳密にいうと、それは「線分」なのですが、まぁひとまずはそれでよしとしましょう。細かいことは数学の先生に聞いてね。
ここで確認しておきたいことは、一口に「直線(分)」といっても、感覚できる世界で表現すると不完全なものばかりになってしまい、一つとして同じものはないという点です。
そうであるにもかかわらず、「直線そのもの」はある。
そして、厳密な数学の定義はおくとして、さしあたり「二点間を最短で結ぶ線」と言葉で定義できるわけだ。
こうした言葉で定義されるものが、イデアであると言っていいでしょう。

そして、プラトンは「正義」や「美」といった概念についてもこうしたイデアが存在するというんだ。
くり返し言うように、重要なことは、それは感覚されるものではなく、それを超えた存在であり、それをつかみ取ることができるのが理性の眼だということだ。
これをプラトンは理性でしか捉えられないイデアを「真理」とし、身体の五感で捉えられるものは「まがい物」に過ぎない「現象」だというわけです。
感覚が認識を惑わす例って、何か挙げられるかな?
生徒:錯覚なんかそうじゃないですか。鉛筆を振ってみると曲がって見えるというやつとか。

なるほど、おもしろいね。実際は鉛筆は曲がっていないのに、振ってみるとそうみえるというやつね。
これは目が鉛筆の動きについていかないために生じる錯覚だよね。
この種の錯覚はたくさんあるよね。
水に棒を突っ込んでみても屈折して見えるし、君たちの10代の耳には聞こえても僕のように40代の耳には聞こえない音の周波数っていうのもある
感覚って不思議だよね。
でも、それは豊かさを与えるものでもあると思うんだよね。
いきつけのインド料理店のマスターは、人間が味わうための感覚には味覚と嗅覚と視覚以外にもう一つあるというんだ。
何だと思う?
それが指で味わう触覚だというんだ!だからインド料理は本来右手でつまみながら食すでしょ。
指先で味を感じるなんて信じられないかな。
でも、それは僕らの文化にもありますよ。
そう、お寿司やおにぎり。
今でこそ寿司を箸で食べる人も増えましたが、寿司屋の職人さんによってはそれをたしなめる人もいたそうです。
おにぎりだって、せっかく握ったものを箸で種たら、別の味わいがしませんか。
だから、感覚や感性の豊かさはそのまま世界の豊かさにつながるんだと思う。
このことは、視覚障碍者や聴覚障碍者の世界が貧しいなんてことは、まったく意味しません。
むしろ、目が見えないことや耳が聞こえないことが別の感覚を研ぎ澄ますことで、見えたり聴こえる人には認識できない世界の感受の仕方があることを、ディドロの『盲人書簡』という本は明らかにしています。

それでも、プラトンは感性や感覚を徹底して貶めて、理性と感覚に優劣をつけたんです。
これは、彼が理想のイデア界と現実の現象界に分けた二世界説という考え方にも対応しています。
よく理想の愛を「プラトニックラブ」と言いますが、これがプラトンから来ていることはよく言われることですね。
逆に言えば、理想の愛は現実二は存在しないということにもなります。
どんなに猛烈な恋愛経験をしても、悲しいかな、しばしば時とともにその情熱は失われていく場合が少なくありません。
場合によっては、信じられないほど愛し合っていた二人が別れるなんてこともあります。
だから、「今が幸せ」だからといって、現実にあまり期待しない方がいい。
むしろ、現実があまりに悲惨だからこそ、人間は理想に憧れるものなのでしょう。
プラトンの場合、「知への愛(エロス)」を原点としたイデア界へのあこがれであり、そのあこがれが知を愛する哲学の原理であるというんだ。

じゃあ、感覚を超えたイデア界って、どんな世界なのだろう?
そうだね。
身体を必要としない以上、それは死の世界だね。
ソクラテスの死を描いた『クリトン』や『パイドン』では、しきりにソクラテスが死は害悪ではないことを述べているけれど、それはこのプラトンの思想と結びつけて語らせているのでしょう。
そこでプラトンは、死の世界に赴くためには真理を理性でつかみ取る哲学の方法が大切だといい、だから「哲学は死のレッスンだ」とまでいっているんだ。
だから、彼はそのモデルとなる数学を重視しているんだよね。
数学は究極的には五感を必要としなくてもアタマの中だけで答えを導き出してしまえる学問だからね。

さて、プラトンは感覚や感情を貶め、イデアを認識することがすぐれているという二分法を打ち立てました。
この根本には、やはりソクラテスの刑死という出来事の経験が暗く影を落としていると思われます。
次回はそのことについて扱いたいと思います。

【コラム】クイズ「アテネの学堂」(古代ギリシアの確認問題)

2017年06月14日 | コラム


この絵は、ラファエロの有名な作品「アテネの学堂」(1509-1510年)です。
バチカンの教皇庁ラファエロの間に飾られていますが、この作品には古代ギリシアの哲学者たちが描かれていると言われています。
といっても、ラファエロ自身が誰が誰であるのか明示していませんから、それぞれのキャラクターからおおよそこの哲学者じゃないかと様々な研究者が解釈しているようですが、それぞれが食い違っているようです。
以下のクイズは、Michael Lahanasが推理したとされるウィキペディアの情報を参照して作成したものなので、精確さには注意しましょうね。あくまでゲーム感覚のお遊びということで。
というわけで、さっそく古代ギリシアの学習が終わった時点で、それぞれの哲学者の特徴を思い出しながら、以下のヒントを参考に図中の〇内の数字に当てはまる哲学者が誰なのか当ててみよう!


① 「アキレウスと亀」を提起した哲学者か、同名のストア派の哲学者。後者はストア派らしく、学園から帰宅する途中に転倒してつま先の骨を折ってしまった際、高齢の自分はもう死ぬのが適当だろうと考え、「いま行くところだ! どうして私を呼びたてるのか!」と言って、自ら息を止めて死んでいったというエピソードがある。

② 禁欲主義者と言えば…その割にはふくよかな気がしますねぇ

3 不明

④ 「万物は無限のもの」と述べた哲学者、「万物は火、水、土、空気の四元素からなる」と述べた哲学者か。あるいはボエティウスか。

⑤ 描かれた顔を見てわかるようにアラブ・イスラム世界におけるアリストテレスの注釈者として有名。ラテン語名アヴェロエスの名でよく知られている。スペインのコルドバ生まれのイスラーム神学者。これは教養と知っておきましょう。

⑥ 宇宙は数の調和で成り立っており、輪廻転生や音楽の調和と結びついていると考えた哲学者・数学者

⑦ ソクラテスに恋をした美少年か。あるいは、このスタイルからアリストテレスが家庭教師をした大王か。


8 アンティステネスか、クセノフォンか

9 ヒュパティア — フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレか、ラファエロの愛人マルゲリータ

10 アイスキネスか、クセノフォンか

⑪ 「あるものはある、ないものはない」と述べた哲学者

⑫ 言わずと知れた市民と対話する哲学者の元祖。けっこうカッコよく描かれているね。

⑬ 「万物は流転する」といえば?「暗い人」と呼ばれた哲学者らしく憂鬱そうに描かれていますね。ミケランジェロがモデルだとか。

⑭ 指をさす天上には真理のイデア界がある…といえば。手には著書「ティマイオス」をもっている。ちなみにモデルはレオナルド・ダ・ビンチ。

⑮ 対話相手である14の哲学者に対して、地上の事物に潜む質料と形相の一致を説いた哲学者。手には彼の著書『二コマコス倫理学』をもっている

⑯ 犬の哲学者と呼ばれ、大樽の中で生活した奇行の哲学者。そこには自足することと動じないことが大切だと考えた彼の思想の実践がある。神殿の会談でだらっと寝そべる姿は、彼らしさを表現しているのかな。住むところも気にせず、神殿や倉庫で寝て「アテナイ人は自分のために住処を作ってくれる」と言ったとか。僕はこの哲学者の生き方、大好きだなぁ~

⑰ 新プラトン主義の哲学者といえば…

⑱ 浴槽に入ると水面が高くなることに気づき、水は圧縮では容易に減容しない性質から、同じ体積分水面が上昇し、容易に体積を測ることができると考えた数学・物理学者か。あるいは「線は幅のない長さである」と定義づけるなど幾何学を発明した数学者か。


19 ストラボンか、ゾロアスター?
ゾロアスターはペルシア語でザラスシュトラといいます。ゾロアスター教の開祖ですが、これのドイツ語読みがツアラトゥストラです。これを聞いて、ニーチェの同名の作品を思い出せる人はすごいです。

⑳ 地球儀をもって議論していますね。天動説に基づいて天球図を作った天文学者。教養として知っておくとカッコいい。


21 プロトゲネス

R この絵の作者ラファエロです。西洋絵画には、時々作者自身が図中にひっそり描かれていることがあるんです。




どうでしたか?
それぞれのキャラにあった描き方がされていますか?
厳密な答えはわからないけれど、ラファエロの想像力と僕らの想像力を組み合わせて絵を鑑賞するのも楽しいよね!
答えはウィキペディアの「アテネの学堂」をクリックして確認してみよう!