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高校「倫理」の授業録

高校「倫理」の授業で喋った与太話集。

【時事問題】住民自治とは?

2017年06月28日 | 時事問題
日本の地方が危機的な状況だというニュースをしばしば耳にしますね。
どのくらい危機的なのか。
2014年に民間研究機関の日本創成会議が発表したのは衝撃だった。
なんと、2040年までに行政機能の維持が難しくなる「消滅可能性都市」が、全国で896自治体に上ることが示された(毎日新聞・2014年5月19日)
福島県は原発事故が収束していないせいか、県単位のみの集計なので外されている。

この問題は継続的に追わなければいけないけれど、今回はこれに関連した住民自治のニュースだ。
2017年5月2日の日経新聞記事によると、高知県・大川村が人口流出と高齢化にさらされて村議会議員の担い手不足から、議会を廃止して有権者が参加する「町村総会」の設置が検討され始めたんだ。
2017年6月2日の朝日新聞によると、
鉱山で栄えた同村も、今や1960年代の人口の10分の1に減り、高齢化率は44%。
議員報酬も全国の町村議平均よりも3割低い15万5千円。
そんな中で浮上したのが「町村総会」だ。

地方自治法94条では町と村に限り、条例で議会の代わりに有権者全員で作る町村総会を置くことを認めています
いってみれば村政における直接民主制の実施ですね。
恥ずかしながら、こうした制度があることは今回のニュースで初めて知りました。
よく「政治・経済」の教科書に直接民主制の典型として、スイスの住民集会で有権者が挙手している場面なんか掲載されていますが、それが身近なものになるかもしれません。
もちろん、予算議決をはじめ政治的な専門性も必要ですから、これらを総会で決めていくことの困難は容易に想像されます。
山間の自治体では移動そのものも大変でしょう。
しかし、あらためて考えなければいけないのは、人口減社会・中央一極集中国家において地方自治はどうするかという課題が現実になっているところで、民主主義とは何かという問題でしょう。
むもしかすると、そこには誰かに肩代わりしてもらう代表民主主義ではない、真の民主政治のあり方が開かれるのかもしれない、と考えるのは楽観的に過ぎますかね?

それでも、近年、住民自治の変化は目覚ましい。
朝日新聞6月26日の記事によると、滋賀県愛荘町で通勤者・通学者も投票できる住民投票条例が成立した。
これもまた人口減社会において町外の人々に「第二の住民票」を発行するという街づくりに反映させようという取り組みだ。

これは首都圏に住む通勤者にも言えることかもしれませんね。
東京都に通勤しながら周辺県に住む人にとっては、都知事選や都議会選挙に一票を投じたいという思いはあるでしょう。
ただし、一応ここでは過疎化の問題に限定しておきましょう。

香川県三木町では2017年3月に「ふるさと住民票」を発行し、通勤・通学や出身者だけでなく、ふるさと納税をした町外在住者が登録すれば政策糧での「パブリックコメント」に参加できるという特典があるんだ。
その意味でいうと「ふるさと納税」という制度も興味深い。
そもそも故郷を離れた出身者が、「今は都会に住んでいても、自分を育んでくれた「ふるさと」に、自分の意思で、いくらかでも納税できる制度があっても良いのではないか」という発想が基本にある(総務省・ふるさと納税ポータルサイト)。
最近では、その納税の見返りの返礼品争奪が激化して、その趣旨から外れる問題も生じている(毎日新聞2016年1月31日)けれど、逆にその地域の問題解決に共感・賛同して納税をしてもらうような「ふるさと納税」もある。
たとえば、NPOが主体となって広島県では殺処分対象の犬を減らす活動のためにふるさと納税を利用したり、佐賀県では難病と闘う子供たち「毎日の治療」に伴う痛みを和らげるための研究にふるさと納税を利用するというものもあるようです。
地域の課題解決に共感賛同してもらう人々に、地域づくりを協力してもらうというのは「住民」という概念を拡大する意味もあるようですね。

実はこうした「住民」概念の変容というのは、原発事故で離散した避難自治体の問題にとって重要な意味をもっているんだ。
今、福島県内で避難指示を出されていた自治体の多くが、政府の避難解除宣言を受けて次々と帰還政策を始めている。
けれど、実態としては帰還率はかなり低い。
僕は住民の方に直接その理由を聴く機会を得たんだけれど、完全に元通りに回復されていない放射線汚染地に対する恐れはもちろんあるけれど、もう一つ重要なのは、原発事故の原因だった原発そのものが地域からなくなっていないことが不安だという声をいくつも聞いた。
え?原発は爆発して稼働しなくなったじゃないかって?
それは福島第一原子力発電所の方だよ。
福島にはもう一つ福島第二原子力発電所があって、そこは停止状態なんだ。
福島県議会では廃炉を求める議決を出したんだけれど、東京電力にその意思はないらしい。
一口に避難というけれど、その苦難は想像を絶している。
もう二度とその経験だけはしたくないというのが、原発避難の被害者たちの率直な思いであり、その原因がなくなっていないことが一番帰還を妨げる原因となっているという認識は持っておいた方がいい。

ところが、だ。
実は避難私事が解除された自治体の一つ富岡町の住民数は増えている。
これは帰還者がふえたということではないか、と即断すると理解を誤ることになるんだ。
この問題を考えている市村高志さんと山下裕介さんのセミナーを聴く機会があったのだけれど、それによれば第一原発の廃炉作業に仕事を求めてきた住民数が増えたということが実態らしい。
するとどうなるのか、というと基本的にそのような労働に住み始めた新住民だけが住民なのかという問題が生じる。
もともと住んでいた人々は、移住したことにさせられて、富岡という地域とは無関係な存在にさせられてよいのだろうか。
果たして、新住民の人々が富岡という街をこよなく愛して遠い将来まで責任をもって地域づくりをしてくれるのだろうか。
こうした原発事故による強制避難の苦難と「故郷」への愛着という思いが、いま地理的空間的な条件を超えた「住民」概念をつくり始めようとしているんだ。

でも、こうした新しい「住民」概念の生成にはとても関心があるんだけれど、それ以上に、それが何に基づいているのかというのがもっとも関心のある点なんだ。
言い換えると、なぜ避難者たちはかつての生活地域を簡単に移住したと割り切れないのだろうか。
一口に「郷土愛」というのかもしれないけれど、その人の人格をつくり記憶や経験の根っこというべき場所を失うということの意味づけが、そこには必要になってくるのだと思う。
実は、この点に関してぼくはけっこうドライで、僕自身は郷土愛というものがほとんどないんだよね。
でも、そんな人間でも故郷を失ったら、自分が育った場を失ったらどう感じるんだろうというのは、ものすごく考えさせられる。
新しい「住民」という概念は空間にとらわれない利害関係や理念への賛同というのがポイントになるのかもしれないけれど、原発事故の後にはその人にとっての「根」という場所論の視点も必要になってくるんじゃないかな。
そして、それは思想が相手にしなければいけない問題であるように思うんだ。

【時事問題】女子大とトランスジェンダー

2017年06月27日 | 時事問題
朝日新聞(2017年6月19日)に「〇は女性」女子大も門戸? 8校が検討前向き」という記事が載った。
さて、この新聞見出しの〇には何が入るだろうか?

答えは「心」。
「心は女性」の人が女子大に入るのは当たり前だって?
じゃあ、身体が男性の場合はどうだろう。
え、それは問題がある?なぜ?
「男性なのに女性のふりして更衣室に入るかもしれない」って?
でも、そのためにわざわざトランスジェンダーを装って女子大に入りたがるものなのかな。
むしろ、いつまでも女性を偽装しながら生活することに耐えられるとは考えにくいんじゃないかな。
実際、そういう誤解もあるようですが、このように心と身体の性が一致せず、違和感をもつ人々を「トランスジェンダー」というのは知っていましたか。
中には、病院で「性同一性障害」の診断を受ける人もいる。
こうした人々が、女子大で教育を受けることを求めはじめたんだ。

きっかけは、今年3月に日本女子大ではじまったとのことだ。
朝日新聞の3月19日の記事によれば、「検討のきっかけは2015年末、神奈川県に住む小学4年生の保護者からの問い合わせだった。この児童は戸籍上は男子だが、性同一性障害と診断され、女子として生活している。同大や付属校の入試の出願資格には、「女子」との規定があるが、同大付属中の受験を希望していた」とある。

どうしてわざわざ「女子」に限定された女子大や付属学校の入学を希望するのかって?
それは少し考えてみる時間をとった方がいいかもね。
かつて県立高校では進学校を中心として男子校と女子高に分かれていた時代があった。
僕の世代はまさにそうでした。
ただ、当時も男子校と呼ばれる高校は、制度上「男子」に限定していたわけじゃない。
実際僕の通っていた男子校では昭和30年代に女子学生も入学したらしいけれど、すぐに女子の入学者は絶えてしまった。
なぜだろう。
男子がほとんどの中で少数派として3年間も高校生活を送るのはつらいって?
そうなんだろうね。
しかも、僕の通った男子校は制度上は男女入学できると言いながら、女子更衣室はもちろん女子トイレはなかったし、女性教員も片手で数えられるくらいしかいなかった。
女子にとって教育環境が整備されていないにもかかわらず、権利上は女子も入学できるよ、という突き放した制度だったと言っていい。
今風に言えば「自己責任」ということだ。
そんなところにわざわざ女子が入りたいとはおもわないでしょう。
つまり、少数者として生きる上で安心できる場所を確保できるかどうかは死活問題なんだということは、ちょっと考えれば理解できるんじゃないかな。

だから男女共学が進められたんじゃないかだって?
そのとおり。
でも、そこが難しいところで、男女共学が進められれば、たしかに一見男女の平等が確立されたかのように見えるけれども、そうは簡単に解決と行かないところがジェンダー問題の複雑さがある。
これまで歴史的に長い時間をかけて差別抑圧されてきた側が、「もうそれは制度上解消されたのでどうぞ」と言われても、すぐに安心できるなんて思いこむのは抑圧する側の思い込みにすぎない。
いまでも女子高や女子大の存在意義を問う声は多々あるけれど、それは基本的に、社会的に抑圧されてきた女性という立場で安心して学べる環境を保証するという点にあるのだと思う。

被抑圧者や少数者が安心して学べる環境というのがポイントだということを抑えておこう。
これに関して、朝日新聞の2017年6月25日記事に興味深い記事が書いてあった。
津田塾大学長の高橋裕子氏によると、米国の女子大で、女性の体で生まれ、性別を男性に変更した学生に尋ねたところ、いじめや暴力などヘイト・クライム(憎悪犯罪)にあう恐れがあるが、女子大は「安全な場所」だからトランスジェンダーの人が女子大へ入学を希望するのだというエピソードを紹介している。
注意してほしいのは、この場合、「身体は女性だが心は男性」という学生の話だという点だ。
つまり、「心」や「身体」の性別が問題であるというのではなく、性的マイノリティという存在にとって「女子大」というのは「安全な場所」という役割を果たしているという点が重要なポイントなのだと思う。

もちろん、トランスジェンダーを女子大で受け入れるかどうかという議論は始まったばかりだ。
日本女子大の小山聡子氏によれば、教職員の中にも「気の毒だからやってあげる」という姿勢がゼロではなかったという。
これが同情に解決される問題ではないことは言うまでもないけれど、社会のこれまでの偏見が一気に解消される訳ではないことも現実だと思う。
それを徐々に「学習権利の保障」という観点で社会の認識を変えていくのはこれからの課題だ。

ところで、トランスジェンダーを含む性的マイノリティを「LGBT」と呼ぶのはご存知でしたか。
「L」はレズビアン、「G]はゲイ、「B」はバイセクシャル、「T」はトランスジェンダーです。
電通ダイバーシティ・ラボ(東京)が行った国内の成人約7万人を対象にした調査(15年)によれば、LGBTなど性的少数者に当たる人は全体の7・6%。トランスジェンダーは0・7%と言う結果が示されています。
この数字を考えれば、100人中7,8人は存在することになる。
周囲には見当たらないって?
もし、そのように感じているのだとすれば、その事実をどれだけ周囲に明かせない抑圧にさらされているのかと想像してみた方がいいと思う。
その存在があたかも友人の中にいるかのように想像すれば、振るまい方も変わってくるんじゃないのかな。