高校「倫理」の授業録

高校「倫理」の授業で喋った与太話集。

【コラム】プラトンの恐れたもの

2017年06月15日 | コラム


元同僚だった数学のS先生は、時々職員室で、もの思いに耽るのだが、そんな時は、たいてい数学の証明問題を頭の中で解いているらしい。そして、時々ニヤリとするのは、証明の解けた、この上ない幸福な瞬間だと言っていた。

残念ながら、高一の早い段階で、数学を捨てた僕には、この感覚がわからない。だから、S先生が「この証明は美しい」というのも、まったく意味不明だ。そもそも、数式に「美しい」といった形容詞がつけられるのは、いかなる権利においてのことなのだろうか。

ところで、プラトンは「身体は牢獄だ」と言った。彼は、思考する人にとって、病気や疲労が宿り、欲望や感情に翻弄される身体は、精神の働きを阻害する牢獄だと考えたのだ。だから、プラトンは「善く生きる」ためには、身体という牢獄から魂(精神)を解放し、感覚が邪魔しない純粋な真理(イデア)の世界へ赴くべきだと説く。感覚も身体も必要としない世界とは何か?それこそは、死の世界である。そのことを、ちゃんとプラトンは、「真に哲学にたずさわる人たちは…死を全うすることを目指している」(『パイドン』)と述べている。さらに、魂が身体の牢獄を抜け出して真理の世界へ行けるのだから、死はむしろ幸せなことだとさえいうのだ。

このプラトンのイデア説を踏まえると、S先生が頭のなかで証明問題を解いているとき、彼は「死の世界」へ赴いているということになる。まさか、本当に死んだわけではないが、そのときの彼は、すっかり自分の身体も他者の存在も忘れてしまっているだろう(だから、人目も憚らずニヤけられるのだ)。そして、この心身の分離の激しさは、同時に、他者とともに生きる世界から、死の世界へ棄脱するような経験を直観させるのである。

プラトンは、「洞窟の比喩」(『国家』第七章)で、この身体から魂が分離する過程を、こう説明する。そこでは、暗闇の洞窟のなかで鎖に縛られた囚人たちが、背後の光で壁に映し出された影を、ほんものの像と信じ込んでいる。すると、一人の囚人の鎖が解け、自由になった彼は、洞窟出口の上方から照らす光の根源、太陽を発見する。この太陽こそ、影を映し出す原因、すなわち真理である。

いわば、この影を本物と信じている囚人が、身体としての目であり、鎖から自由になって太陽を発見した人物が魂としての目である。と同時に、後者は哲学者の姿であり、この変容において幸福感は得られるというのだ。

ところが、厄介なのはこの後である。真理を見た哲学者は、仲間の囚人たちにもそれを教えようと、洞窟の奥へ戻るのだが、太陽に目が眩んだ彼は、そのことをうまく言葉にできない。すると、そのうち囚人たちは彼を失笑し始め、「洞窟の上へ行くから目が瞑れたのだ」と揶揄するようになる。

ここには、内なる魂でつかんだ真理が孕む二重の困難が示されている。一つは、魂でつかんだ真理を、外部世界の他者に伝えようとする途端、言葉になら
なくなってしまう問題である。二つ目は、真理を示す者に対し、身体の牢獄に安住する囚人(つまり、真理から目を背ける者)たちが反感を覚えてしまう問題だ。そして、後者の結末について、プラトンはこう述べる。

「彼ら[囚人たち]は、囚人を解放して[洞窟の]上の方へ連れて行こうと企てるものに対して、もしこれを何とかして手のうちに捕えて殺すことができるならば、殺してしまうのではないだろうか」(『国家』517A )。
 
プラトンがこう述べる背景には、ソクラテス裁判のトラウマがある。彼の師ソクラテスこそは、市民一人ひとりが魂を磨き、真理を発見できるように手助けしようとした人物である。その意味で、ソクラテスは、真理は他者と共有できると信じていた哲学者といえよう。だが、その活動の末に、彼はアテネ市民から反感を買い、死刑に処せられてしまった。 

この師匠の死に様を目の辺りにしたプラトンにとって、真理に目を向けようとしない民衆ほど、恐ろしいものはなかったのだろう。だから、一人静かに真理を看取できる内なる魂の領域こそ、幸福な「善き生」の場なのである。そして、真理に目を向ける哲学者が、民衆に殺されないためには、ただ一人、哲学者が王になればよい、という哲人政治の思想を打ち出すわけである。

実は、こんな話を書こうと思ったきっかけは、「人間にとって心はどんな場?」という質問に対する、君たちの意見を読んでのことだ。そこでは、心は「本当の自分を出せる場所」や、「自分だけの場所」といった意見が多数を占める一方、「他者には絶対に理解されない自分の居場所」という意見も多く述べられていた。なるほど、私の心の内は他者にはわからない。でも、「本当の私」が、他者に知りえない内面にしかないのだとすれば、いったい他者とともに生きる世界とは、君たちにとってどのような場なのだろうか。「偽の私」が生きる、虚構の世界だというのだろうか。それとも、プラトンとともに、暴力的な場でしかないということなのだろうか。

だが、皮肉にもプラトンが言うように、魂の領域は「死の世界」に過ぎない。むしろ、プラトンの断念を反転させることこそ、内なる「本当の私」を追い求めて苦しむ現代社会に必要な思想なのではないだろうか。


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