高校「倫理」の授業録

高校「倫理」の授業で喋った与太話集。

【第1回】授業のイントロダクション

2017年06月03日 | イントロダクション
いよいよ「倫理」の授業が始まりました。
楽しみ?え、なにやるんだかわからないって?
そりゃそうだね。「倫理」って、中学校で勉強したことない科目だしね。

じゃあ、「哲学」って言葉は聞いたことはあるかな。
参考までにいうと、学問的には「倫理学」は「哲学」の一部に位置づけられるんだけれど、僕はとりあえず高校の「倫理」という科目は、「哲学」の学習であると捉えているんだ。
イメージをつかむためにその話から始めるね。
「イチローの野球哲学」みたいな感じで、なんだ技術理論や信念とか、そんなニュアンスがあるよね。
でも、ちょっとそれは違うんだ。
簡単に言うと、哲学ってものごとを徹底的に「疑う」ということを一つの基本的な営みにしている。
疑うことを徹底して行った先に、なにかが見える方法といった方がいいかもしれない。

え、「疑う」っていうと、あんまりよろしくないことじゃないかって?
そうね、人を疑うってことは必ずしもよいことではないかもしれない。
教師である僕が君たちのことを疑っているとなると、それはそれで君たちとの関係は成り立たないし、逆もしかりだよね。
でも、「疑う」ってことは生きる知恵でもあるはずだ。
「オレオレ詐欺」に騙されたら、そりゃだました方は悪いけれど、騙されない智慧もつけないといけないわけだからね。
僕は勉強する意味の一つは「騙されないため」だと思っているけれど、そのためには「疑う力」も必要なわけだ。

そのことを伊丹万作(1900-1946)っていう映画監督がとても重要なことを言っている。

敗戦後、彼は「戦争責任者の問題」【資料】というエッセイで、「今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたというだまされた」という日本人の姿に対して、次のように「だまされた責任」を問うことを訴えています。

それは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

一般に「だます」ことは、意図的に嘘をつくことだとされます。
たとえば、戦時中、学校の先生たちは「教育勅語」に基づいて一生懸命に忠君愛国を説き、教え子たちを戦場へ送り込むことをよしとしていましたが、先生たちは意図的に「嘘」をついていたわけではないと思います。
心底信じていた人も多いだろうし、そこまで信じていなくても「国の言うことだから」と納得して教育していた人も少なくなかったでしょう。
もちろん、それを「信じていなかった」先生もいることはいました。
しかし、結果として国全体が軍国主義を称揚する雰囲気の中、その軍国主義教育を行っていた教師たちの多くが、敗戦とともに民主主義者へ転向した姿を教え子たちが見たらどうでしょう。
「俺たちは、すっかり政府にだまされていたんだ」なんて言い訳は通用しませんよね。
それについて伊丹は次のように述べています。

いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。

もちろん、「だました責任」と「だまされた責任」は同じではありません。
しかし、「だまされた」側に問題ないかと言われれば、そうではないでしょう。
それについて伊丹は次のように言います。

だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。/しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
〔中略〕
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

「だまされる責任」。
いきなり重い言葉ですが、だからこそ「だまされない」ためには「疑う力」が大切になってくるのです。
とりわけ、「3.11」の東電福島第一原子力発電所事故を経験した僕らの世代は、この問題をけっして避けて通ることはできません。
あのときも「東電、政府にだまされた」という言葉が飛び交いました。
もちろん、その責任を問うことは重要ですが、それと同時に「だまされた側」の責任とは何だったのか。
戦争責任を問うことと同じ問題に、僕らは直面しているといってもよいのです。

でも、「疑う」勉強っていうと、ちょっとモチベーションが落ちるかな。
少し見方を変えてみよう。
皆さんは、子どものころに「不思議だなぁ」とか「これってどうなっているんだろう」と漠然と思った経験はない?
たとえば、僕は子どものころ夜空を見ながら「宇宙の端ての端てってどうなっているんだろう?」と思っていた。
そう思っていた人、けっこういるでしょ?
最先端の物理学の成果によると、宇宙の始まりはビッグバンが生じて以来、138億年かけて膨張していることになっている。
もし、そうだとするならば、宇宙は拡がっている端っこの境界線みたいなのがあるわけだよね。
その境界線の向こう側はどうなっているのか。
あるいは、ビッグバンによって時間と空間が生まれた、というけれど、ビッグバン以前には何が「あった」のかという疑問だってわくわけだ。
そもそも時間と空間がない世界って、想像できる?


これは、後で扱うカントっていう哲学者が問題にしている。
どうも僕らが物事を認識する知性っていうのは、「時間」と「空間」という枠組みで捉えるしかなくって、それを超えたものは認識できないっていうんだ。
え、じゃあ、宇宙以前とか宇宙の果ての向こう側って知りえないの、っていうとカントさんは「認識はできない。けれど思考することはできる」と答えている。
この違い、わかる?

たとえば、僕らは人間がどうやって生まれるかは知っているよね。
生物とか保健の授業で習うでしょ。
受精のプロセスとか、精神的身体的な発達も科学的に明らかにされている。
でも、時々「何のために生きるの?」って独りでふと考え込むときない?
そんなのなかなか答えでないよね。でも、考えずにはいられなくなる。それが「思考する」ということだし、「哲学する」こととは、そう意味で理解してもらって構わない。

だから、「疑う」ってことは「思考する」ということともつながっている。
でも、いきなり疑い始めたり思考し始めたりするっていうのは、なかなかできそうでできない。
そのスイッチになるのが「驚くこと」なんだ。
アリストテレスという古代ギリシアの哲学者は「驚くことによって人は哲学しはじめた」と言っている。
僕にとって、「宇宙の果て」問題はまさに「驚き」だったんだよね。
でも、人間って、こうした「驚き」を「驚き」のまま放置しておくことができない質で、後でやるけれど、それは神話(ミュトス)として結実していった。

脱線してばかりで申し訳ないけれど、みんなだってこんな類の「驚き」経験ない?
また僕のことを例に挙げて恐縮だけれど、僕は子どもの頃、一時期眠ることが怖いと思っていたんだ。
なぜって?
眠った瞬間に、この世界がなくなってしまっているんじゃないか、と思ったんだよね。
そう思ったらコワくない?もしかしたら、そのまま世界とともに僕がいなくなるんだよ。
でも、翌朝になると僕の目覚めとともに世界が立ち上がってくる。でも、もし僕が起きなければ世界もなくなっちゃう。
こんな恐ろしいことがあっていいのか!なんて5歳ころに思って、布団に入りながら必死に目をつぶらないように頑張っていたことを想い出すね。

あとは、君たちと一緒に見ている黒板の色は本当に同じ色なのか、なんて思ったことない?
信号機だってそう。
僕が「青い」と思っているものを、実は僕にとって「赤い」ものを君は「青い」と言っているに過ぎないんじゃないか。
でも、生まれたときから僕らはそれを「青」と認識してきたから、僕にとって「赤い」と思ってきたものを君が「青い」と名づけ、認識してきたのだとしたら、それはそれで信号機を識別する上では困らない。
でも、もしかしたら「違う色」を見ながら「同じ色」だと言っているのだとしたら…
しかも、それって証明できないのだとしたら…

え、ややこしくてわからない?
あぁ、そういう「驚き」経験をしたことがあるって?
そうだね、誰でも同じ「驚き」経験をするわけじゃないかもしれない。
でも、こんなつまらないこと考えているのは自分だけだって思うのは間違っていて、実は意外とみんなこうした「驚き」経験はあるはずだ。
ニュートンは、それを「リンゴが落ちる」という一見つまらない現象に驚きを覚えて万有引力の法則を見つけた、といわれているよね。
そのエピソードが事実かどうかは問題じゃない。
問題は、そのエピソードが、どんなつまらないことでも哲学的な「驚き」の経験によって偉大な発見につながったということ示している点にあるんだ。
でも、哲学が恐ろしいところは、その発見ですらも徹底して疑いつくそうとしてしまうことでなんだ。
それによって、そこからまた見えない何かが見えてくる。
そんな落ち着かない営みが哲学だと言ってもいい。

さて、話を戻そう。
辞書を引くと、「倫理」は「人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル」なんて書いてある。
さらに、「倫とは仲間を意味し,人倫といえば,畜生や禽獣のあり方との対比において,人間特有の共同生活の種々のあり方を意味する」と書いてある辞典もある。
つまりは、仲間同士共同で作り上げている法とか道徳とかを含んだ社会の規範のことだね。
近い言葉として、「正義」という言葉があることも覚えておいた方がいいかもしれない。

中学校のときに「道徳」って授業があったよね。
どちらかといえば、「道徳」は「人として守りうべき道」を規範として学ぶというニュアンスがあるんだと思う。
けれど、哲学の一部である「倫理」は、まさにそれに疑いをかけようという勉強だ。

え、センセイ、ルールは守らなくちゃいけないものなんじゃないんですか?それに疑いをかけていいんですかって?
何言っているの、ルールは破られるためにあるんだと喝破した人もいる。
たしかに、そればっかりだと社会の安定性はなくなっちゃうけれど、でもおかしいルールがそのまま守られたらまずいことだってあるでしょ。
特に日本社会は同調圧力をはたらかせる文化があるから、誰もが口をつぐんだまま全体主義に走りかねない危険性があります。
しょせんルールや規範なんて時代時代によってうつろいやすいもの。
僕が中学生のころなんて、男子中学生は全員丸坊主頭にしなければいけないなんて、理不尽な校則があったしね。
それが常識の時代にはおかしくはなかったのかもしれない。
けれど、その常識がある種の暴力を働かせかねないことはいくらでもあるでしょ。
それが人権侵害をのさばらせてきてしまったこともある。
LGBTの人権は、ようやく最近になって社会で問題化され始めたよね。
それだって、今までその存在を「異常」としてきた常識が問い直されてはじめて見えてきた問題だ。
だから、哲学としての「倫理」というのは、常識を疑いながら新たな常識を作り直すために必要な力を学ぶ科目だともってもらって構いません。
そして、それは「自分自身で考える」ということの練習なのです。

ところで、「倫理」では宗教も扱います。
これは「疑う」こととは真逆の「信じる」営みですね。
これはどのように考えればよいのか。
どうも、僕自身は哲学を、しかも西洋哲学を学んできた立場からのものの見方を、知らず知らずのうちに強調しがちになってしまうようです。
でも、これもまた逆説的なんだけれど、「倫理」では信仰を根づかせる勉強ではありません。
そもそも僕ら教師は教育基本法というものによって「宗教的中立」をまもらなくてはならないのでそれはできません。
そうではなくて、「信じる」ということそのものが、人間にとってどういう意味をもつのか、ということを問うこともまた、「考える」ということに通じます。

たしかに、盲目的な信心が凶行に至るケースはもちろんあります。
世界中で起きている無差別テロの背景に、そのような狂信があることは、しばしば報道されています。
しかし、僕らもうもう一方の重大な事実にも目を向けるべきです。
それは、メディアではしばしばテロと結びつけられてイメージ化されるイスラームが、全世界的に見れば、その信仰者数をどんどん増やしている宗教であるという事実です(1900年には1憶9994万人(世界人口の12.3%)だったものが、2013年には15億9635万人(世界人口の22.3%)に増加しているデータがある)。
これを皆さんはどのように理解しますか?
たしかに人口爆発の地域に信者が多いという解釈も成り立つでしょうが、これは同時に日本や欧米のメディアで流通するイスラームのイメージではまったく見えない魅力があるからではないでしょうか。
だって、テロや暴力に魅力を覚えて信仰者が増え続けるなんて、どう考えても理屈に合わないでしょう。
そうだとすれば、僕らは多文化に対する自分たちのイメージを疑うことから始める必要もあるし、同時に人が「信じる」のは何に対して何だろうかということを考える必要もあるということです。
そのことが、ある種の信仰や宗教に対する偏見を壊すことであり、そして、そのこともまた「自分で考えること」に他ならないのです。

僕の知り合いの牧師さんが興味深いことを話していました。
彼に狂信によるテロを防ぐためにはどうすればいいのかと尋ねたとき、「正しく信じること」なんて言わないんですね。
とにかく自分で考えて信じていいのかどうか疑いに疑った果てに、信仰は存在するというのです。
牧師さんの口から「疑うこと」が「信じること」と結びつくなんて言葉が出てくること自体、驚いたのですが、おそらくそれが本当のところなんでしょうね。
それに関していえば、たしかにイエスやブッダ、ムハンマドなどの世界宗教を開いた人物は、教義が硬直化した既存の宗教制度に疑いをかけることで、本来の信仰を取り戻そうとした人々だったといえますね。。
もっとも、それによって彼らの多くは、既存の信仰共同体から迫害されたことは事実です。
けれど、それが世界宗教を開いたのはなぜなのか。
そのことを問うことは、まさにグローバル社会においてとても大切なことだと思います。

さて、実は、この時点で僕はある矛盾を犯していることに気づきませんか?
つまり、僕はたった今、「自分自身で考える」ということが「倫理」で学ぶ意味だと言いましたが、教師である僕がそれを伝えたことを額面通り君たちが受け取ったのだとすれば、それは「自分自身で考えている」ことになるのでしょうか?
またまた気持ち悪いことになりましたね。
もうちょっと、ヤバイことを言います。
「倫理」の教科書に載っている思想家たちのほとんどは、存命中に逮捕されたり禁書や焚書にされたり、最悪の場合には処刑された人ばかりです。
つまりは、「悪人」たちなのです。
これまたものすごい矛盾ですよね。
「悪人」たちを通じて「倫理」を学ぶとは、いったいいかなることなのか?

この問いは開いたままにしておきます。
一年間の「倫理」の授業を終えたときに、その答えを聴きたいと思います。