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高校「倫理」の授業録

高校「倫理」の授業で喋った与太話集。

【第4回】ソフィスト

2017年06月10日 | ギリシアの思想
前回、自然哲学者たちが古代ギリシアで誕生してきた事情を話しましたね。
世界に対する驚きっていうのは、基本的に古今東西老若男女を問わずに共通している。
でも、「自然」に対しては普遍的なアルケーを見出そうとするその態度も、多様な人間同士の活動が織りなす「社会」に対してはそうはいかなかった。
ほんとうに知れば知るほど、話せば話すほど、人の考え方や価値観は複雑だよね。

自然哲学がイオニアやイタリアへ広まった一方、ギリシア本土のアテネでは、あまり盛り上がりを見せなかったんだけれど、紀元前5世紀になると、古代ギリシアは「言論の自由」のもとに政治的文化的な中心地となっていった。
そして、ペリクレス時代に成人男性による直接民主政治を実現するけれど、そこで政治的な参加能力を教育する必要性が生じた。
そこに、その技術を授けるという「ソフィスト」という人々が登場する。

なんとなく、君たちが生きる時代性に似ていないかな。
2015年に18歳選挙権が制度化されて以来、にわか政治参加の教育が必要だと言われ始めてきたよね。
別に、18歳選挙権が施行される前から政治に関する教育はなされてきたはずだけれど、それははっきりいうと政治知識を理解させることに終始していたという実態があったことは否めないと思う。
いくら知識を身につけたって、それを実際に使わなければ意味がないし、すぐに忘れることは皆さんも経験あるでしょう?
それに対して、実際に政治に参加するための技術能力を身につけようというのが、いまの18歳投票権をめぐる政治学習の流れなんです。
じゃあ、政治に参加できるための能力って何なの?
「政治・経済」の問題みたいだけれど、「倫理」でもそのことを意識しながら考えてもらえればいいと思います。

さて、当時の民主政体のアテネでは、市民がポリスで政治活動するために必要とする能力を身につけることは、社会的に成功することを意味しました。
それは、政治家として大衆を説得できる政治を実現できることでしょう。
それは今でも変わりませんね。
彼らはその能力を「徳」(アレテー)といい、それを授業料と引き換えに教えると公言していました。
「ソフィスト」とは「知識人」という意味で、その時代のかなりの知的文化を伝える職業的な専門家であり、今でいえば自営業の教師というイメージですね。
じゃあ、彼らはどんな政治術を授けたのか。
それは「言論」に関わるものでした。
民主政である以上、政治は対話や話し合いによって行われることを基本としています。
ただし、相手と話し合いながら分かり合えるというものとは少し異なって、相手をどれだけ説得できるか、その技術を身につけることが「徳」だというんですね。たとえば、ソフィスト流に言えば議会や裁判において、議員や裁判官を説得できれば、「徳」があるということになるでしょう。
この説得の技術を「弁論術」と言います。
ゴルギアスというソフィストは、この弁論術を「他人を支配する能力」であるとして、その「徳」を授けるのだと豪語しました。
こういうと、なんだか「白いものを黒と思わせる技術」のように思いますよね。
実際、ソフィストには「詭弁家」というレッテルが歴史的に貼られてきましたが、当時はその「徳」を身につけることこそが、人としても「徳」があるということを意味したんです。
「徳」というと、なんだか人格的な立派さをイメージしますが、この場合は言論」を巧み操り人を動かすことのできる人がそれをもつ人だと思われたわけですね。

こうした意味での「弁論家」というと、僕は小泉純一郎という政治家を思い出しますね。
覚えていますか?
総理大臣までやった政治家ですよ。
彼のもの言いというのは、なんだか人を納得させるような弁論の力があったんですよね。
いくつか例を挙げますと、「構造改革なくして成長なし」(2001年5月7日)とか、すぐにでもスローガンに使えそうな言葉がポンポン出てくる。
闊達がよくすぐにスローガンに使えそうな彼の言葉には、まさに稀代の弁論家としての力がありました。
それがもっとも印象的だったのは、横綱貴乃花がケガを押して出場した千秋楽に、鬼の形相で勝利し優勝したときの言葉です。
彼が「痛みに耐えてよくがんばった! 感動した! おめでとう!」(2001年5月)と優勝杯を授けたときに発した瞬間、ものすごい歓声がわき、鳥肌が立ちましたね。

あれだけの「弁論家」を僕はあまり見たことがありません。
でも、これは僕が言ったり、書き起こされた文字を見ただけでは伝わらないんですよね。
弁論術というのは、語り口調や表情なども含めて、聴き手の感性に訴える技術ですからね。
でも、この感性に訴える技術という点がもっとも危険なんです。

弁論術は、感性に訴えられると間違ったことでも正しいと思い込ませてしまう技術です。
それはゴルギアスも認めています。
その点で小泉さんの言葉のなかで僕がもっとも印象に残っているのは、イラク戦争後にサマーワという地域への派遣の当否をめぐっての発言でした。
2003年、アメリカのブッシュ大統領が引き起こしたイラク戦争後に、自衛隊をイラクの道復興支援活動・安全確保支援活動を目的として派遣させる特別措置法が成立しました。
けれど、この派遣条件は「非戦闘地域」に限定されていたのですが、自衛隊が派遣されたサマーワに着弾があるなど、派遣先が「戦闘地域」ではないかという議論が巻き起こったのですね。
自衛隊の派遣先が「非戦闘地域」でないのならば撤収させなければならないのではないか。
当時の野党民主党の岡田代表に「戦闘地域と非戦闘地域とについて具体的にどういう状態をさすのか」と聞かれたとき、当時の小泉首相はこう答えたんですね。
「自衛隊の活動しているところが非戦闘地域である」(2004年11月10日、党首討論)
この理屈わかりますか? 
自衛隊は「戦闘地域」には派遣されない存在なのだから、そこで自衛隊が活動すれば実際には「戦闘地域」であったとしても「非戦闘地域」なのだ、という論理です。
これが無茶苦茶な論理であることは、一目瞭然でしょう。こういうのを「詭弁」と言います。
さすがに、これですっかり騙された人がいるとは思えませんが、彼の言い切り型の弁論術には一種運「そうか」と思い込まされそうな力があったこともまた否定できないのです。

論理よりも感性に訴える言葉の力。
これが弁論術です。
そして、その力を利用して大衆を先導し全体主義へ導いたのが、かのアドルフ・ヒトラーでした。
ヒトラー自身も、それが効果的に発揮されるためには、とにかく短いスローガンを何度も何度もくり返し連呼する方法だとしています。
論拠を理路整然と示すことは、むしろ大衆を厭きさせてしまい意味がないと言います。
なぜなら「大衆は馬鹿だから」。

そうなるとですよ、嘘も弁論術ひとつで真実と思い込ませることができてしまう力をもっているということになります。
ちょっと、これは僕らにとっては受け入れがたいですよね。
でもいきなり、批判する前に彼らのその思想はどのような論理があるのか見てみる必要があるでしょう。

ソフィストの代表の一人であるプロタゴラスの教えは「弱論を強弁する」という標語で表されると言います。
これは、今までも述べたように弱い言論を強い言論に変えてしまうのが彼の弁論術としての教えであることを示しています。
でも、これでは裁判で弁論がうまい人間が勝つだけで、正しいことも誤ったこともなくなってしまうのではないでしょうか。
そのとおりです。それを「相対主義」と言います。
どうもプロタゴラスは正しいも不正もなく、否定も肯定もどちらもできると考えていたようです。

「人間は全ての物事の尺度である。あるものについては、あることの。ないものについては、ないことの」

このプロタゴラスの言葉は、一人ひとりの人間の価値基準がすべてのものごとの尺度であることを示しています。
僕にとって「正しいこと」は、あなたにとっての「正しいこと」の尺度とは必ずしも一致しない。
そんなことってけっこうあるよね。
それぞれの人が「真理」だと思ったら、それが真理なのであるということで、普遍的に正しいなんてことはないのだというのが、プロタゴラスの立場なのです。

ゴルギアスのB.C.440年代に書かれた「あらぬものについて」の論理は、さらにすごいです。

「何もない。もしあるとしても、人間には把握できない。もし把握できたとしても、それを他人に伝えられない」

ものすごいニヒリズムというか、真理も何もないというこの言い切りは、逆に気持ちいいくらいですね。
だからこそ、弁論術によって黒いものを白いと思い込ませることには何も問題ないということになるのでしょう。
けっきょく、ゴルギアスの結論は言葉を操ることによって他者を支配できることこそ、人間として優れている「徳」なのだということです。
これは、政治家として名を挙げようとするエリート層の人々にはとても魅力的に響いたでしょうね。

それにしても、この相対主義がなぜこんなにも肯定されたのかなぁ。
たしかに、この時期、色々な知識文化がアテネに流れ込んだということは、これまで正しいと思っていた価値観が崩れていく空気が広がったのだと思うのですね。
これも僕らの時代状況に似ているんじゃないかなぁ。
グローバル化と言われて久しいけれど、ネットの進化もあって、僕らは日々色々な情報と価値観にさらされて、「どうせゼッタイ正しいことなんてないよね」というニヒリズムにおそわれていませんか。
僕の感覚だと、それが露骨になった時期が、バブル崩壊後の1990年代後半だったと思う。

ちょうどその時期に大学生生活を送っていた僕にとって、それはけっこうリアルな感覚だったんだよね。
バブルっていうと、君たちはあこがれる感じがすると思うけれど、たしかに社会全体の乱痴気騒ぎぶりはすごかった。
でもね、それが同時に空虚感もあったのも事実だと思う。
バブル崩壊とともに、95年のオウム真理教地下鉄サリン事件が起きたことは象徴的だと思うけれど、それまで経済成長と幸福が比例することの欺瞞が暴露されたと感じたことを強烈に覚えている。
その後の97年には山一證券倒産という衝撃が走ったし、その時期に就職活動していた僕らはそれまでのこの社会の神話が一斉に崩壊し始めていることをひしひしと感じていたものだったんだ。
そして、同じ年に神戸児童殺傷事件が起きた。事件そのものも衝撃だったけれど、僕が関心を引いたのはその時期に加害者である少年と同じ世代の中高生たちがいっせいに「どうして人を殺してはいけないんですか?」という問いに共感を示し、それに対して多くの知識人が応えようとして多数の書籍が刊行されたことだった。
「人を殺してはいけない」という価値観は、それまで自明のことだったし、あらためて問い直す必要もないようなものだったのが、いっせいに疑問にさらされたんだ。
それだけじゃない。
当時、女子高生の売買春をめぐって、「ワタシの身体はワタシのモノなのだから、その身体を売るかどうかはワタシの自由じゃないか」という議論も起きたんです。
たしかにメディアが煽った部分もあるでしょう。
それでも、当時は問うまでもない常識に対する若い世代の挑戦に、大人社会が誰もうまく答えられていなかったという印象があります。
古代のアテネでソフィストが登場した状況というのもこれに似ているんじゃないかな。

誰もが不安になっている時代なんです。
そんな時期に「どうせ正しいことなどない」というニヒリズムと相対主義が幅を利かせていった。
なんとなく皆さんには、こんな時代的な雰囲気を共感できるんじゃないですか。
けっきょく絶対的に正しい価値観などないんだから、それぞれが大切に思っていることを大切にすればいいじゃないか。
どうせ、お互い理解し合えないんだから、お互いの考え方には干渉しないようにしよう。
ルールだって、しょせん不完全な人間が決めたものなのだから、それに縛られていること自体がばからしい。
ソフィストだったら、弁論術で正しいと思わせたものこそが正しいというのだろうね。たとえ、嘘だとしてもね。
これって、いま「ポスト・トゥルース」と言われる状況そのものだね。
え?なんだそれって?
あからさまな嘘も嘘と認めなければ真実になるという強引さを、政治において押し通そうとしている政治家の問題のことさ。
政治に嘘はつきものというかもしれないけれど、ここまで誰が見ても嘘だとわかることを真実だと押し通しちゃっているよね。
問題は、それを国民が「あれ?嘘じゃないのかも…」と思い込まされている状況。
けっして遠い国の話じゃないよ。

だから、「他人を支配する能力」こそが「徳」であるという考え方が生まれる背景には、絶対的な価値などないのだという相対主義の時代風潮が広がっていることを、僕らの時代状況に重ねて知っておいた方がいいと思うんだ。
けっして、そんなニヒリズムに捻じ曲げられた嘘に理想も真実もぶっ壊されたくない、と僕なんかは思うね。
そんな時代状況の中で登場したのが、哲学者としてのソクラテスだったんだ。
次回はその話に移ろう。


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