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豊島の産廃処理完了=直島の溶融炉を停止、 約14年かかって処理完了へ(公害調停から17年)

2017年06月12日 15時24分21秒 | ごみ全般/環境政策

豊島・島の学校「豊かな島と海を次の世代へ」ホームページから転載


日本で最大級の産業廃棄物不法投棄事件といわれる、瀬戸内海に浮かぶ豊島に不法投棄された大量の産業廃棄物、直島での溶融処理が本日をもって終了したという。

 

ほんとうに、、、
公害調停から17年、処理開始から14年、、すべての処理が完了、関係者にとっては万感の思いであろう、、
おつかれさま、、しかし、原状回復に向けてはこれから~

 

忘れてはならないのは、、、公害調停に至までの住民たちの長い闘い、、、
本日の中日新聞は「豊島事件の残したもの 週のはじめに考える」を社説で出していたが、、、公害調停までの経緯にもふれ、「産廃処理の許可を与えた地元香川県はどういうわけか、業者の方を守る姿勢を改めず、反対する島民を「住民エゴ」と決め付けた。来島した当時の知事が「豊島には緑があるし、海はきれいで空気はうまいが、住民の心は灰色だ」とまで言い切った。」と、何事も“自分事”としてとらえる心とまとめていたが、、そういう過去を忘れてはならない、、

■ 豊島の産廃処理完了=直島の溶融炉を停止-香川
 時事通信 2017年6月12日
  香川県沖の瀬戸内海に浮かぶ豊島(同県土庄町)に不法投棄された大量の産業廃棄物について、県は12日、同県直島町に建設した中間処理施設で進めていた焼却溶融処理を完了した。同日午前、施設の中央制御室で浜田恵造知事が溶融炉の停止操作を行った。
 施設には浜中満直島町長や、廃棄物対策豊島住民会議の安岐正三事務局長らが招かれ、処理完了を見守った。浜田知事はパソコン上で停止操作を終えると「大きな区切りを迎え、誠に感慨深い」とあいさつした。
 産廃は完全に処理された一方で、中間処理施設の撤去や豊島の投棄現場で汚染した地下水の浄化などの作業が残る。安岐事務局長は「最終目的は原状回復で、道半ば。(豊島問題を)次の世代に伝える仕事も残っている」と話した。
 豊島での不法投棄は1970年代ごろから始まったとみられ、91年に兵庫県警が業者を摘発して発覚。2000年に成立した公害調停に基づき、県が90万トン超に上る産廃を豊島から撤去し、約6.4キロ離れた直島で処理を進めていた。(2017/06/12-16:02)  

 

豊島産廃に関しては、新聞報道なども気にしていたが、、、豊島廃棄物等処理事業情報(香川県直島環境センター)の「直島情報」は、、溶融炉の故障による停止なども直ちにホームページ上で更新すると聞いていたので、時々チェックしていたが、、、「本日(6月12日)10時10分頃から、炉の立下げを行っています。」ということで、、、ほんとうに終了したのだ、、、、

 

豊島廃棄物等処理事業情報(香川県直島環境センター)

最新情報

直島情報
平成29年 6月12日 13:00更新
1号及び2号溶融炉については、豊島廃棄物等の処理が完了したことから、本日(6月12日)10時10分頃から、炉の立下げを行っています。

過去リスト

豊島情報
平成29年 6月12日 11:00更新
①廃棄物等の掘削・運搬は平成29年3月28日に終了しました。
②本日(6月12日)の貯留トレンチの貯留量は997m3です。
③遮水壁内側の水位を測定している水位計を取り外しているため、自動測定情報の水位(遮水壁内側)のデータが0mとなっています。遮水壁内側の水位は、T.P.0m付近で管理しているため、自動測定情報の水位(揚水人孔)を参考にしてください。
④高度排水処理施設は、セラミック膜洗浄のため、本日(6月12日)8時から6月15日まで運転を停止します。これに伴い、自動測定項目が異常値を示すことがあります。

過去リスト

海上輸送情報
平成29年 6月12日 11:00更新
廃棄物輸送船「太陽」の運航は、平成29年3月28日をもって終了しました。

過去リスト

 

以下、「豊かな島と海を次の世代へ」ホームページから転載

豊島事件を見る

Contents

 

廃棄場所

 

豊島は香川県小豆郡土庄町に属し、豊かな自然に恵まれた文字どおり「豊かな島」でした。
ところが、1965年頃から土地を所有する業者によって水ヶ浦の土砂が大量に採られるようになりました。業者はこの跡地に有害産業廃棄物処分場を計画、住民たちが猛反対、香川県庁にデモ行進しました。「木屑、食品汚泥など無害な産廃を利用してミミズの養殖をする」と矛先をかわした業者に、香川県が1978年に事業許可を出しました。
業者は、さらに産廃の不法処理を始めます。香川県は住民たちには業者は金属回収業を行っていると説明する一方で業者には古物商の届出をするよう勧め、豊島が「ゴミの島」になるきっかけとなりました。フェリー転用のゴミ船を玄関口の家浦港に接岸し、産廃物を陸揚げ、産廃満載のダンプカーが我がもの顔に豊島を走りました。現場では野焼きが連日行われ、児童らにぜんそくなどの健康被害が相次ぎました。

「廃棄物対策豊島住民会議」の再発足、 住民が一丸となった闘い

豊島の心を100万県民に

 

1990年11月、兵庫県警が業者を摘発、「ミミズの養殖を騙った産廃の不法投棄」が容疑でした。住民たちは事件を受けて直ちに「廃棄物対策豊島住民会議」を再発足させました。1977年、有害廃棄物処分場に反対した時以来のことでした。広大な処分地には、廃油、製紙汚泥、シュレッダーダスト、ラガーロープなどの産廃が野積みにされて山をなしていました。住民たちは島を挙げて,県の責任を認めさせ原状回復を求める国の公害調停を申請しました。裁判に代わって公害紛争の早期解決を求める制度です。香川県庁前での150日間にわたる抗議の立ちっ放しを皮切りに、考えうる限りの闘いを繰り広げました。産廃を提げて東京銀座への抗議のキャラバン、理解と支援を求めての香川県内100ヶ所座談会など、中坊公平弁護団長の指揮のもと小さな島には苛酷とも思える「草の根の闘い」でもありました。発端から2000年の公害調停の最終合意まで25年間を要すことになりました。

苦難の道のり、2000年6月6日調停成立と処理開始

調停成立

 

2000年6月6日、公害調停で知事が謝罪し、原状回復の合意が成立します。37回目の調停でした。「勝ったで」「約束守ったで」という住民の声と涙が苛酷な豊島の闘いを物語っていました。「自分たちのことは自分たちで」という住民の闘いぶりは「草の根の民主主義」とも評価され、世論の共感を生みました。事件の発端から公害調停成立の2000年までに住民の重ねた島の寄り合いや会合は6千回を超えました。会議の翌日には東京での調停や抗議行動、記者会見などが常態化、「よくぞ闘ったもの」と住民たちは語ります。
調停成立後は長く苦しい道のりを乗り越え、豊島に「美しい瀬戸内海の自然と調和する姿」が戻るよう、住民と行政が「共創」の理念に基づいて行動することを決めました。
2000年から公費による原状回復の作業が続いています。一日300トン、西隣の直島に船で運んで溶融処理するものです。2012年度末までの処理量は全体の6割の56万トン、廃棄物と汚染土壌の総量が93万8千トンであったことが判明し、処理完了も3年半ずれ込んで2016年10月になると見られています。日本で初の大規模な原状回復と言う試みは困難を極めながら続いています。

 

豊島の住民たちには「先祖から受け継いだ大切な島を自分たちの代で『ゴミの島』にしてしまった」という思いがありました。1990年の事件摘発から、産廃撤去を香川県に求めるなどしたものの、県は安全宣言まで出して事件の幕引きを図りました。そんな中で住民が出会ったのが元日弁連会長の中坊公平弁護士でした。

瀬戸内海を守れ

 

中坊弁護士は「子孫のためどこまでおやりになるか?」と迫りました。「何もしなかったらこのままやで」と住民たちは島を挙げて立ち上がります。「香川県が業者に加担し最悪の事態を招いた」として、県の責任と謝罪、原状回復を求めるものでした。当時、産廃の許認可業務は国の機関委任事務、県相手に責任を問うことは、国に責任を問うことを意味しました。「地方からの反乱」と中坊弁護士が述べた所以です。あの手この手の草の根の闘いを展開する中で、島には女性委員会も発足しました。パワーとアイデアが島の闘いを活性化させました。「本能的にきれいなネスト(巣)を次代に伝える闘い」「あかちゃんが泣くように小さな声でも泣き続けますよ」と中坊弁護士は豊島住民の闘いの苦難を表現しています。すべてをさらけ出し、世論の支援を求めるという身を切る闘いでもありました。
闘いの最中、豊島のリーダーで処分地沖合でハマチ養殖をしていた安岐正三さんが突然、家業を廃業しました。国の2億3600万円をかけた現地調査で猛毒のダイオキシンが処分地から見つかり、「消費者に対して加害者になりかねない」と自ら廃業を決めたものでした。

住民たちの苦難と闘いの熱意、世論を動かす 

 豊島の住民たちの必死の闘い

 

豊島の住民たちの必死の闘い、中坊公平弁護士ら13人の弁護団のパワー、環境問題の研究者や科学者の見解、さらには住民たちに寄り添ったマスコミ報道などが世論を動かして行きました。
豊島の闘いでは弁護団は無報酬でした。いち早く問題を告発した地元山陽放送をはじめテレビ・新聞各社も住民たちの闘いの過酷さを報じ、住民の側を向こうとしない「行政の無謬性」を批判し続けました。
それでも公害調停の最終合意までに7年を要し、住民たちの闘いの実費だけでも1億円にのぼりました。さらに、「調停期間中の豊島住民が提供した労力は3億円に相当する」と長嶋俊介鹿児島大学教授が指摘しています。

 

公害調停

1993年11月に業者が兵庫県警の摘発を受けてから、時効期間である3年が過ぎようとしていました。住民たちは豊島にゆかりのあった豊島時夫弁護士から中坊弁護士を紹介されました。
中坊弁護士は、住民たちに、本当に最後まで闘うのかと覚悟を問いました。住民たちは最後まで闘うことを約束しました。中坊弁護士は、事務所の岩城裕弁護士、日高清司弁護士の2名を担当としたほか、大川真郎弁護士(大阪弁護士会)に協力を求め、豊島弁護士と合わせて5名の弁護団が結成されました。さらに、科学技術顧問として環境監視研究所の中地重晴氏が加わりました。
その後、調停が停滞する中、豊島問題は豊島だけの問題ではなく、瀬戸内海全体の問題であると位置づけて、大阪・伊多波重義弁護士、香川・中村詩郎弁護士、広島・阿佐美信義弁護士、岡山・石田正也弁護士/清水善朗弁護士、和歌山・山崎和友弁護士、兵庫・佐藤健宗弁護士、愛媛・水口晃弁護士の8名が弁護団に加わりました。弁護士たちは無報酬でした。

国の専門委員による調査

キャプション

 

調停が始まる前に、香川県は処分地の調査 を行い、処分地内の有害物質は周辺の生活環境に重大な影響を及ぼしていないと、事実上の安全宣言を行なっていました。
住民たちは、調停委員会が選んだ専門委員による調査を強く求めました。協議を重ねた結果、調査が行われることになり、2億3600万円の予算が計上されました。
調査の結果、廃棄物の総量は48万立方メートルと推定され、鉛やトリクロロエチレン等が基準を大きく上回っていることが確認されました。

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また猛毒のダイオキシンが高濃度で検出されました。

専門委員は、調査の結果をふまえて、処分地内の有害物質が北海岸から海に流出しているとして、「処分地をこのまま放置することは、生活環境保全上の支障を生ずるおそれがあるので、早急に適切な対策が講じられるべきである」と結論づけました。
香川県の安全宣言が誤りであったことが明らかになった瞬間でした。

中間合意の成立

キャプション

 

香川県は責任を認めず、廃棄物を処分地に封じ込めるという案を提案しました。
住民たちは、粘り強くこの案の撤回を求め、調停委員会も香川県が廃棄物の認定を誤っていたことを指摘しました。

36回の公害調停と調停成立

36回の公害調停と調停成立

香川県はついに封じ込め案を撤回し、廃棄物を中間処理することによって原状回復を目指すとしましたが、廃棄物の認定を誤ったことについて、住民に対する謝罪はしませんでした。

廃棄物の処理方法については、専門家による技術的な検討が必要であり、これを行なうためには住民たちと香川県が中間的な合意をする必要がありました。

住民たちは、最終的な合意において香川県の謝罪を勝ち取ることを誓い合い、中間合意をしました。


中間合意の成立

 キャプション

 

中間合意の成立から3年、住民たちは香川県内100カ所座談会を行なうなど広く世論に訴える運動を展開しました。住民たちの主張に対して、ゆっくりと理解と支持が広がっていきました。
この間に技術的な検討も進められ、溶融処理後の副生成物のリサイクルが技術的に可能とされました。香川県は中間処理を精錬所がある直島で行なうことを提案しました。
2000年6月6日、最終合意が成立しました。中間合意で住民たちが誓ったとおり、香川県知事は、「豊島住民に長期にわたり不安と苦痛を与えたことを認め心から謝罪する」と述べました。
住民たちは、知事の謝罪を受けて、これからは香川県と共創の理念に基づいてともに廃棄物と闘っていくことを宣言しました。

 

廃棄物の処理

不法投棄された廃棄物と汚染土壌の処理事業は、調停条項に基づいて、県が主体となって事業を進めています。処理事業の体制については次の通り合意がなされています。

県は専門家の判断に従うこと
香川県は、豊島廃棄物等処理技術検討委員会の検討結果に従い、専門家の指導・助言等のもとに、環境汚染が発生しないよう十分に注意を払い、事業を行います。

住民たちの理解と協力のもとに行うこと
廃棄物の搬出・輸送・地下水等の浄化、豊島内施設の設置・運営及び廃棄物等の焼却・溶融処理の実施は、住民たちの理解と協力の下に行います。

協議会を設けること
事業実施について協議するため、住民たちの代表者と香川県の代表者による豊島廃棄物処理協議会を設置します。
※豊島廃棄物処理協議会を補う目的で、月1回豊島にて、県の担当職員と豊島住民の事務連絡会が行われています。


豊島廃棄物等処理事業 冊子

廃棄物処理事業の具体的な方法
事業主体の香川県が発行する下記の資料をご覧ください。
http://www.pref.kagawa.jp/haitai/teshima/project/panf.pdf外部リンクへ

 

困難を極める処理

ありとあらゆる産廃があると捜査員を驚かせた豊島の廃棄物。処理開始から10年。ユンボを使っての掘削・選別、乾燥、島からの搬出、直島での溶融処理というプロセスを続けてきました。廃棄物にさまざまなものが混入しているうえ、廃棄物下の汚染土壌が多いために、前処理や溶融自体に困難を抱えています。
溶融炉の2回にわたる小爆発、掘削現場での火災、大雨による汚水の流出、台風による処分場の水没など予想もしていないトラブルが発生しています。

ゴミの下にゴミが

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国の実態調査で60万トンとされていた廃棄物と汚染土壌は掘削が進むにつれて総量の変更をたびたび余儀なくされました。廃棄物層の下は平坦ではなく穴が掘られ、そこにも大量の廃棄物が埋め込まれていました。廃棄物の有害物質は想定していたよりも深くまで土壌を汚染していました。2012年度末の見直しで処理しなくてはならない廃棄物と土壌の総量は93万8千トンにまで膨れ上がりました。

 

溶融処理の限界と新たな処理方法

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処理の必要な廃棄物等の総量がおよそ38万トンも残っていることから、直島の溶融炉だけでは調停条項で定められた期限(2016年度末)までに処理しきれなくなり、汚染土壌については福岡県でセメント原料化処理をすることになりました。
新たな処理方法を決めることについては、香川県と住民たちが話し合い、調停条項で定められた溶融・無害化・再利用という基本的な考え方が維持されています。

豊島の思い

 

先人から受け継いだ豊かで美しいふるさと豊島、国民共有の財産である瀬戸内海を子孫に継承していくことは、現在に生きる私たちすべてに課せられた責務です。
私たちが、豊島に産業廃棄物が持ち込まれることを知って、その阻止のために立ち上がり、その後長期にわたって不法投棄された大量の産業廃棄物を、豊島から完全に撤去させるために闘い続けたのは、まさにこの思いからでした。
そして、この深刻な事態を招いた香川県に、その責任を認めさせ、完全撤去させるために、1993年11月11日、残された最後の手続きである公害調停を申請したのもこの思いからです。
今日までの道のりは、私たちに過酷な苦難と犠牲を強いるものでした。それでも、私たちが叫び続けた願いは、ついに広範な世論を動かし、支持の輪を次第に広げて行きました。私たちは自らを信じ、世論に支えられて、暗闇の中でも光明を求めて一歩ずつ前に進むことができました。
私たちが繰り返し叫び続けたことが道理にかなった正しい要求であったことが認められたのです。私たちはそのことを喜ぶとともに、これからはここに至るまでの長く苦しい道のりにとらわれず、豊島が美しい瀬戸内海の自然と調和する元の姿に戻るよう、行政と住民がともに協力して、新しい価値をつくり出すという「共創」の理念に基づいて行動します。
私たちは、生まれてくる子どもたちに「誇りを持って住み続けられるふるさと」を引き継いでいくとともに、この闘いの中で得た貴重な教訓と成果を深く心に刻み、これも子どもたちに引き継がせつつ、世界に一つしかない豊かな豊島を築いていくことを決意します。

 

記念のオリーブの植樹

記念のオリーブの植樹

 

中坊公平弁護士の言葉





大川真郎弁護士の言葉

 

私たちのたたかいは、廃棄物を島外に撤去させ、美しい島を取り戻すことに成功したというにとどまらず、これからの社会がどうあらねばならないか、どうすればそれを実現できるかを指し示したことにおいて、大きな意義があると思います。
このたたかいは、私たちの社会が目先の利益を追い続け、生産だけを重視し続ければ、取り返しのつかない結果を招くことを多くの人に知らせることになりました。そして、「使い捨ての社会」から「廃棄物を出さない社会」に向かうべきことを社会の共通認識とすることに、大きな役割を果たしたのです。
また、私たちは国や自治体を無謬のものとして「信頼」し、「依存」してはならないこと、その誤りに対しては、私たちの力でそのことを認めさせ。是正させることが可能であることを示しました。
私たちの運動は、「統治される」受け身の生き方から、然るべき行政を積極的に要求したすぐれた実践例でした。
さらに、私たちのたたかいは、社会的弱者であっても、その要求に道理があり、広範な人たちの支援を得れば、社会的強者に勝つことができることを多くの人に教えたのです。
いまも世間には不条理に泣いている人がいくらでもおりますし、過去に正義が実現せずに終わった例は数えきれないでしょう。
どうすれば、社会的弱者の正義が実現するのか―、私たちのたたかいにはそれを学んでもらう数多くの教訓が含まれています。
豊島住民を「中核」に、いろいろな人たちが、いろいろなかたちでこのたたかいに加わって、いわば「同心円」をつくり、その「円」が年月を追って大きくして、社会的強者を追いつめていきました。
私たちの勝利は、このたたかいに加わった多くの人たちの見事な「共同作品」なのです。
その意味でも、私たちは住民運動史上、金字塔を打ち立てたといってよいのではないでしょうか。


 



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