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うなぎの与三郎商店

目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことは無理をせず、教育・古典など。タイトルは落語「うなぎ屋」より(文中敬称略)

崖の上のホールデン~ライ麦畑のつかまえ役の家鴨(アヒル)課題〔修正版〕

2014-03-31 22:00:00 | 随想 こころの処方箋
【崖の上のホールデン~ライ麦畑のつかまえ役の家鴨(アヒル)課題〔修正版〕】

《『ライ麦畑でつかまえて』に登場する家鴨(アヒル)を通して、ホールデン的パーソナリティーを考察してみた。〔2014-03-31追記〕2013-07-31の同タイトル記事を一部修正して再掲》

1.『ライ麦畑でつかまえて』との出会い
 高校2年生の秋、体調を崩してしばらく学校を休んだ。体調を崩すまでもなく、学校そのものに興味を失って、そのままやめてもいいかという気持ちで日々を過ごしていた。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んだのはその頃のことである。紹介してくれたのは、当時のクラスメイトで、市内にあった全国有数の私立中高一貫男子校から我が校(公立・共学)へ、ものの見事にドロップアウトしてきたTだった。

 中学の頃はそれなりの学業成績だった私だけれど、高校に入ると文句なしの低空飛行を続けていた。そんな私に、決して学年最下位を取らせてくれなかった豪傑である。赤点と追試と進級会議の常連でありながら実に堂々とした態度・存在感に圧倒された。年も1つ上だった。彼のおかげで何度中退を思いとどまったことか。ただし、この病欠から復帰直後の定期試験は私が見事栄冠に輝く。このときばかりは掛け値なしの断トツ最下位、ついでに0点科目アリだった。後年、Tとは大学のキャンパスで劇的な再会をする。しかも、2浪した私の「後輩」として……。

 それはそうと、せっかく紹介してもらった『ライ麦畑』だったが、正直なところ何が言いたいのかよくわからなかった。ただ、他人事ではなさそうだという微妙な共感・一体感、「紙一重感」が印象的だった。

 主人公のホールデン少年の心情を我が物として理解するのは、数年後、浪人中に新聞奨学生として日々を過ごす中で再読したときだった。それはあたかもカウンセラーによって編集された無二の親友の記録を読んでいるような、不思議な感覚だった。あるいは高校時代の自分がホールデンの人格を抱えていたこと――と言うより、ホールデンになりきれず、紙一重の位置で己の生命を保っていたことを再認識させられた奇妙な体験だった。

2.『ライ麦畑』の最も印象的な場面~ホールデンとタクシードライバーとのアヒル問答
 この作品を語るとき、ホールデンが妹に語って聴かせる「ライ麦畑のつかまえ役」の場面に触れるのが定石になっている。「とにかくね、僕にはね、広いライ麦畑の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが……」〔注1〕――野暮な引用はよそう。私がここでグダグダと述べるまでもなく、既にあちこちで語らいの俎上にのせられている。それに、病と紙一重のこの空想は、そのまま読者の精神状態を図るバロメーターであるような気がする。全面的な共感をためらわせるものがそこにはある。

 当時の私は新聞屋の2階にあった寮の一室(個室・3畳一間)で、受験勉強をするでもなく、仕事に専念するでもなく、好きな本を適当に読んでいた。『ライ麦畑』を手にしたのは茶色い表紙のペーペーバック版を使って英語の勉強(?)をしようと思い、その「解答」(日本語訳)が必要だったからである。再読(結局、翻訳ばかりを読み進めた……)の際、急に私の中に入り込んできた一節がある。深くは理解できなくても、それが重大な何かを意味しているという直感が働いた。

 作品の前半、寮を飛び出したホールデンが夜も遅いペンシルヴェニア・ステーションに降り立ち、タクシーを拾い、運転手に話しかける。

 それから、急に思いついたことがあってね。「ねえ、君」と、運転手に声をかけたんだ。「《セントラル・パーク・サウス》のすぐ近くにあるあの池に家鴨(アヒル)がいるだろう? あの小さな湖さ。つかぬことをきくけど、もしかしたら君、あいつらが、あの家鴨がさ、池がみんな凍っちまったとき、どこへ行くか知らないかな? へんなことをきくようだけど、知らないかな?」言いながら僕は、知ってる可能性は百万分の一しかないと思ったね。
 運転手は後ろを振り向くと、気違いでもみるような顔をして僕を見やがった。「どんなつもりでそんなことをきくんかね、あんた」と、彼は言った。「おれをからかうつもりか?」
「とんでもない――興味があったからさ、それだけだよ」
 彼はそれ以上なんとも言わなかった。それで僕も黙っていた。〔注2〕


 これといった特徴のない場面のように思われる。彼はこの夜、一波乱あって再びタクシーに乗る。そのときにも、別の運転手に対して同じ質問をしている。ホールデンの問いかけの後のタクシー運転手ホーウィッツとのやりとり――

「魚はどこへも行きやしねえぞ。あいつらは、てめえたちがいるところから動くもんじゃねえ、魚って奴はな。湖の中から動きやしねえよ」
「魚か――そいつは別さ。魚は別だ。僕は家鴨のことを言ってんだよ」
「どこが違う? なんにも違いやしねえじゃねえか」ホーウィッツはそう言った。彼の場合、何を言っても何かに腹を立ててるみたいに聞こえるんだな。「魚のほうが、家鴨よりもよっぽどつれえんだぞ、冬やなんかにはよ。頭を使いな、頭を」〔注3〕


 ホールデンとホーウィッツの会話はさらに続く。今度は氷の張った湖の底で魚たちがどのようにして生きているのかという話題に移る。ホーウィッツの言葉と、それに続くホールデンの言葉――

「奴らは氷の中にいながら生きてんのさ。奴らはそんなふうにできてんじゃねえか。冬の間じゅう、おんなじ格好で、氷の中にじっとしてんだがな」
「そうかな。じゃあ、何を食うんだい? つまり、氷の中に堅くとじこめられちまったら、泳ぎ回って餌やなんかを捜すことができないだろう」
「身体(からだ)ってもんがあるじゃねえかよ――どうしたんだ、おめえ? 奴らの身体が栄養やなんかを取るんだよ、氷の中にある海藻だとかなんかからさ。奴らはずっと毛穴をあけっぱなしなんだ。奴らはそうできてんだよ。わかったか?」そう言って彼は、ぐるっと振り返って僕の顔を見た。
「そうか」そう言って僕は、話をうち切った。車をぶつけるかどうかしやしないかと、心配でならなかったんだ。〔注4〕


 本人にとってはごく自然な感情の表出であっても、傍から見れば脈絡のない、不可解な言葉の数々としか思えないことがある。この作品の文体は他者への語りかけを装ったホールデンの独り言であって、彼の「コード進行」がわかっている「身内」もしくは「冷静な観察者」ならそれなりに理解できるかもしれない。彼(ホールデン)なりの独特の世界観に理解を示し、その片鱗なりとも共有できる。しかし見方を変えれば、彼の視点から描かれるこの世界(一般社会)の奇妙さ、不可解さ、愚かさは他ならぬ彼自身の奇妙さ、不可解さ、愚かさ――つまり自己投影であって、一般社会の病ではなくホールデン自身の病に見えてしまう。

3.ホールデンの「からくり」の検証その1 「サリーとアン課題」
 ホールデンにはある「からくり」がある。その前に「サリーとアン課題」と呼ばれる「誤信念課題」について。〔注5〕

① これはサリーです。サリーは、カゴをもっています。
② これはアンです。アンは、箱をもっています。
③ サリーは、ビー玉をもっています。サリーは、ビー玉を自分のカゴに入れました。
④ サリーは、外に散歩に出かけました。
⑤ アンは、サリーのビー玉をカゴから取り出すと、自分の箱に入れました。
⑥ さて、サリーが帰ってきました。
⑦ サリーは自分のビー玉で遊びたいと思いました。
⑧ サリーがビー玉を探すのは、(カゴと箱の)どちらでしょう?

 「からくり」というのは、ホールデンは(おそらく)箱だと言う(だろう)ということである。そして一部の読者――「身内」も。「冷静な観察者」ならホールデンの話に引きずられることなく、彼自身の奇妙さ、不可解さ、愚かさのイメージを保持したまま受け入れることができる。上記課題のサリーが(通常は)箱の中を探したりせず、仮に箱のことについて問いかけられたら(恐らく)怪訝な顔をするように、私たちはホールデンに家鴨の話題を振られたら素直にきょとんとすればよいだけのことである。

 ホールデンにとって、一般的な意味での「世界」はライ麦畑の崖の下にある。彼の生きる世界は、ライ麦畑の中で自己完結した「小宇宙」である。この「小宇宙」の常識では、たとえ崖の下の「世界」であれ、タクシーに乗った直後に何の前触れもなく運転手に向かって《セントラル・パーク・サウス》の家鴨の話をしてもよいことになっている。理由はホールデン本人が言っている通り「興味があったからさ」。そこに論理的な不整合は存在しない。彼に共感する読者は、彼と常識を共有する、つまり自身が「小宇宙」の住人である「身内」か、もしくは一般常識の側から「小宇宙」の非合理性を見抜きながら、それでもあえて理解し、受け入れる度量のある「冷静な観察者」のいずれかであろう。

 残念ながら、無骨さと実直さをうかがわせる運転手――崖の下の世界で、贅沢はできなくても生活者として地道に生きていると思しき運転手は、ホールデンの問いかけを理解することも、それに答えることもできない。そもそも、そのような「文法」(ラング)の存在を知らず、当然、持ち合わせてもいないからである。しかし、ここで私たちは奇妙な登場人物に遭遇する。ホールデンの「身内」である。

4.ホールデンの「からくり」の検証その2 ホールデンの「身内」としてのタクシードライバー・ホーウィッツ
 2人目の運転手ホーウィッツは、ホールデンの言葉に決して共感してはくれないものの、家鴨のお株を奪う魚ばなしでホールデンを圧倒しつつ、噛んで含めるように「正しい答え」を教え諭す。「頭を使いな、頭を」「奴らはそうできてんだよ。わかったか?」――彼は明らかにホールデンと「小宇宙」の「文法」(ラング)を共有している。とはいえ、彼はタクシー・ドライバーであり、立派な「生活者」でもある。

 『ライ麦畑』の「家鴨ばなし課題」とでも言おうか。読者が家鴨ばなしに違和感を覚えれば、この場面をそれこそ「気違いでもみるような顔をして」(最初の運転手の反応)読み進めるかもしれない。あるいは、読書を中断するかもしれない。もし違和感を覚えなければ、ホールデンと「小宇宙」及び「文法」(ラング)を共有する「身内」であり、「サリーとアン課題」でためらうことなく「箱」と答えることのできる人物である。ひょっとしたらホーウィッツのように、唐突に振られた家鴨ばなしを不審がるどころか即座に受容し、しかも勝手に魚の話に変え、さらに聞かれてもいない魚の生態について(語りかけたホールデンが圧倒されるほどの)蘊蓄を小一時間は語ることができるかもしれない。もちろん、「崖下の世界」の住人であっても「冷静な観察者」なら「家鴨ばなし」の非合理性を受容し、共感することができる(だろう)。

5.障害と病の集合体~『ライ麦畑』と『ノルウェイの森』の共通点
 サリンジャーの『ライ麦畑』に似たパーソナリティが登場する小説に村上春樹の『ノルウェイの森』がある。

 『ノルウェイ』の世界は障害と言うより病の集合体であるように思う。そのラストシーン(主人公が電話ボックスの中で恋人の緑を呼び続ける場面)は、直子に象徴される「病の世界」から緑に象徴される「現実の世界」(もしくは「健常」「正常」の世界)への回帰のシーンであったと理解している。しかし唯一「現実の世界」に生きていると思われた緑さえも、よくよく考えてみると家族関係をはじめ何やかやと問題(病)を抱え込んでおり、きわどい境界線上の存在である。この小説の主人公は結局、ひとつの病の世界に別れを告げ、また新たな別の病の世界に入っていただけのことだったのか。

 それはあたかも、若い頃に入れ込んだ学生運動に失望(もしくは絶望)し、運動体に別れを告げた後でカルトに走り、結局は無限の下降スパイラルに陥った(少なからぬ)人々の象徴のようである。あるいは太田竜の支離滅裂な思想(もどき)からヘーゲルをベースにした(ということになっている)黒田寛一の体系的な(ということになっている)思想へシフトすることで何かを得ようとしていた、他ならぬ20歳前後の私自身の姿のようでもあったこと(もちろん、話半分の脚色した描写である)――等々を思い起こさせた。

 村上春樹は、長編を書く合間に短編と翻訳を手がけるということをどこかで書いていた。その翻訳の仕事の1つに『ライ麦畑』の新訳、あるいはサリンジャー作品の新訳を選んだ意図がわかるような気がする。登場人物たちの織りなす世界は、一見すると全くの別世界であるが、彼らが過剰なまでにピュアでナイーブでセンシティブであるという点で、作品世界の構造は驚くほど似通っている。

6.障害と病を超えて~実直で真摯なタクシードライバー・ホーウィッツからの伝言
 走り読みではあるが、約30年ぶりの再々読を通して、この小説が読者のパーソナリティに関してリトマス試験紙のような役割を果たしていることを改めて実感した。こうした『ライ麦畑』解釈、『ノルウェイ』解釈は既に誰かが行っているかもしれない。寡聞にして知らないことをよいことに、こうしてこの期に及んで今さらながらに書き連ねてみた。

 ただ、例のタクシー・ドライバーのホーウィッツについて、彼は20年後のホールデンが取り得る選択肢――しかも成功例――の1つとして登場したのではないかという着想だけは、あえて念押ししておきたい〔注6〕。その後のホールデンがよき人生を送っている(送った)ことを願わないではいられない。


1.J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳、白水社(白水Uブックス)、1984年、269頁。
2.同前、95-96頁。
3.同前、128-129頁。
4.同前、130頁。
5.解説は数多ある。私が参照したのは、内山登紀夫・水野薫・吉田知子編『高機能自閉症・アスペルガー症候群入門 正しい理解と対応のために』中央法規出版、2002年、120-123頁。
6.この着想は『狂おしく、悩ましく――「前進」編集局員の事件録』(黒田・白土・刈谷著、2011年頒布(自費出版))を読んでいるときに得た。ただし、そこでは障害や病の話ではなく、筆者が中核派の同盟員としての過去をどのように引きずり、どのように今を生きているかが語られている。本ブログ「ブヨ――ハエ目ブユ科の昆虫の総称」2013-10-25でも言及した。

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「幽閉志願~終わりの始まりの始まり~」2012-11-10 *高校時代の読書について。
「リアル・ペパクラ」2012-11-13 *新聞奨学生の頃の話。
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