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咆哮

負け犬の遠吠えかも…
最近「負け犬」が流行り言葉になってしまったので「落ち武者の歯軋り」とした方がいいのかも…

熱中病

2005年10月30日 09時49分51秒 | メッセージ
な~~んて言葉が有るのか無いのか分らないが、私はどうやらこの「熱中病」という病気持ちなのかも知れないな。

私のホームページはほぼ一年、このプログも8月から更新していない。
現状忙しくて時間が無いという理由も勿論あるのだけれど、ネットそのものに対しての興味というのか熱中度が以前より弱くなってきているのは確かだな。

別の視点から言うと、また新たに強力な熱中病に侵されたってとこかも知れない。
今はいうまでもなく「ダンス」(ヒップホップ等々)という「熱中病」に侵されている。
この熱中の仕方が丁度10年前に「パソコン通信」というものに熱中した状況と非常によく似ている。
私にとっては今までに全く経験しなかったもの(でも潜在的に欲求があったもの)で、ピッタリと私の肌に合ったって感じがしたところが似ている。そして、どちらも自己表現だというところも似ている。普段の生活ではその場が与えられない自己表現の場がそこにあるって感じかな…。

で、ネットの方は10年経って(自分がやりたかった事の)限界も見えて来たし、大体やり尽くした感じがしないでもない。
やり尽くしたって言葉は大袈裟で傲慢なんだけど、元々人に聞いて貰いたいというより吐き出す場が欲しいって欲求だったので、言いたかった事はほぼ吐き出したようにも思える。だから最近私が書くことには「以前にも言ったけど」という台詞が多くなって来ている気がする。さっきも言ったけど元々コミュニケーションを目的といより自己表現目的なので、必然的に私の文章に触れてくれる人っていうのは限られ固定してくるので今までに言った事を何度も繰り返すのもしつこい様で、そういう事を考えてる自分にもなんだかなぁ~って感じで、少し熱が冷めて来たのかも知れないな。
この、凝り性ではあるけど一生継続させるほどの凝り性ではない半端な感じが私らしいと言えば私らしい。(笑)

今回のダンスも最初はダイエット目的のジム通いだったのだけど1年ちょっとでその目的はほぼ達成し、後は惰性になりかけていたのだけどダンス上達という目的に変更し今はその最中でとりあえず今はこれが私の生活の中での最優先項目となってしまった。

しかし、このパソ通とダンスの出会いの時期が逆だったら良かったのにとつくづく思ってしまう。50歳になってしまった私がこれを続けるのには体力的にかなり厳しいものがある。このまま続けても精々10年だろう。(60歳になってストリートダンスを踊っているというのも考えようによっては凄いけど…f^_^;;)
普通の同世代人なら40代で老化対策としてジム通い、50代で老後のボケ防止として今からパソコンって年齢だよな。(爆)
どうも、私のやる事なす事全て世間一般からズレてしまっているようだ。(笑)
この熱中病を若い頃からもっと上手く生かしていれば、きっと人生変わっていた筈なんだけどなぁ~。(苦笑)

私もアンカー宣言f^_^;;

2005年07月26日 00時05分19秒 | メッセージ
って、意味不明のタイトルで申し訳ないですが(笑)

今、丁度ルシアンさんのブログの新規発言を読んで、全く同文の宣言をしようと思います。

これは偶然ですが、olddogさんととめさんと同一の 「見たい映画をつなぐタスキ」という一種のチェーンメールのバトンをいただいたのですけど、こういうものの趣旨は理解出来るのですが、個人的にこういうのが苦手なもので、私自身が苦手なものを誰かに渡すというのは更に苦手なんです。f^_^;;

ということで、これからこういう種類のものが回ってきた時は、私は出来るだけ書くようにしますが、タスキは私で止めさせていただきますので御了承下さいませ。

破壊と構築の連鎖

2005年07月16日 04時30分41秒 | メッセージ
これは、今私のサイトの掲示板でツリーとなっている「精神年齢と実年齢のギャップについて」の、ツリーの皆さんへのまとめレス兼、私の個人的まとめです。

まずは、大人世界と子供世界の境目がなくなってきた理由なんですが、これが先進国の特徴なのか?、日本特有なのか?、非常に難しく学者が研究してもいいような問題だと思います。でも、確実にそう感じますよね今の日本では…。
で世界の事はさておき、日本だけの問題として考えてみると、戦後から大きく変わったような気はします。という事は敗戦という事が大きく影響しているのは疑う余地の無い原因の一つですね。

そこから、戦後派の人間が旧態然とした大人社会を一度ぶっ壊しリセットしたかったというのと、豊かさからくる昔ながらの性別だとか年齢的役割分担が減少して来たからというのが大きな原因だと思います。だから、そのボーダーを私達自身が壊したと言っても過言ではありません。

ただ、これで個人的に思い出すのが「ラスト・サムライ」という映画の私の感想なんですが、この作品の感想の多くに今は無くなってしまった「武士道」賛歌が多かった事に疑問視した文章になってしまったのですが、この問題も同様に「昔は良かった」的な話に持って行きたくないですね。要は現時点で問題点が多く必要が無くなったり、合わなくなったから壊したのであって、壊した事自体は必然だったと思うのですが、ただし新しい世界のヴィジョンに誤算があったというべきなんでしょうね。いわゆる「こんな筈では…」ってやつですよ。(苦笑)

何が「こんな筈では…」なのか?、というと以前ここにも書きましたけど(私の暴言かも知れませんが)「人格の伴わない頭の良さなど認めない」という問題と共通しているかも知れません。
要するに戦後教育の大いなる誤算だと思うのですが、「精神年齢」の高さだとか、「人格」が優れているだとか、「大人」社会だとか、(昔が本当にそうだったのかはかなり疑わしいが…)実に曖昧な表現ではあるけれど、ある程度共通認識やイメージのようなものがあって、それは「知識の量と比例する」という大きな勘違いの元に進められたのかも知れないということです。
知識が増えれば、精神年齢も高くなり、人格も形成できて、立派な大人になれるという大いなる勘違いに、戦後60年経ってようやく気づき始めたという気がしています。

だから、この辺りは9番さんの「17歳頭打ち説」が実にピッタリと来るのですが、知識や情報量だけ増やしても、一見小生意気で大人びた感じにはなるけれど、精神や人格とかの形成には実は全く関係無い、バランスの悪い方輪(これって差別用語?)になるだけだってことに、やっと今になって感じ始めたというのが正解なんでしょうね。
でも、人間って大体こんなもので、さっき話した「武士道」もそうですが、その中には良いものもあれば悪いものもあるってのが当然なんだけど、一旦全てを(全面否定)壊してしまうんですよね。だから新しく構築したものも結局は不完全なものであって、同じ過ちを繰り返しているんですよ。

だから今は問題点しか目に入らなくなってきて、今度はまた若い人達が現状を壊す順番(時期)に来ているような気がします。でもまた失敗するのでしょうけどね。(苦笑)

でも、その潮流の中でもある程度それに気づいている人達がそれなりにいて、それなりのバランス感覚を保ち「魅力的な大人」と称されているのかも知れませんね。
この辺りTAKUMIさんが最後に語っている事と繋がってくると思います。
社会の変容は個人では中々変えられないですけど、個人的に「魅力的な大人」になるのはある程度可能だと思います。そこで「自覚」というのが大きな要素となってくるようですね。

本当に罪はないのだろうか?

2005年07月09日 09時02分56秒 | メッセージ
テロのニュースを見ていると「こんなに罪の無い人達が……」という台詞がやたら多くて印象に残った。

例えば犠牲者が私自身であったり、私の家族、知人であったら怒りや悲しみや理不尽さに身が千切れるほどの痛みを感じる事だろう。
確かに武器を持って他者に向かったことも無い私は直接的な罪は無いのだろう。

しかし、「本当に私自身に全く罪が無いのだろうか?」と自問するとハッキリと無いとは言い切れない思いも何処かにある。この社会を構成する一員である事自体や、その中でそれなりの自由なり快適な社会生活を享受している人間にとって、それが無い人達とか、全く価値観とか目指すものが違う人間の事を、簡単に我々の豊かな生活を脅かす存在としてだけ見る事が出来るのか?。たんに彼らは狂った殺人鬼(殺人集団)なのか?。我々は本当に罪無く正しいのか?。私は自分に対しての疑問がある限り胸を張ってそれを主張する事は出来ない。

あと、今回の事件で、またJR列車事故の事を思い出してしまったのだが、死者を数だけで示すのは不謹慎かも知れないが、テロより事故の方が死者の数が多いのだな。これは、今回のテロやJRの列車事故だけでなく、年間を通して全世界的にみて、こうした文明国の様々な事故による死者の数と、戦争やテロによる死者の数といったいどれくらい差があるのだろう?。
勝手な想像だけだと私は事故による原因だとか、この資本主義社会で生きる事により生じる病(精神的なものを含めて)や自殺等での死者の数の方が圧倒的に多いのではないのかと感じている。

私達が現代社会生きていくこと自体、事故やストレスなどとテロや戦争などはほぼ同等のリスクなのではないのかとさえ思えてくる。
武器を持たず、ただそれを使用しないだけで本当に罪が無いと言い切れるほど、私は面の皮を厚くすることが出来ないのですよ。

ビル・ロビンソン

2005年07月09日 07時30分52秒 | メッセージ
これからは、掲載写真の解説を入れる事にしよう。

今回登場するのは日本では第一号とも呼べる外国人レスラーのベビーフェイス(悪役をやっつける側)だと思います。
日本のプロレスは力道山の頃から日本人レスラー対外人レスラーの構図をがずっと続いていて、日本人レスラーが外人レスラーをやっつけるというのはある意味伝統と言ってもよかったのだけど、当時国際プロレスに来日した彼は、華麗な技だけで反則をしない英国紳士を売りに日本人ファンを魅了した。

特に有名なのは彼の代名詞となった「人間風車」(ダブルアームスープレックス)が今回の写真。
しかし本当にファンが驚いたのは、「人間風車」だとかそうした大技よりもとにかく(ランカシャースタイルというらしい)技の多さだったと思う。当時のプロレスは力道山からの伝統で空手チョップだとかそういう打撃系が多く細かな技のつなぎとか関節技など殆ど見た事がなかったと言ってもよかったのだけど、彼が次から次へと繰り出す技のつなぎや関節技に日本のプロレスファンは驚いてしまったのです。

そんな彼の技の中でも私が一番好きな技は、実は人間風車ではなくもう一枚のワンハンドバックブリカーの方なんです。これも色々なレスラーが真似して使ったのだけど彼が繰り出すこの技は正に芸術品の域まで達して、強烈な印象がある。痛め技の効果としても抜群で、この技の一連の流れを詳しく紹介すると
http://members.at.infoseek.co.jp/drmick/proresu/waza/onehand.htm
を参照下さい。
正に説得力のある強烈な必殺技でした。

ギュスターヴ・モロー展

2005年06月19日 06時26分20秒 | メッセージ
最近私は全然絵画展に行かなくなったのだけど、その理由としては、平日に行けなくなった事が大きな原因かな。
とにかく私は展覧会へは休日には行きたくないので、いつも休暇をとって出かけていたのだけど、今の会社は入ってからまだ日が浅いので、先日やっと休暇を取れるようになったけど(とは、いっても一年に9日だけだけどf^_^;;)今まで休暇が取れなかったので美術館から自然に足が遠ざかっていたようだ。

今の派遣先の会社は結構変則的な休みが多く、その殆どが土・日か日・月(月曜日は殆どの美術館は休館日)となっている。
でも、珍しく17日の金曜が休みとなったので久しぶりに展覧会に行ってきた。

モローについての説明はもうしないけど、私の大好きな画家なので見ていて飽きない。相変わらず色に引き込まれる。この人の場合水彩画が凄くいいのだ。一日中見ていても飽きないと思う。サロメの出現は何度観ても圧巻。

お願い

2005年05月22日 10時18分02秒 | メッセージ
私のプロレス好きはROMの皆さんはもうすでに御存知だと思うのですが、正直言って最近プロレスって殆ど見ていません。(涙・涙)
地上波の関西圏のプロレス放送ってもう全滅状態で深夜というより明け方の放送なんですが、それもテレビガイドの時間通りに放送されない事が多くもう録画する気も起こらない状態です。せめて大きな試合だけでもと思うのですがもう全く期待出来ない状態です。

そこでちょっと気になる記事を見たのですが、

http://www.nikkansports.com/ns/battle/p-bt-tp0-050517-0007.html

これによると関東圏のみの放送のようで、ずっと先(7/18か19の放送)の話になるのですが、もし可能であれば何方か録画していただけないでしょうか。まあ、それまで憶えていられるかどうかが一番の問題だと思いますが…f^_^;;。
構わないよという方いらっしゃったらコメントかメールお願いします。m(_ _)m


方針変更?

2005年05月15日 11時11分07秒 | メッセージ
とタイトルはつけたが、方針というより私の性分のようなものについての事だから、変更出来るかどうかはまだ分らない。(苦笑)

私がこうして文章を書き出したのはネットを始めてからだから、40歳を過ぎてからであり、元々文章を書くのは苦手であった。(これについては今までネットで何度も何度も繰り返し喋ってきたf^_^;;。)
ネットを長くやっていると基本的に書くことが好きなタイプと嫌いなタイプがいることが大よそだけどなんとなく分る。私も含めてそういう人達が嫌いなのに何故書くのかというと、おそらく書くというと事より上位に書かなければならない何かの事情があるからなんだろうな。

で、私も文章を書く時、上でも書いたが性分なのか何なのかよく分らないのだけれど「完成した文章を書かなければ…」というある種の強迫観念のようなものがあり、これが余計に苦手意識となっているようだ。もう少し分りやすく言うと、何も言いたい事が無いのに書くということに無意識の抵抗があるようなのだ。
だから私は日記が書けないのだ。日々の出来事とか、メモ的なものとか、(カテゴリーに「独り言」なんて便宜上作っているけど)本当の独り言とか呟きのような事が書けないのだ。日記などは本来自分しか読まないのだからなんでもそういうものを書けばいいのだけれど、何か読む人の事を考えてしまっているのだろうな。
だから、「主張」だとか「メッセージ」が含まれていないと意味無いとまでひょっとしたら思い込んでしまっているのかも知れない。

ということで、ほんの1,2行でも日頃ふと感じた「呟き」だとか、それこそタイトルのような「雄叫び」のような事でも書くようにしたいと思う。
でも、これって無意識のものだから、自分からかなりの努力をしないと出来ないことなのかもね。f^_^;;
だから、これからは毎日一件は何かを書く事を自分で義務付けて習慣にしたいと思っている。(ROMの人達は多分無理だと思っているかも知れないけど…。f^_^;;)