前回は書評もどきの文章を書いてしまったが、律儀に『ウェブログの心理学』のサイトからトラックバックをいただいた。しかも過去のエントリから引用までされている。後から読むと、つたない文章で恥ずかしい限りである。
さて、『ウェブログの心理学』の終章でも記述されていたが、blogにおいて「名前」の占める重要性は現実のものとは異なるといえる。「ウェブログにとって必要なのは、継続する名前とそれに伴う存在感である」(p144)という記述があり、仮名(IDといった部分ではより意味が薄くなる)でのblogというように実名のスタンスから一歩引いているが、実際には存在感という部分において「名前」の重要性はそれよりも低い位置で現在のblogは推移しているように思える。
blogにおいて存在感を生み出しているのは、「名前」ではなく継続したweb上の場(サイトのデザインやURL)であり、またはエントリの内容・文章形態・雰囲気であったりするのではないだろうか。
もちろん有名人のブログやメディアブログなどでは「名前」が指標となって存在感となっているという考え方もできるが、単にそれは最初の話題性や信頼性であって、存在感を生み出しているのはやはりエントリなどである。
さらに有名人のブログなどでは、今までに「名前」によって作り出されていた存在感をblogが崩してくれるのではないかという新しい存在感を読み手は求めているようにも思える。
その点で「名前」がblogにとってほとんど重要ではないと言うことがいえる。ただし、だからといってblogが匿名と言う意味ではない。
ここで問題となるのが、書き手にとっての現実と存在感のギャップである。
書き手の立場に立つと、各エントリなどを中心として存在感が決定する。逆に言えば存在感はエントリが書かれるまではよりどころの無い浮遊した状態なのである。私の場合を言うと、存在感をわざと(気分的にともいえるが)エントリ毎に変えている。
逆に読み手の側から言うと、『ウェブログの心理学』のトラックバックを見ても分かるように、平等にそれぞれのblogを扱っている。これは「名前」が薄いため当然のことなのだが、逆に言えば一定の高さの位置に読み手はblogを固定しているともいえる。
この2つの部分、現実とブログ内での書き手の位置、そして書き手と読み手の位置でblogのネットワークはギャップをもっているといえる。たとえば日記というスタンスでのみblogを捉えているとすると、このような立ち位置の違うトラックバックに戸惑ってしまうわけだ。
blogはトラックバックによって分散型のネットワークを作っていくが、フォーマットは一定のもので、blog内でのギャップは常に生じていると言える。
blogとは何なのかという問いは様々なblogでなされている(例として、ブログは日記?コミュニケーションツール? @大須は萌えているか?をあげてみよう) 。しかし、blogがいまいちどのようなツールかがはっきりしてこない。そんな現在の状況にはギャップの問題も考えられるのではないだろうか
さて、『ウェブログの心理学』の終章でも記述されていたが、blogにおいて「名前」の占める重要性は現実のものとは異なるといえる。「ウェブログにとって必要なのは、継続する名前とそれに伴う存在感である」(p144)という記述があり、仮名(IDといった部分ではより意味が薄くなる)でのblogというように実名のスタンスから一歩引いているが、実際には存在感という部分において「名前」の重要性はそれよりも低い位置で現在のblogは推移しているように思える。
blogにおいて存在感を生み出しているのは、「名前」ではなく継続したweb上の場(サイトのデザインやURL)であり、またはエントリの内容・文章形態・雰囲気であったりするのではないだろうか。
もちろん有名人のブログやメディアブログなどでは「名前」が指標となって存在感となっているという考え方もできるが、単にそれは最初の話題性や信頼性であって、存在感を生み出しているのはやはりエントリなどである。
さらに有名人のブログなどでは、今までに「名前」によって作り出されていた存在感をblogが崩してくれるのではないかという新しい存在感を読み手は求めているようにも思える。
その点で「名前」がblogにとってほとんど重要ではないと言うことがいえる。ただし、だからといってblogが匿名と言う意味ではない。
ここで問題となるのが、書き手にとっての現実と存在感のギャップである。
書き手の立場に立つと、各エントリなどを中心として存在感が決定する。逆に言えば存在感はエントリが書かれるまではよりどころの無い浮遊した状態なのである。私の場合を言うと、存在感をわざと(気分的にともいえるが)エントリ毎に変えている。
逆に読み手の側から言うと、『ウェブログの心理学』のトラックバックを見ても分かるように、平等にそれぞれのblogを扱っている。これは「名前」が薄いため当然のことなのだが、逆に言えば一定の高さの位置に読み手はblogを固定しているともいえる。
この2つの部分、現実とブログ内での書き手の位置、そして書き手と読み手の位置でblogのネットワークはギャップをもっているといえる。たとえば日記というスタンスでのみblogを捉えているとすると、このような立ち位置の違うトラックバックに戸惑ってしまうわけだ。
blogはトラックバックによって分散型のネットワークを作っていくが、フォーマットは一定のもので、blog内でのギャップは常に生じていると言える。
blogとは何なのかという問いは様々なblogでなされている(例として、ブログは日記?コミュニケーションツール? @大須は萌えているか?をあげてみよう) 。しかし、blogがいまいちどのようなツールかがはっきりしてこない。そんな現在の状況にはギャップの問題も考えられるのではないだろうか