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Blogといったネット上メディアについて
日常の話題に沿って発信します。

名前と存在感

2005-03-29 04:33:55 | 考察視点
前回は書評もどきの文章を書いてしまったが、律儀に『ウェブログの心理学』のサイトからトラックバックをいただいた。しかも過去のエントリから引用までされている。後から読むと、つたない文章で恥ずかしい限りである。

さて、『ウェブログの心理学』の終章でも記述されていたが、blogにおいて「名前」の占める重要性は現実のものとは異なるといえる。「ウェブログにとって必要なのは、継続する名前とそれに伴う存在感である」(p144)という記述があり、仮名(IDといった部分ではより意味が薄くなる)でのblogというように実名のスタンスから一歩引いているが、実際には存在感という部分において「名前」の重要性はそれよりも低い位置で現在のblogは推移しているように思える。
blogにおいて存在感を生み出しているのは、「名前」ではなく継続したweb上の場(サイトのデザインやURL)であり、またはエントリの内容・文章形態・雰囲気であったりするのではないだろうか。
もちろん有名人のブログやメディアブログなどでは「名前」が指標となって存在感となっているという考え方もできるが、単にそれは最初の話題性や信頼性であって、存在感を生み出しているのはやはりエントリなどである。
さらに有名人のブログなどでは、今までに「名前」によって作り出されていた存在感をblogが崩してくれるのではないかという新しい存在感を読み手は求めているようにも思える。
その点で「名前」がblogにとってほとんど重要ではないと言うことがいえる。ただし、だからといってblogが匿名と言う意味ではない。

ここで問題となるのが、書き手にとっての現実と存在感のギャップである。
書き手の立場に立つと、各エントリなどを中心として存在感が決定する。逆に言えば存在感はエントリが書かれるまではよりどころの無い浮遊した状態なのである。私の場合を言うと、存在感をわざと(気分的にともいえるが)エントリ毎に変えている。
逆に読み手の側から言うと、『ウェブログの心理学』のトラックバックを見ても分かるように、平等にそれぞれのblogを扱っている。これは「名前」が薄いため当然のことなのだが、逆に言えば一定の高さの位置に読み手はblogを固定しているともいえる。
この2つの部分、現実とブログ内での書き手の位置、そして書き手と読み手の位置でblogのネットワークはギャップをもっているといえる。たとえば日記というスタンスでのみblogを捉えているとすると、このような立ち位置の違うトラックバックに戸惑ってしまうわけだ。
blogはトラックバックによって分散型のネットワークを作っていくが、フォーマットは一定のもので、blog内でのギャップは常に生じていると言える。
blogとは何なのかという問いは様々なblogでなされている(例として、ブログは日記?コミュニケーションツール? @大須は萌えているか?をあげてみよう) 。しかし、blogがいまいちどのようなツールかがはっきりしてこない。そんな現在の状況にはギャップの問題も考えられるのではないだろうか
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『ウェブログの心理学』

2005-03-25 23:51:47 | 書評型視点
ウェブログの心理学
山下 清美 川浦 康至 川上 善郎 三浦 麻子
NTT出版 2005-03
ISBN: 475710149X








by G-Tools

以前も指摘したことですが、書店で一般に出回っているblogやSNSに関する本はそのほとんどが初心者向けのHowto本です。もちろんそのような本の一部分には有用な情報が載っていることもありますが、本全体として思考をもたらす本はほとんどありませんでした。
以前から情報は得ていたのですが、3月に入って『ウェブログの心理学』という本が出版されました。既に多くのblogでこの本が紹介されていますが、他のブログでの言及は次にまわすとして、とりあえず雑多な感想・考察を述べて見たいと思います。

この本は、その本文から引用すると、「ウェブログとは何か、どのように誕生し発展してきたか、本質的に変わらなかったことは何か、新たに変化したことは何か、今後はどのような方向に発展していくのか、ということについての大きな見取り図となっている。」(はじめに p8)といった本です。
タイトルに関してですが、内容を知らない時点でなぜ「ウェブログ」などという長い正式名称を使うのかという疑問があったのですが、読み通してみると「ウェブログ」とは"Weblog"のカタカナ表記ではなく、インターネットができて以来の日記型の情報発信形態をさしているという事が分かりました(ただし、文章中でも曖昧な箇所は多くありましたが…)。これは日本におけるblogを考える上で、パーソナルなイメージの強いWeb日記の要素がアメリカより強い形でblogの内容に反映されていることを考えると、最もな事だと思います。また、「心理学」という表記の通りほとんどの章で心理学的な手法による分析、もしくは結果の引用がなされています。
内容としては各筆者が担当している4つの章とまとめの終章、そして年表・論文へのリンク集などの参考資料からなっていて、文章と資料ともにblogやインターネット社会に対する分析として他の本と比べても面白い部分があります。
ただし、本の章だてとしてはオムニバス形式なのですが、あまりそれを表に出していない形式で、誰がどの部分を担当しているのか著者紹介の部分にしか明記されていません。そのため同じ筆者が書いているものと思って読んでしまうと、章ごとによる表現や背景にある部分の微妙なずれや章での内容の重複があるので、気をつけるべきかもしれません。
1章は、Webでのコミュニケーションの特質から、ホームページのコミュニケーション動機について述べられています。
2章は、主にWeb日記やアンテナと言った従来日本にあったコミュニティとWeblogとが合わさっていく歴史的推移が述べられています。
3章はWeb日記に対する調査を元に現在のblogにも当てはまるその動機と効用について、そしてそこから日記の内容と作者の志向から「ウェブログ」の分類をしています。
4章は、前の3章と比べるとどちらかというと現在のブログを中心として、参加者の増加と継続志向がどこから生じるのかという観点から、ブログブームのもたらしたものと行く末について論じています。またWikiなどとの比較やSNSへの言及もなされています。
この本ではWeb日記と言ったblog以前の部分からの調査が内容として加わっている分、深いものになっています。とくに2章の歴史の記述は、私自身、Web日記を書いていた経験はありますが、そこでのコミュニティということに関してはほとんど知らないため、とても参考になります。
また、本文中で様々な「ウェブログ」の心理学モデルが提示されています。それは「ウェブログ」の作者の心理的なモデルだったり、「ウェブログ」の目的・内容などから見た分類だったりするのですが、それ自身は良く考えれば思い浮かぶことです。ただし、それを調査によって提示していることは興味深いと思います。
この本では終章がまとめとしてあるのですが、私にとってはこの章が一番興味が向けられました。むしろ前の章で取り上げられていない断片的なキーワードを補完する形だったのが理由かもしれませんが、ネット上での匿名性、トラックバックといったシステムの問題点、ジャーナリズムとブログの関係、ブログの著作権などについて。また、このblogでもあげているパブリックとプライベートの立場の置き方がアクセスコントロールと言う形で記述されています。
アクセスコントロールの部分での「ウェブログの書き手の立場にたつと、多くの人に見てもらいたいという気持ちと、かといって無用なトラブルを避けるためにはある程度の制限をしたいという気持ちが混在している人も多く、その場合は、複数のウェブログをもつことで対処することになる。」「ウェブログ・ユーザーの求めるアクセス・コントロールはもっときめの細かいものである可能性がある」(p150)という記述は自分にとって正にその通りであるのですが、RURIコードやDI:DOのひみつ日記などのエントリ単位でのコントロールなどが提示されていて参考になりました。
最後に、全体を通して、「ウェブログ」をツールとしての部分ではなく「人の自由な自己表現の場や、個人による情報発信に支えられた知識共有社会」(p133)というより広いスタンスでの見方があり、blogやそれを超えた社会の流れとしてのインターネットを考える上で面白い本だと思いました。


『ウェブログの心理学』のサポートサイト
が半年の運用を目処に開設されているようです。トラックバックやAmazonのカスタマーレビューにも対応して応答をされているようです。

余談
・Amazonの商品紹介用のツールをはじめて使ってみました。ちなみにアフィリエイトは使っていません。
・今回引用をしてみましたが、引用という観点でははてなダイアリーの引用タグは非常に使いやすかったと思います。そのようなツールが余計と考えるか便利と考えるかは人次第でしょうが。
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脳・ネットワーク

2005-03-23 23:52:22 | 存在視点
私がよく行く書店のひとつに横浜ダイアモンド地下街にある有隣堂があります。
大体ここに行くときは、文庫・コンピュータ書籍・科学一般・漫画・雑誌などを求めていくのですが(テーマに沿って本を買いに行くときは、東京まで出るか、関内の有隣堂本店か、横浜の紀伊国屋に行きます)、科学一般のコーナーは基本的に微妙に怪しい本がならんでいます。むしろテーマ的に分類し難いから一般に並ぶのでしょうが、その本の一角に最近「ネットワーク」をテーマに掲げた本が何種類かおいてあります。もちろんTCP/IPやLANについてのネットワーキングの技術本ではないです。
例をあげると、アルバート・ラズロ・バラバシ『新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く』ISBN:4140807431や、ダンカン・ワッツ『スモールワールド・ネットワーク―世界を知るための新科学的思考法』ISBN: 4484041162などがあります。
私はこの2つの書籍を書店でめくる程度にしか読んでないのですが、書評などを見ると共に「ネットワーク」というキーワードで様々な現象を理解できるというスタンスに立っていることが分かります。雰囲気的にはサイバネティクスに近いと考えることもできるでしょう。
ネットワークについて、前回のエントリにあるようにblogやSNSはネットワーク型のメディア構造を作り出してそれが、拡大していくというように考えることもできます。またこの構造は人間関係や社会・脳の構造などいたるところで想定できるように思います。
現にblogと社会と脳をつなぐエントリを偶然であるとは思いますが、短い期間に発見してしまいました(だから、このエントリが書かれているのですが)。
ひとつは、以前トラックバックとコメントをいただいたメタ脳化プロジェクト@~大ブロ式~とその引用元ブログとはブロガー同士の思考の絡まりを楽しむものだ@弘毅の日々のです。このエントリではブログを脳のニューロンに見立てて、トラックバックによって作られる関係性がブログの価値としてとらえられるとしています。さらに前回参照させていただいたブログメディアの構造私論@MasahikoSatoh.comにもとづいて言うと、そのニューロン同士のつながりはそれぞれに役割(テーマ)のようなものを持ち(5P)、しかも時間によって成長していく(6P)と考えられます。
また、脳と社会の愉快な関係。@プギログでは脳内ネットワークと社会について、似ているのではないかと言う指摘が何気なく書かれています。
このような、ネットワーク的な部分は多くあると思います。私が大学の授業で聞いた話で、フルッサーが提示した、コミュニケーションにおける対話(情報の創発)の2形態のひとつにネットワーク型というものがありましたが、現に何かが生まれる、社会・脳そしてblogという環境においてそのような「ネットワーク」という形態が想定できるのは当然なのかもしれません。
ただし、だからといって例に挙げた書籍にあるような「ネットワーク」を万能とするスタンスではなにかしらの怪しさ(宗教じみたもの)を感じてしまいます。必要なのはひとつの考え方ではなくて、どんな考え方をも自分なりに一定の距離を置いて接していくことかもしれません。
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blogのメディア構造

2005-03-21 23:04:47 | 存在視点
私がRSSを取得しているサイトの1つに興味深いエントリがあった。参加型に対する疑問:媒体の形はどうなるのか@ネットは新聞を殺すのかblog今までのblogに対する考察の中では、blogの記述に関する分類でパブリックとプライベートという観点から考えていたが、このエントリと関係する資料ではトラックバックといった部分からの従来のwebメディアとの違いが提示されている。
従来の境界面がはっきりしたメディアとは違った、ネットワークによってつながれた分散型のメディアという考え方についてはblogの特徴として考え付くことだが、それが時間軸においてそれが拡大していくことで従来の枠を超えた可能性を秘めるという考えは、今までのblogに対する「時系列に沿った形でエントリが行われる」といった記述面の説明からより大きなblogの捉え方をしているように思える。
ネットは新聞を殺すのかblogの中でも参照されているが、ブログメディアの構造私論@MasahikoSatoh.comで提示されているpdfファイル6ページがこの時系列によって拡大するメディアという特徴を簡潔に図示しているので、理解に役立つ。

しかし、良く考えてみるとこのような時系列によって拡大していくメディアという特徴を現在のblogが最適な形で反映しているかというと、そうでもないように思える。
前に「いい女塾」の論争のまとめをしているエントリに言及したが、あの時も既にエントリが数日前の物であって、最新の記事ではなかったが、トラックバックによりエントリのネットワークが日を追うごとに拡大して行ったということが分かった。
しかし、blogの記述者から見た場合や、RSSでピンポイントに情報を得る以外の方法においてこのような拡大していく種としての記事は時間の経過と共に埋もれていくため注意をしていないと気づかないままとなってしまう可能性もあるのだ。
対処として最新コメントや最新トラックバックの通知があるかもしれないが、これもこのblogのような小規模な反応においては有効であるかもしれないが、インターフェースとして最適であるとはいえないように思える。
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携帯からのblogについて

2005-03-20 23:21:25 | Weblog(雑文)
旅行のためしばらく時間が空いてしまいました。
旅行中も携帯での更新をもくろんだのですが、余裕が無かったのと、内容が深くならなかったため、私が書いているもう1つのblogに旅行の行程を書くことにとどまってしまいました(思考回路垂れ流し日記)。そこでは、初めて携帯電話のカメラを添付したblogをつけています。正直な話、この旅行の前まで私の携帯電話はカメラが付いていないほど古いものだったので、これを気に買い換えました。
買い換えてカメラ付きになったり、iアプリとかいろいろ出来るようになったのですが、結局使う機会があまり出てきません。旅行中もデジタルカメラを常にポケットに入れている状態だったので、そちらのほうが使いやすいし高機能と言うことで、「blog用に写真をとる」という本末転倒な行動をとっていました。結局、買い換えて一番便利になったのがメールを打つときのレスポンスの早さだったりします。
携帯電話でのblogの記述は、まだかなり制限されたもののように思えます。もちろん携帯電話からこのblogをみれば記述してあることが分かりますし、コメントも見えます(これに気づいたのがかなり最近ですが…)。メールでエントリを増やすことも比較的容易です。
しかし、何故か携帯を使ってblogを書くというインターフェースではblogという形のエントリが難しいように感じました。現に旅行中に携帯電話で書いたエントリは全て短文で終わってしまう傾向にありました。携帯のメールは元々それほど長い文章を書くことを意図していないからかもしれません。
もちろん、携帯カメラのことも、携帯からのblog記述のことも、単に慣れていないからということで片付けることも可能ですが、それ以上に端末としての携帯電話の問題点があるかもしれません。
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携帯からのBLOG

2005-03-08 20:11:21 | Weblog(雑文)
明日からサークルで山地に行くためしばらくブログをみながらの言及はできないのだがこのような形での携帯をつかったモブログで試してみたいと思う。

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blogと企業

2005-03-07 23:10:35 | 考察視点
「就職の役に立つ」という魔法@踊るWEBデザインという形でblogとビジネスの話題にトラックバックをいただいたのですが、ブログが就職活動などで役立つかどうかという部分はなんともいえませんが、blogと企業と言う形、特に従来型の大企業について言えば両者が相反するものであることが考えられます。
この話題は今後日本においても語られるかもしれませんが、とりあえず例としてアメリカのBLOGによる解雇という話題を挙げておきます。(cf.「社員のBlog」への対処に乗り出す企業
この記事であげられている事例は共に企業にとって都合の悪い部分がblogの中に内包されている事をよく表しています。つまり集団の利益と個人の主張の自由は両立するとは限りません。企業から見れば、バッシングやイメージダウン、内部機密の漏洩につながる恐れが想定できるでしょう。このような個人的な意見の主張を容易にしてしまうメディアを企業が野放しにしていてはまずいという風潮が今後広がる可能性も十分に考えられます。
SNSについてもこれとは違った意味で、企業外のつながりを優先することでの弊害などから制限するといった話も本に載っていました。
一方で特にビジネスに関するblog本などにもあるように企業の宣伝などに利用するという利点も容易に考えつきますが、これはどちらかと言うと経営方針を決めている人間や規模の小さい企業に向いていることであって、従来の企業体系とblogが必ずしも上手く結びつきはしないと感じます。
あとは集団でひとつのblogをつくっていくというグループ内でのblogがあげられます。これに関してはビジネスと言う観点から利用されているようですが、これに関してはグループと言う部分から相互に監視するという機能が生まれてうまくいっているのではないかと思いました。
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ブログ界という認識

2005-03-03 23:48:54 | 存在視点
RSSでblogに関することについて、とりあえず網羅的に読んでいると様々な話題が流れていることに気づきます。
そのこと自体は全く普通のことなのですが、昔のエントリで提示した個人的な現実体験からのプライベートな話題と社会的なニュースなどのパブリックな内容という分かりやすい二つのソース以外に、blog固有ともいえる話題が取り上げられていることが多々あります。それが表題にもあげた「ブログ界」での関心事に対するエントリです。普通にいうと他のblogに対するメタ的な視点でのコメント・トラックバックなどの部分がそのまま話題になってしまうと言うことです。
この「ブログ界」という造語がどこから生まれたのか調べていませんが(BLOG界の出来事などに使われていたのが広まったのかもしれません)、非常に上手い造語である一方、blogに対する見方を固定してしまう面があるように思えます。基本的にこの第3のソースの話題性は特定の個人の発言から生まれるものです。そのため、一般的に非常に局地的な閉じた話題空間を作り出してしまいます。そしてそこで話題の主軸となるのはエントリとコメントのやり取りとその推移です。もちろんバックグラウンドに様々な問題が潜んでいるとは思いますが、結局のところ話題空間が局地的なのでその部分での意味性が喪失してしまいます。
私がこのblogを始めてから、既にそのようなブログ界の話題のようなものを何回か確認していますが、その終着点にあまり後に残る部分が無いような気がします。ひとつの例として、「いい女塾」というサイトに対する論争と言うものがあるらしい、詳しくは論争をまとめてみた。まとまってない@ダメ東大女子の備忘録というblogにまとめられています。この話題を見る限り、あまりに局地的でそのソースを辿る気も起きませんでした。しかしblogにおいてこのような局地的な話題が好んで取り上げられるようです。現にまとめられたblog記述者はアクセス・コメント数の増大に困惑しているように感じられました。
ただし、このまとめサイトから提示されたblogに対する疑問は共感しました。blogにエントリをすることはどのようなことなのか。私を含めそれについて明確な考えを持って記述している人は少ないと思います。blogそして社会の変化の意味の模索として、「ブログ界」が使われるというというのはまだこのblogが単なる流行に終わらないひとつの流れのように思えました。
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ビジネス視点のあり方

2005-03-01 04:19:06 | 存在視点
前回の補足を中心に話を広げていこうと思います。

前回でフォローしていなかったwebに関する書籍において、ビジネスに言及する部分が多いという例として、『ビジネスブログブック』ISBN:4-8399-1710-8という本が現在オンライン書店のコンピュータ書籍に関するランキングで上位に上がっているということをあげておきます。この本はビジネスつまり企業などの団体におけるブログの活用方法についてを書いたもので著者の一人である小川浩氏のblogにこのことが書かれています。
(cf.日本初めての(?)企業向けブログ利用解説書「ビジネスブログブック」発売決定! 『ビジネスブログブック』売れてます!)
大学等の組織も視野に入れた記述をしていると言うことなので読んでみようとは思いますが、それにもかかわらず、表題にビジネスといれることに端的にビジネス中心の現在の考え方が現れていると思います。
また、blogを広告としての利用法から見るという方法として前回あげたスポンサードブログ以外にもキーワードを設定して記述内容にあった広告を表示するという方法も検討されているようです。これ自体は人間のリンクという観点から離れた副産物的なものなのでどうかと思いますが、記述の部分から広告のリンクを作り出すという点で、その技術的な部分を他に生かすことも出来るように思えます。
「ブログ」広告媒体に・ネット専業代理店、環境整備し売り込み

前回のエントリではビジネス中心の考え方への批判を述べましたが、文章を読み直したところ、実際のところはたとえ幻想であったとしてもビジネスというタテマエが今あるからこそ、この漸進が成り立っているようにも考えられました。ビジネスからネットワーク技術を考えることによってblogが「つまらない」ものに成り下がってしまうという前回の論調が広い範囲で見たときの考えですが、現在の新しい外側のフレームを作り出している動機は、なにかしらのビジネス面からの新しさの追求の視点から生まれているともいえるでしょう。
その例として、blogという形態の可能性の模索が考えられます。blogが文字媒体における人間性の提示だとすると、他の媒体による提示が追求から成されているように思えます。
携帯電話文化との接点ともいえる画像を提示するフォトログは従来のblogでも可能ですが、他に>ケロログでは音声を記録するというblog(ボイスブログ)というシステムを提示しています。また本を登録していくというブクログなどもその可能性の模索といえると思います。
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