半年前に書いた文章を載せてみる。
長い間放置されていたが、内なる表現の欲望が復活したので、とりあえず手始めに。
短時間で製作しているレポートなので問題があるのは確かだが、ご了承いただきたい。
参考URLは表記していないが、このblogのエントリーで引用したものが中心である。
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Blogに対する考え方
前期はWeblog(以降blog)をテーマに絞って、blogをつけて発表をしたので、その流れの通りblogが内包している可能性と問題点について述べて生きたいと思う。普通にblogをテーマにして述べる場合その歴史について述べるべきなのかもしれないが、その点はすでに多くの書籍あるいはインターネット上の情報を元に基本的な部分は押さえられるので、それほど深くは言及しない。ただし、これから述べる事は、実体験も含めた「日本」の「ブログ」についてであるので、その点で、歴史経過も含めて前提として押さえておくべき点がいくつかあるので、まずそれを述べたいと思う。
Blogの歴史を考えても、多くの言及があるようにBlogとはどこまでがBlogであるのかという問題性がある。アメリカの場合は9.11や大統領選で話題となった、MovableTypeを利用した個人ジャーナリズムとしてのメディアという捉え方が一般であるが、この捉え方は日本では必ずも当てはまらない。もともと日本のインターネットの中にあった様々な流れに、アメリカから輸入されたWeblogという話題性を持った媒体がかみ合ったことによって現在の(もうそろそろ表面上の話題性は下火かもしれないが)ブログブームたるものが生まれたのである。その点でアメリカのWeblogとは別の代物とも言えるかもしれない。この場合様々な流れの代表的なものが「Web日記」もしくは「テキストサイト」という流れである。『ウェブログの心理学』ではこのような流れの全てをウェブログと総称しているように、これらのWebサイトはblogと非常に近い、例えば時系列に沿ったテキスト・画像などの記事が並んでいることや、普通のホームページと呼ばれる静的なWebサイトよりも更新量が多く、Privateな内容が多いなどの特徴がある。これまたWeb日記・テキストサイトとは何かという点で堂々巡りになってしまうものかもしれないが、このような特徴をもつサイト群の流れが、日本のblogの中には潜んでいると考えられる。
このため安易にblogについて説明しようとすると非常に難しい。フジテレビ系列のブログタイプという番組で「Web上の日記」という表現をされたように、一般的な捉え方でも日記という捉え方をされる場合も多いし、逆に捉え損ねて何も考えずにblogを書き始めて、すぐに掛けなくなってしまう場合も多い。
こうしてみると、blogを分析する際に気をつけなければならない事が見えてくるように思える。少なくともblogが歴史的にも構造的にも多層的なものであるという考えを持たなくてはならないのではないか。歴史的には「Web日記」と「テキストサイト」の側面をそのまま引継ぎ、更にその上からblogにほぼ特有に見られるRSSといった情報発信の技術やPHPによるデータベース的な側面が付随している。さらに構造的にはblogが内包している問題点について、blog < インターネット < 現実世界(社会的側面・心理的側面)といった層がなされれいるように思える。このような縦と横との2つのベクトルの層を考慮しつつblogに対する分析をしなければならないだろう。
さて、これから自分のblog上で書いてきた内容を元にいくつかのテーマに沿って述べるが、そのどれもにおいてここに挙げたblogの多層性が反映されている。その点を意識しつつテーマが含んでいる意味を考えられればよいと思う。
Blogの視点~テーマ・Private・Public
Blogを書くのは普段は現実世界で様々な活動をしている人間である。その点でblogの中でかかれる内容も、各blog主のblogに対するスタンスや考え方が反映されているといえる。元々は内容的に様々な話題をエントリーごとに使い分けて書く場合が多かったが、現在ではある特定のテーマに関して比較的的を絞って書いている場合も見られる。このようなテーマごとにある程度のblogのコミュニティ圏を見ることができるが、基本的にはそのようなblog達は比較的緩やかなトラックバックなどを通じたネットワークでつながっている場合もあるが、そこまで均一的に圏を作り出しているわけでは無いと言える。
このようなある程度のテーマ性をもつものとして捉えられるblogを分類しようとする志向性はよくあるものである。『ユリイカ』のブログ特集では10個のテーマごとにそれぞれ10のblogを紹介するという目論見をしているし、他にもテーマ・スタンスなどから分類をしようとする本は存在する。またウェブ上でもウェブログ図書館のような比較的広汎的に分類をしようとするサイトや、また特定のテーマについて「まとめ」たり、定期的にプロットしてゆくblogも存在する。
このようなテーマ性が比較的明確に見出せるblogが一定数以上存在し、分類できることは興味深いが、あくまでそれはどちらかというとハブとなるblog達であって、多くのblogはこのような分類が非常にし難いように思える。最後のテーマである余剰生産の考え方ともかかわってくるのだが、基本的に一般的なbloggerは同一テーマでひたすら書き続けるための、専門的な知識や文才、情報源へのアプローチ方法やエントリーを書くための時間を持っていないのが実状ではないかと思える。そのような多くの書き手がblogを利用しきれていない状況において、blogを書いて読んでいく中で比較的分けることが出来そうだと感じたのが、書き手のスタンスとしての情報源(ソース)のありかたである。
テーマ性の有無に限らずblogを見る上で、そのスタンスとしてプライベートな側面とパブリックな側面が存在するように思える。パブリックな側面のエントリにおいては、その情報源は主にマスメディアなどからもたらされるニュースなどのジャーナリズム的な情報、もしくは特定の分野に関する最新の話題の情報となる。また読者として広く一般に向けて、そうでなくともある程度の公共の対象に向けてののエントリーとなっていることが多いように感じる。これはある意味、以前の「テキストサイト」の傾向を受けているものであるだろう。逆にプライベートな側面としては、情報源としてblog主自らの体験が用いられる。この場合読者としてはある程度現実世界の関係性に即している対象を意図していることが多いだろう。これは、「Web日記」の流れ、特に日記的な心情・近況の描写という流れを受けているのではないか。
ただし、このような二つの側面がblog全体に対してもエントリーに対しても排他的に存在しているというわけではない。日記のような形式のblogでも公的なニュースに対しての意思表明をすることはありえるし、逆もそうである。さらにはエントリーにおいても公的なニュースを体験したという事もありえるだろう。こうした面を考えると、Blogという全体を見た時には、分類というよりも公的要素と私的要素の割合の問題なのかもしれない。しかしこのようなプライベートとパブリックという概念を適応することでブログ界で起こる事象について普通に見た以上の示唆が与えられることは多い。
例えばblogにおける無名(一般的には匿名だが、blog上では匿名は2chで言う固定ハンドルのような使われ方をされるのでこちらにしておいた)と実名の問題はよく話題に出てくるが、これに関してもこの二つの概念を当てはめることができるのではないか。プライベート的なblogというのは内的には実名、外的には無名であるのが一番よいだろう。Webという外的な他人が存在する空間においては現実の姿を晒すのは危険が付きまとう。しかし、全くの現実の痕跡が無ければそもそもWebという空間上に文章を書く意味がそがれてしまう。ペルソナというわけではないが、見知った仲の人間においては実名であるのがこのようなblogの条件である。これは更に発展するとアクセスコントロールなどの話になるように思える。アクセスコントロールとはさらに外的な要因からblogを隠蔽するのではなく遮断するという発想である。私としてはblogにおいてはプライベートとパブリックが混在するという考え方なのでアクセスコントロールについてはあまり良いとは思っていないが、そのような需要があるのは確かである。
逆にパブリック的なblogにおいては、外的には実名、内的には無名であるのがよいのではないか。外的には自らの意見主張が実質性をもつ声となる為の実名性が必要である(これは文字通りの実名というより、アイデンティティを持った名称といったほうが良いかもしれない)、しかしそれが現実に対する干渉性を持つのは、(個人的にではあるが)あまり良くないように思える。
結局、無名と実名の考え方はインターネット空間というバーチャルの部分と現実世界との関わりあいの問題であるが、それに対してプライベートとバブリックというスタンスが関連したものであることは確かである。
エントリーの成長と繋がり~トラックバック
blogの特徴の一つとしてトラックバックが挙げられる。トラックバックはなんとも説明しがたい機能であるのだが、相手のblogに自分のblogに対するリンクとエントリーの抜粋を残すというのが簡単な説明であろうか。トラックバックについてはトラックバックスパムやトラックバックの他者依存などの問題はあるが、ここではトラックバックとそのイメージからつくり出されるコミュニティとは違ったネットワークについて述べたい。
Blogがただの意見表明のためのツールであるのならば、普通のホームページでもHTMLの知識さえあればあまり変わりは無いだろう。またblogにはコメントの機能もついていることが多いが、これとも違った意味性をトラックバックが作り出しているのではないだろうか。Blogにおいてはエントリーを書いた時点では一つの書き込みだったものが、テーマによってはそれが他のblogに波及してゆくという現象が良くある。これを支えている機能がトラックバックだが、このように波及してゆくテーマのネットワークが掲示板システムによるコミュニティとは違ったものではないかと考えられる。まず意見表明が自身のblogという場によって行われ、その中で言及したblogからリンクで辿ってこれるようにするという機能がその原因だろう。よくWebの掲示板を公園に例えるが、公園においてはその場に対してアクセスする人間の立ち位置はある程度譲歩しなければならない、これこそ公共性である。しかしblogの主張する場はそのような共同の場ではない。blogとは他人の画廊に自分の画廊のチラシを置いておいてそこから自分の画廊に人間を呼び寄せるという例えが出来るかもしれないようなものだ。その点で掲示板のような場に流される衆愚的なものではない、自らの意見主張が出来るネットワークが作れるのかもしれない。しかしながら逆に言うと、自分の画廊であるからして、公園の様に警察官のような存在が居るわけではなく、あくまで自己責任という風潮も生み出してしまっている。このような自分の場という点においては、個人のWebサイトと比較的共通する部分も多い。現に個人のWebサイトはblogよって下火になる現象が起こっているという話もある。もちろんCMSなどを使ったデザイン作成の簡易さもその原因であるだろうが、私としてはそのような安易な簡単さに囚われてblogへと流れるのではなく、blogに特有のものとしてのトラックバックという機能に注目してほしいものである。
トラックバックなどの機能によりblogにはそれ自身に言及しやすいという特徴があることがわかる。この特徴から「メタ・ブログ」と呼ばれる独特のblogが存在している。この種のblogは他のblogの記事内容やblogそれ自身を情報源としている、いわばblog間の媒介をしているといえる存在である。もちろんメタ・ブログ的なエントリーに向く記事はそれなりにblogの根本的な部分に言及していたりする必要があり、また相当数のblogを読んでいなくてはならないという難しさもあるが、純粋な形で意見に対して論じるという点でメタ・ブログ的なblogはblogの特徴が顕著に現れている例ではないだろうか。
Blogを書く事~余剰生産・BlogersGroup
Blogを書いていて分かることが、Blogを書くにはかなりの時間がかかるという事だ。もちろん日記やエッセイ風の体裁を取れば、そこまで時間はかからないが、ある程度のテーマ性をもったblogを書くとなるとその情報を生み出す為に労力と時間が必要となる。多くの人がテーマ性を持つblogを書くという状態にならないのにはこの部分に最も原因があるように思える。このような中で書き続けるためには、blogを書く事に対する自己の意味が必要となってくるのではないだろうか。
blogを書く理由は様々である。ある者は自分の意見を世に主張したいからという理由があるかもしれないし、他には宣伝などの為だったり、仲間との情報交換だったりする。ただ漠然とblogを書いているということもあるだろう。しかし、このような理由は全て確信のない盲目的な信念に依存していることは確かだ。とくに不特定多数の読者を想定したパブリックなblogではなおさらである。アクセス解析などでPV数・IP数などの情報は得られたとしても、それがこのような理由を満たすものであるかどうかは分からない。
このような状況でエントリーを書き続けるというのは大変なものだ。しかし、見えない不特定多数への定期的な情報の送信とそこからの対話的な交流が、新たな情報の創発につながるのではないかとも考えられるのではないか。
コミュニケーションの中で現在では見られにくい状況としてのAnti-Code型コミュニケーションがblogにおいてなされているとも考えられる。トラックバックやRSSなどの規格化がプログラム的な側面で行われている一方で、心理的には相手が全く見えないという日企画的なコミュニケーションが生成されているのだ。その部分においてblog主は自分なりの考え(属性)を元にエントリーを書き出す。当に知識における贈与的な行為が行われていると考えられるのである。贈与とは物質的な余剰生産の提供のように考えられるが、この場合は情報的な知識の余剰生産の提供といえる。インターネット全般に言えることなのかも知れないが、blogにおいては更にこの発話行為が比較的短いスパンで定期的に行われているためこの絶えず贈与的な行為を行うというコミュニケーションの形がよく表れているのではないだろうか。ここでM.バフチンの「対話の原理」がこのような構造について上手く当てはめられるように思える。個人の属性に基づく具体的な発話と、そのような対話によってA→A’、B→B’と変化する創発という図式である。トラックバックについてでも述べたようにblogにおいては自己の場がある程度侵食されずに守られる。その点で自己が崩れないまま創発されるというコミュニケーション部分が上手く現れているのではないだろうか。
ここではコミュニケーションに言及したが、重要なのは情報を発し、受け取ることで自己の中で情報が創発されてゆくことである。スマートモブズと呼ばれるような情報社会における新しい人間のあり方が提示されているが、そのような社会集団においてこのような自己の創発が行われているとすれば面白いことであると思う。Blogは一つの意見主張などの為のフォーマットであって、それ自体が未来永劫続くわけではないだろう。しかし、blogを書くことによって自らの情報的な能力が高まった、BloggersGroupと呼べるような集団が形成されるとすれば、その部分においてだけでもblogの意味性はあるのかもしれない。
参考文献
山下清美他、『ウェブログの心理学』、NTT出版2005
公文俊平、『情報社会学序説』、NTT出版、2004
GEODESIC、『ブログを続ける力』、九天社、2005
ばるぼら、『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』、翔泳社、2005
『ユリイカ4月号~特集*ブログ作法』、青土社、2005
長い間放置されていたが、内なる表現の欲望が復活したので、とりあえず手始めに。
短時間で製作しているレポートなので問題があるのは確かだが、ご了承いただきたい。
参考URLは表記していないが、このblogのエントリーで引用したものが中心である。
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Blogに対する考え方
前期はWeblog(以降blog)をテーマに絞って、blogをつけて発表をしたので、その流れの通りblogが内包している可能性と問題点について述べて生きたいと思う。普通にblogをテーマにして述べる場合その歴史について述べるべきなのかもしれないが、その点はすでに多くの書籍あるいはインターネット上の情報を元に基本的な部分は押さえられるので、それほど深くは言及しない。ただし、これから述べる事は、実体験も含めた「日本」の「ブログ」についてであるので、その点で、歴史経過も含めて前提として押さえておくべき点がいくつかあるので、まずそれを述べたいと思う。
Blogの歴史を考えても、多くの言及があるようにBlogとはどこまでがBlogであるのかという問題性がある。アメリカの場合は9.11や大統領選で話題となった、MovableTypeを利用した個人ジャーナリズムとしてのメディアという捉え方が一般であるが、この捉え方は日本では必ずも当てはまらない。もともと日本のインターネットの中にあった様々な流れに、アメリカから輸入されたWeblogという話題性を持った媒体がかみ合ったことによって現在の(もうそろそろ表面上の話題性は下火かもしれないが)ブログブームたるものが生まれたのである。その点でアメリカのWeblogとは別の代物とも言えるかもしれない。この場合様々な流れの代表的なものが「Web日記」もしくは「テキストサイト」という流れである。『ウェブログの心理学』ではこのような流れの全てをウェブログと総称しているように、これらのWebサイトはblogと非常に近い、例えば時系列に沿ったテキスト・画像などの記事が並んでいることや、普通のホームページと呼ばれる静的なWebサイトよりも更新量が多く、Privateな内容が多いなどの特徴がある。これまたWeb日記・テキストサイトとは何かという点で堂々巡りになってしまうものかもしれないが、このような特徴をもつサイト群の流れが、日本のblogの中には潜んでいると考えられる。
このため安易にblogについて説明しようとすると非常に難しい。フジテレビ系列のブログタイプという番組で「Web上の日記」という表現をされたように、一般的な捉え方でも日記という捉え方をされる場合も多いし、逆に捉え損ねて何も考えずにblogを書き始めて、すぐに掛けなくなってしまう場合も多い。
こうしてみると、blogを分析する際に気をつけなければならない事が見えてくるように思える。少なくともblogが歴史的にも構造的にも多層的なものであるという考えを持たなくてはならないのではないか。歴史的には「Web日記」と「テキストサイト」の側面をそのまま引継ぎ、更にその上からblogにほぼ特有に見られるRSSといった情報発信の技術やPHPによるデータベース的な側面が付随している。さらに構造的にはblogが内包している問題点について、blog < インターネット < 現実世界(社会的側面・心理的側面)といった層がなされれいるように思える。このような縦と横との2つのベクトルの層を考慮しつつblogに対する分析をしなければならないだろう。
さて、これから自分のblog上で書いてきた内容を元にいくつかのテーマに沿って述べるが、そのどれもにおいてここに挙げたblogの多層性が反映されている。その点を意識しつつテーマが含んでいる意味を考えられればよいと思う。
Blogの視点~テーマ・Private・Public
Blogを書くのは普段は現実世界で様々な活動をしている人間である。その点でblogの中でかかれる内容も、各blog主のblogに対するスタンスや考え方が反映されているといえる。元々は内容的に様々な話題をエントリーごとに使い分けて書く場合が多かったが、現在ではある特定のテーマに関して比較的的を絞って書いている場合も見られる。このようなテーマごとにある程度のblogのコミュニティ圏を見ることができるが、基本的にはそのようなblog達は比較的緩やかなトラックバックなどを通じたネットワークでつながっている場合もあるが、そこまで均一的に圏を作り出しているわけでは無いと言える。
このようなある程度のテーマ性をもつものとして捉えられるblogを分類しようとする志向性はよくあるものである。『ユリイカ』のブログ特集では10個のテーマごとにそれぞれ10のblogを紹介するという目論見をしているし、他にもテーマ・スタンスなどから分類をしようとする本は存在する。またウェブ上でもウェブログ図書館のような比較的広汎的に分類をしようとするサイトや、また特定のテーマについて「まとめ」たり、定期的にプロットしてゆくblogも存在する。
このようなテーマ性が比較的明確に見出せるblogが一定数以上存在し、分類できることは興味深いが、あくまでそれはどちらかというとハブとなるblog達であって、多くのblogはこのような分類が非常にし難いように思える。最後のテーマである余剰生産の考え方ともかかわってくるのだが、基本的に一般的なbloggerは同一テーマでひたすら書き続けるための、専門的な知識や文才、情報源へのアプローチ方法やエントリーを書くための時間を持っていないのが実状ではないかと思える。そのような多くの書き手がblogを利用しきれていない状況において、blogを書いて読んでいく中で比較的分けることが出来そうだと感じたのが、書き手のスタンスとしての情報源(ソース)のありかたである。
テーマ性の有無に限らずblogを見る上で、そのスタンスとしてプライベートな側面とパブリックな側面が存在するように思える。パブリックな側面のエントリにおいては、その情報源は主にマスメディアなどからもたらされるニュースなどのジャーナリズム的な情報、もしくは特定の分野に関する最新の話題の情報となる。また読者として広く一般に向けて、そうでなくともある程度の公共の対象に向けてののエントリーとなっていることが多いように感じる。これはある意味、以前の「テキストサイト」の傾向を受けているものであるだろう。逆にプライベートな側面としては、情報源としてblog主自らの体験が用いられる。この場合読者としてはある程度現実世界の関係性に即している対象を意図していることが多いだろう。これは、「Web日記」の流れ、特に日記的な心情・近況の描写という流れを受けているのではないか。
ただし、このような二つの側面がblog全体に対してもエントリーに対しても排他的に存在しているというわけではない。日記のような形式のblogでも公的なニュースに対しての意思表明をすることはありえるし、逆もそうである。さらにはエントリーにおいても公的なニュースを体験したという事もありえるだろう。こうした面を考えると、Blogという全体を見た時には、分類というよりも公的要素と私的要素の割合の問題なのかもしれない。しかしこのようなプライベートとパブリックという概念を適応することでブログ界で起こる事象について普通に見た以上の示唆が与えられることは多い。
例えばblogにおける無名(一般的には匿名だが、blog上では匿名は2chで言う固定ハンドルのような使われ方をされるのでこちらにしておいた)と実名の問題はよく話題に出てくるが、これに関してもこの二つの概念を当てはめることができるのではないか。プライベート的なblogというのは内的には実名、外的には無名であるのが一番よいだろう。Webという外的な他人が存在する空間においては現実の姿を晒すのは危険が付きまとう。しかし、全くの現実の痕跡が無ければそもそもWebという空間上に文章を書く意味がそがれてしまう。ペルソナというわけではないが、見知った仲の人間においては実名であるのがこのようなblogの条件である。これは更に発展するとアクセスコントロールなどの話になるように思える。アクセスコントロールとはさらに外的な要因からblogを隠蔽するのではなく遮断するという発想である。私としてはblogにおいてはプライベートとパブリックが混在するという考え方なのでアクセスコントロールについてはあまり良いとは思っていないが、そのような需要があるのは確かである。
逆にパブリック的なblogにおいては、外的には実名、内的には無名であるのがよいのではないか。外的には自らの意見主張が実質性をもつ声となる為の実名性が必要である(これは文字通りの実名というより、アイデンティティを持った名称といったほうが良いかもしれない)、しかしそれが現実に対する干渉性を持つのは、(個人的にではあるが)あまり良くないように思える。
結局、無名と実名の考え方はインターネット空間というバーチャルの部分と現実世界との関わりあいの問題であるが、それに対してプライベートとバブリックというスタンスが関連したものであることは確かである。
エントリーの成長と繋がり~トラックバック
blogの特徴の一つとしてトラックバックが挙げられる。トラックバックはなんとも説明しがたい機能であるのだが、相手のblogに自分のblogに対するリンクとエントリーの抜粋を残すというのが簡単な説明であろうか。トラックバックについてはトラックバックスパムやトラックバックの他者依存などの問題はあるが、ここではトラックバックとそのイメージからつくり出されるコミュニティとは違ったネットワークについて述べたい。
Blogがただの意見表明のためのツールであるのならば、普通のホームページでもHTMLの知識さえあればあまり変わりは無いだろう。またblogにはコメントの機能もついていることが多いが、これとも違った意味性をトラックバックが作り出しているのではないだろうか。Blogにおいてはエントリーを書いた時点では一つの書き込みだったものが、テーマによってはそれが他のblogに波及してゆくという現象が良くある。これを支えている機能がトラックバックだが、このように波及してゆくテーマのネットワークが掲示板システムによるコミュニティとは違ったものではないかと考えられる。まず意見表明が自身のblogという場によって行われ、その中で言及したblogからリンクで辿ってこれるようにするという機能がその原因だろう。よくWebの掲示板を公園に例えるが、公園においてはその場に対してアクセスする人間の立ち位置はある程度譲歩しなければならない、これこそ公共性である。しかしblogの主張する場はそのような共同の場ではない。blogとは他人の画廊に自分の画廊のチラシを置いておいてそこから自分の画廊に人間を呼び寄せるという例えが出来るかもしれないようなものだ。その点で掲示板のような場に流される衆愚的なものではない、自らの意見主張が出来るネットワークが作れるのかもしれない。しかしながら逆に言うと、自分の画廊であるからして、公園の様に警察官のような存在が居るわけではなく、あくまで自己責任という風潮も生み出してしまっている。このような自分の場という点においては、個人のWebサイトと比較的共通する部分も多い。現に個人のWebサイトはblogよって下火になる現象が起こっているという話もある。もちろんCMSなどを使ったデザイン作成の簡易さもその原因であるだろうが、私としてはそのような安易な簡単さに囚われてblogへと流れるのではなく、blogに特有のものとしてのトラックバックという機能に注目してほしいものである。
トラックバックなどの機能によりblogにはそれ自身に言及しやすいという特徴があることがわかる。この特徴から「メタ・ブログ」と呼ばれる独特のblogが存在している。この種のblogは他のblogの記事内容やblogそれ自身を情報源としている、いわばblog間の媒介をしているといえる存在である。もちろんメタ・ブログ的なエントリーに向く記事はそれなりにblogの根本的な部分に言及していたりする必要があり、また相当数のblogを読んでいなくてはならないという難しさもあるが、純粋な形で意見に対して論じるという点でメタ・ブログ的なblogはblogの特徴が顕著に現れている例ではないだろうか。
Blogを書く事~余剰生産・BlogersGroup
Blogを書いていて分かることが、Blogを書くにはかなりの時間がかかるという事だ。もちろん日記やエッセイ風の体裁を取れば、そこまで時間はかからないが、ある程度のテーマ性をもったblogを書くとなるとその情報を生み出す為に労力と時間が必要となる。多くの人がテーマ性を持つblogを書くという状態にならないのにはこの部分に最も原因があるように思える。このような中で書き続けるためには、blogを書く事に対する自己の意味が必要となってくるのではないだろうか。
blogを書く理由は様々である。ある者は自分の意見を世に主張したいからという理由があるかもしれないし、他には宣伝などの為だったり、仲間との情報交換だったりする。ただ漠然とblogを書いているということもあるだろう。しかし、このような理由は全て確信のない盲目的な信念に依存していることは確かだ。とくに不特定多数の読者を想定したパブリックなblogではなおさらである。アクセス解析などでPV数・IP数などの情報は得られたとしても、それがこのような理由を満たすものであるかどうかは分からない。
このような状況でエントリーを書き続けるというのは大変なものだ。しかし、見えない不特定多数への定期的な情報の送信とそこからの対話的な交流が、新たな情報の創発につながるのではないかとも考えられるのではないか。
コミュニケーションの中で現在では見られにくい状況としてのAnti-Code型コミュニケーションがblogにおいてなされているとも考えられる。トラックバックやRSSなどの規格化がプログラム的な側面で行われている一方で、心理的には相手が全く見えないという日企画的なコミュニケーションが生成されているのだ。その部分においてblog主は自分なりの考え(属性)を元にエントリーを書き出す。当に知識における贈与的な行為が行われていると考えられるのである。贈与とは物質的な余剰生産の提供のように考えられるが、この場合は情報的な知識の余剰生産の提供といえる。インターネット全般に言えることなのかも知れないが、blogにおいては更にこの発話行為が比較的短いスパンで定期的に行われているためこの絶えず贈与的な行為を行うというコミュニケーションの形がよく表れているのではないだろうか。ここでM.バフチンの「対話の原理」がこのような構造について上手く当てはめられるように思える。個人の属性に基づく具体的な発話と、そのような対話によってA→A’、B→B’と変化する創発という図式である。トラックバックについてでも述べたようにblogにおいては自己の場がある程度侵食されずに守られる。その点で自己が崩れないまま創発されるというコミュニケーション部分が上手く現れているのではないだろうか。
ここではコミュニケーションに言及したが、重要なのは情報を発し、受け取ることで自己の中で情報が創発されてゆくことである。スマートモブズと呼ばれるような情報社会における新しい人間のあり方が提示されているが、そのような社会集団においてこのような自己の創発が行われているとすれば面白いことであると思う。Blogは一つの意見主張などの為のフォーマットであって、それ自体が未来永劫続くわけではないだろう。しかし、blogを書くことによって自らの情報的な能力が高まった、BloggersGroupと呼べるような集団が形成されるとすれば、その部分においてだけでもblogの意味性はあるのかもしれない。
参考文献
山下清美他、『ウェブログの心理学』、NTT出版2005
公文俊平、『情報社会学序説』、NTT出版、2004
GEODESIC、『ブログを続ける力』、九天社、2005
ばるぼら、『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』、翔泳社、2005
『ユリイカ4月号~特集*ブログ作法』、青土社、2005