タイトルでPivate性と言っているが、とりあえずバトン(MusicalBaton/VIDEOGAME Baton)に対する考察の続きが主となっている。
バトンに関することは前回のエントリーで大方の説明はしてある。もちろんこの現象は時間的にも空間的にも局所的なものに過ぎないとは思えるが、そこからでも何らかの示唆が得られたので記述したいと思う。
とりあえずバトンについての考察をしているblogをある程度調べてみることにした。といってもこれが半端ではなく、検索ワードでは回答だか考察だかが全く判別できない。幾らかのエントリーにめぐり合えたのでそれを参照しつつ、ここではバトンネットワークとPrivateの概念について考えをめぐらせてみた。
以前から書いているが、私としてはblogには大まかに分けるとPublic側面とPrivate側面が存在しており、両側面のバランスによってそのblogのポジションが決まっていると考えている。
今回のバトンの件だがPrivate側面のネットワークを上手く利用しているように感じている。私自身がPrivate側面が強いもう一つのblogにこのバトンが回ってきたように、このバトンは基本的にPublic側面が強いblogには回ってこない。よく考えると当然のことであり、ネット上で論議しかしていないblogに対してこのようなPrivateな趣味/情報を聞くようなバトンが回ってくる可能性は低い。もちろん普段論議しているようなブログ主に対してPrivate的側面を聞いてみたいという期待感はあるかもしれないが、バトンの特性として他のblogを名指しで指名しなければならないというこのような期待感をかなえるには大きすぎるリスクが存在するからだ。
しかしながら、リスク性を抜きにしたとしても、受け取る側がPrivateであるとしてもこのようなバトンに対してきてもらっては困るというblogも存在するようである。BlogPeople内のテーマに沿ったトラックバックを受け付けるシステムにこのようなものまであるようである。
Anti-Baton(アンチバトン)ピープル ( 06月27日 19時04分 更新)
Music Baton (Musical Baton)、またはこれに類する「バトン系」企画について「うざい!」「迷惑だ!」「回すな!」という皆さん。あなたの「バトンお断り」宣言をこちらにトラックバックしてください。「バトン」そのものに対する様々な意見、考察などについての記事もOKです。
このピープル(呼び名の正式名称が分からないので仮にこう呼ばしてもらうことにする)を作った作者の方のblogには次のようなコメントがなされている。
「バトン」を楽しみたい人とそうじゃない人が
互いに迷惑をかけずに共存できるようになってほしいと、私は考えています。
言い換えるなら、「バトン撲滅!」を声高に主張するわけではないけど、
「嫌バトン権」ぐらいは主張させてほしいと思います。
この主張に関しては、正しい限りである。好き好んでバトンを受け取るわけではなく半ば強制的にバトンが手渡される。その強制感に嫌だと感じることは同意できる。しかしその次のエントリでのまとめバトン改良案(?) ~「ネズミ講」から「いいとも」へ(???)と同時に見ていると、どうも結局のところPrivateの深度によってこのアンチの考え方は生まれているように思える。
Privateとは言い換えるならば自分との密着性の高さである。望まない相手から回されるのは迷惑とは自らと密着性の低いものからの無意味な押し付けの忌避であり、望む相手からのバトンならば大方の人は大丈夫であろう。また、関係ない記事へトラックバック(TBスパム)されるのは迷惑とは自らの密着性の高い(完結した)ブログからの逸脱への忌避であると言える。
1人が5人に回すのはチェーンメールと同じ危険性・迷惑性のもととなると言う意見は同意はできるが、結局のところトラックバックやメールのような自分の意識外の行為・同意のない一方性のながりへ忌避といえるように思える。チェーンは断ち切ればいいのだ。つまり、blogというPrivateとPublicが揺れ動く間の中でのPrivate性をもとめる意識としてこのようなアンチの考え方が生まれるように思える。
ここまでの意見はどちらかと言うとトラックバックを利用した際の意識であるという事をMusical Baton雑感@むだづかいにっき♂というblogのまとめエントリで見つけた。この指摘は概ね的を得ているし、結局「書きたい奴が書け」という意見に収めている点で納得できる。
しかし、このようなトラックバックを介さないつながりを考えることで、バトンについて結局はPrivateのネットワークを露呈するだけにしか思えなくなってくるのだ。しかも生産性は全く無い。
人間の心理としてバトンを見ず知らずのblogに渡すことなどできない、相手そして周囲の反応が怖いからだ。これはトラックバックを打つ時の心理とも重なっているのだが、トラックバックはどちらかと言うとPubllicな議論の為のシステムであると考えれば(現にトラックバックを日記スタイルのblogで使う割合は低い)この行為の自分との関連性を切り離せるため、まだやりやすい。そう考えるとトラックバックを無しにすればPrivateなコミュニティの中でバトンを回すことになるというのは当然のことである。「六次の隔たり」ではないがPrivateなネットワークでも問題なくバトンが回っていく。何か面白いことがあるようには思えないのが実感である。
ただし、面白いとはいえないと言っていても私自身回答していたりするのでその辺りは人それぞれであるとは思うが…。それが義務感からなのか、面白いと思ったからなのか、条件反射であったのかはそれぞれのblogによって違うと思われる。
ネットは目的のものを見つけるところ?@~大ブロ式~のエントリ中にバトン関係の話から発展して無駄なものの必要性についての書かれていたので引用しておこうと思う。
だけどそもそもネットというのは「目的のものが見つかるところ」なのだろうか?
オレにはそこに本質があるようには見えない。オレの考えているネットの面白さとは出会うはずのないものと出会い、語り合うはずのないものが語り合い、関係のないはずのものが関連付くそういうところでありここに最も大きな意義を感じている。そしてここには初めから分かっている目的、などというものはないんじゃないかと思う。
バトン自体が面白いか面白くないかは別として、このような出会いは面白い。私については少なくともバトンについて結構なエントリを書いているわけだし、先ほど引用したblogやその他にもバトンについて言及しているblogはあると思う。その点で、バトンは無駄なものとはいえないぐらいの効用をもたらしたのだと感じる。
最後に私の考えを簡単にまとめて今回のエントリを締めたいと思う。
blogとバトンを考えたとき、私はアンチバトンという意識は持たないにせよ、このバトンのシステム自体がどちらかと言うとPrivate寄りに完結しているシステム・コミュニティ、例えばSNSのようなものに向いているように思えたのだ。そもそもPublic的なblogには回ってこないわけで、その点でもバトンはあまりblogには適していないように思える。
バトンに関することは前回のエントリーで大方の説明はしてある。もちろんこの現象は時間的にも空間的にも局所的なものに過ぎないとは思えるが、そこからでも何らかの示唆が得られたので記述したいと思う。
とりあえずバトンについての考察をしているblogをある程度調べてみることにした。といってもこれが半端ではなく、検索ワードでは回答だか考察だかが全く判別できない。幾らかのエントリーにめぐり合えたのでそれを参照しつつ、ここではバトンネットワークとPrivateの概念について考えをめぐらせてみた。
以前から書いているが、私としてはblogには大まかに分けるとPublic側面とPrivate側面が存在しており、両側面のバランスによってそのblogのポジションが決まっていると考えている。
今回のバトンの件だがPrivate側面のネットワークを上手く利用しているように感じている。私自身がPrivate側面が強いもう一つのblogにこのバトンが回ってきたように、このバトンは基本的にPublic側面が強いblogには回ってこない。よく考えると当然のことであり、ネット上で論議しかしていないblogに対してこのようなPrivateな趣味/情報を聞くようなバトンが回ってくる可能性は低い。もちろん普段論議しているようなブログ主に対してPrivate的側面を聞いてみたいという期待感はあるかもしれないが、バトンの特性として他のblogを名指しで指名しなければならないというこのような期待感をかなえるには大きすぎるリスクが存在するからだ。
しかしながら、リスク性を抜きにしたとしても、受け取る側がPrivateであるとしてもこのようなバトンに対してきてもらっては困るというblogも存在するようである。BlogPeople内のテーマに沿ったトラックバックを受け付けるシステムにこのようなものまであるようである。
Anti-Baton(アンチバトン)ピープル ( 06月27日 19時04分 更新)
Music Baton (Musical Baton)、またはこれに類する「バトン系」企画について「うざい!」「迷惑だ!」「回すな!」という皆さん。あなたの「バトンお断り」宣言をこちらにトラックバックしてください。「バトン」そのものに対する様々な意見、考察などについての記事もOKです。
このピープル(呼び名の正式名称が分からないので仮にこう呼ばしてもらうことにする)を作った作者の方のblogには次のようなコメントがなされている。
「バトン」を楽しみたい人とそうじゃない人が
互いに迷惑をかけずに共存できるようになってほしいと、私は考えています。
言い換えるなら、「バトン撲滅!」を声高に主張するわけではないけど、
「嫌バトン権」ぐらいは主張させてほしいと思います。
この主張に関しては、正しい限りである。好き好んでバトンを受け取るわけではなく半ば強制的にバトンが手渡される。その強制感に嫌だと感じることは同意できる。しかしその次のエントリでのまとめバトン改良案(?) ~「ネズミ講」から「いいとも」へ(???)と同時に見ていると、どうも結局のところPrivateの深度によってこのアンチの考え方は生まれているように思える。
Privateとは言い換えるならば自分との密着性の高さである。望まない相手から回されるのは迷惑とは自らと密着性の低いものからの無意味な押し付けの忌避であり、望む相手からのバトンならば大方の人は大丈夫であろう。また、関係ない記事へトラックバック(TBスパム)されるのは迷惑とは自らの密着性の高い(完結した)ブログからの逸脱への忌避であると言える。
1人が5人に回すのはチェーンメールと同じ危険性・迷惑性のもととなると言う意見は同意はできるが、結局のところトラックバックやメールのような自分の意識外の行為・同意のない一方性のながりへ忌避といえるように思える。チェーンは断ち切ればいいのだ。つまり、blogというPrivateとPublicが揺れ動く間の中でのPrivate性をもとめる意識としてこのようなアンチの考え方が生まれるように思える。
ここまでの意見はどちらかと言うとトラックバックを利用した際の意識であるという事をMusical Baton雑感@むだづかいにっき♂というblogのまとめエントリで見つけた。この指摘は概ね的を得ているし、結局「書きたい奴が書け」という意見に収めている点で納得できる。
しかし、このようなトラックバックを介さないつながりを考えることで、バトンについて結局はPrivateのネットワークを露呈するだけにしか思えなくなってくるのだ。しかも生産性は全く無い。
人間の心理としてバトンを見ず知らずのblogに渡すことなどできない、相手そして周囲の反応が怖いからだ。これはトラックバックを打つ時の心理とも重なっているのだが、トラックバックはどちらかと言うとPubllicな議論の為のシステムであると考えれば(現にトラックバックを日記スタイルのblogで使う割合は低い)この行為の自分との関連性を切り離せるため、まだやりやすい。そう考えるとトラックバックを無しにすればPrivateなコミュニティの中でバトンを回すことになるというのは当然のことである。「六次の隔たり」ではないがPrivateなネットワークでも問題なくバトンが回っていく。何か面白いことがあるようには思えないのが実感である。
ただし、面白いとはいえないと言っていても私自身回答していたりするのでその辺りは人それぞれであるとは思うが…。それが義務感からなのか、面白いと思ったからなのか、条件反射であったのかはそれぞれのblogによって違うと思われる。
ネットは目的のものを見つけるところ?@~大ブロ式~のエントリ中にバトン関係の話から発展して無駄なものの必要性についての書かれていたので引用しておこうと思う。
だけどそもそもネットというのは「目的のものが見つかるところ」なのだろうか?
オレにはそこに本質があるようには見えない。オレの考えているネットの面白さとは出会うはずのないものと出会い、語り合うはずのないものが語り合い、関係のないはずのものが関連付くそういうところでありここに最も大きな意義を感じている。そしてここには初めから分かっている目的、などというものはないんじゃないかと思う。
バトン自体が面白いか面白くないかは別として、このような出会いは面白い。私については少なくともバトンについて結構なエントリを書いているわけだし、先ほど引用したblogやその他にもバトンについて言及しているblogはあると思う。その点で、バトンは無駄なものとはいえないぐらいの効用をもたらしたのだと感じる。
最後に私の考えを簡単にまとめて今回のエントリを締めたいと思う。
blogとバトンを考えたとき、私はアンチバトンという意識は持たないにせよ、このバトンのシステム自体がどちらかと言うとPrivate寄りに完結しているシステム・コミュニティ、例えばSNSのようなものに向いているように思えたのだ。そもそもPublic的なblogには回ってこないわけで、その点でもバトンはあまりblogには適していないように思える。