log for logs

Blogといったネット上メディアについて
日常の話題に沿って発信します。

バトン/Private性について考える

2005-06-27 23:20:53 | 考察視点
タイトルでPivate性と言っているが、とりあえずバトン(MusicalBaton/VIDEOGAME Baton)に対する考察の続きが主となっている。
バトンに関することは前回のエントリーで大方の説明はしてある。もちろんこの現象は時間的にも空間的にも局所的なものに過ぎないとは思えるが、そこからでも何らかの示唆が得られたので記述したいと思う。
とりあえずバトンについての考察をしているblogをある程度調べてみることにした。といってもこれが半端ではなく、検索ワードでは回答だか考察だかが全く判別できない。幾らかのエントリーにめぐり合えたのでそれを参照しつつ、ここではバトンネットワークとPrivateの概念について考えをめぐらせてみた。
以前から書いているが、私としてはblogには大まかに分けるとPublic側面とPrivate側面が存在しており、両側面のバランスによってそのblogのポジションが決まっていると考えている。
今回のバトンの件だがPrivate側面のネットワークを上手く利用しているように感じている。私自身がPrivate側面が強いもう一つのblogにこのバトンが回ってきたように、このバトンは基本的にPublic側面が強いblogには回ってこない。よく考えると当然のことであり、ネット上で論議しかしていないblogに対してこのようなPrivateな趣味/情報を聞くようなバトンが回ってくる可能性は低い。もちろん普段論議しているようなブログ主に対してPrivate的側面を聞いてみたいという期待感はあるかもしれないが、バトンの特性として他のblogを名指しで指名しなければならないというこのような期待感をかなえるには大きすぎるリスクが存在するからだ。
しかしながら、リスク性を抜きにしたとしても、受け取る側がPrivateであるとしてもこのようなバトンに対してきてもらっては困るというblogも存在するようである。BlogPeople内のテーマに沿ったトラックバックを受け付けるシステムにこのようなものまであるようである。

 Anti-Baton(アンチバトン)ピープル ( 06月27日 19時04分 更新)
Music Baton (Musical Baton)、またはこれに類する「バトン系」企画について「うざい!」「迷惑だ!」「回すな!」という皆さん。あなたの「バトンお断り」宣言をこちらにトラックバックしてください。「バトン」そのものに対する様々な意見、考察などについての記事もOKです。

このピープル(呼び名の正式名称が分からないので仮にこう呼ばしてもらうことにする)を作った作者の方のblogには次のようなコメントがなされている。

「バトン」を楽しみたい人とそうじゃない人が
互いに迷惑をかけずに共存できるようになってほしいと、私は考えています。
言い換えるなら、「バトン撲滅!」を声高に主張するわけではないけど、
「嫌バトン権」ぐらいは主張させてほしいと思います。

この主張に関しては、正しい限りである。好き好んでバトンを受け取るわけではなく半ば強制的にバトンが手渡される。その強制感に嫌だと感じることは同意できる。しかしその次のエントリでのまとめバトン改良案(?) ~「ネズミ講」から「いいとも」へ(???)と同時に見ていると、どうも結局のところPrivateの深度によってこのアンチの考え方は生まれているように思える。
Privateとは言い換えるならば自分との密着性の高さである。望まない相手から回されるのは迷惑とは自らと密着性の低いものからの無意味な押し付けの忌避であり、望む相手からのバトンならば大方の人は大丈夫であろう。また、関係ない記事へトラックバック(TBスパム)されるのは迷惑とは自らの密着性の高い(完結した)ブログからの逸脱への忌避であると言える。
1人が5人に回すのはチェーンメールと同じ危険性・迷惑性のもととなると言う意見は同意はできるが、結局のところトラックバックやメールのような自分の意識外の行為・同意のない一方性のながりへ忌避といえるように思える。チェーンは断ち切ればいいのだ。つまり、blogというPrivateとPublicが揺れ動く間の中でのPrivate性をもとめる意識としてこのようなアンチの考え方が生まれるように思える。

ここまでの意見はどちらかと言うとトラックバックを利用した際の意識であるという事をMusical Baton雑感@むだづかいにっき♂というblogのまとめエントリで見つけた。この指摘は概ね的を得ているし、結局「書きたい奴が書け」という意見に収めている点で納得できる。
しかし、このようなトラックバックを介さないつながりを考えることで、バトンについて結局はPrivateのネットワークを露呈するだけにしか思えなくなってくるのだ。しかも生産性は全く無い。
人間の心理としてバトンを見ず知らずのblogに渡すことなどできない、相手そして周囲の反応が怖いからだ。これはトラックバックを打つ時の心理とも重なっているのだが、トラックバックはどちらかと言うとPubllicな議論の為のシステムであると考えれば(現にトラックバックを日記スタイルのblogで使う割合は低い)この行為の自分との関連性を切り離せるため、まだやりやすい。そう考えるとトラックバックを無しにすればPrivateなコミュニティの中でバトンを回すことになるというのは当然のことである。「六次の隔たり」ではないがPrivateなネットワークでも問題なくバトンが回っていく。何か面白いことがあるようには思えないのが実感である。

ただし、面白いとはいえないと言っていても私自身回答していたりするのでその辺りは人それぞれであるとは思うが…。それが義務感からなのか、面白いと思ったからなのか、条件反射であったのかはそれぞれのblogによって違うと思われる。
ネットは目的のものを見つけるところ?@~大ブロ式~のエントリ中にバトン関係の話から発展して無駄なものの必要性についての書かれていたので引用しておこうと思う。

だけどそもそもネットというのは「目的のものが見つかるところ」なのだろうか?
オレにはそこに本質があるようには見えない。オレの考えているネットの面白さとは出会うはずのないものと出会い、語り合うはずのないものが語り合い、関係のないはずのものが関連付くそういうところでありここに最も大きな意義を感じている。そしてここには初めから分かっている目的、などというものはないんじゃないかと思う。

バトン自体が面白いか面白くないかは別として、このような出会いは面白い。私については少なくともバトンについて結構なエントリを書いているわけだし、先ほど引用したblogやその他にもバトンについて言及しているblogはあると思う。その点で、バトンは無駄なものとはいえないぐらいの効用をもたらしたのだと感じる。

最後に私の考えを簡単にまとめて今回のエントリを締めたいと思う。
blogとバトンを考えたとき、私はアンチバトンという意識は持たないにせよ、このバトンのシステム自体がどちらかと言うとPrivate寄りに完結しているシステム・コミュニティ、例えばSNSのようなものに向いているように思えたのだ。そもそもPublic的なblogには回ってこないわけで、その点でもバトンはあまりblogには適していないように思える。
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情報蓄積論(3)

2005-06-13 23:41:02 | 考察視点
このエントリは続き物(情報蓄積論(1),情報蓄積論(2))である。この同一タイトルに連番をつけていくスタイルはblog上では時々見られるスタイルで、私的には討論会スタイルだと思っている(ちなみによくブログ記事群とよばれるらしい cf.自明でないブログ記事群)。同じテーマで語る最中にコメントやらトラックバックやらのフィードバックを反映してテーマが展開していくことがあるからだ。が、正直実験的にやってしまった感があるのでフィードバックをねらう事もなかったし、書く内容もあまり計画していないのが次回への反省点といえよう。
さて前回でとりあえず書きたいことは書いてしまった感があるのだが、予告どおりRSSについて時間経過のLongTailについて考えてみたい。RSSについてはそれほど語る必要は無いと思うが、簡単に言うとblog等の時系列に分けられた文章のメタデータである。ここで時系列という言葉を使ったが、RSSには通常<de:date>というタグが存在し記録された時間が記述され、さらにはエントリ毎に割り当てられる<item>要素はRSSを直接見れば分かることだが新しいものから並んで幾らかの部分で終わってしまう(参照としてこのblogのRSSでも見ていただきたい)。
こうして考えるとRSSもどちらかというとフローに向いたシステムである。更に言えばRSSリーダーなどでは初期設定でストックされるRSSフィードの期日が1週間などに設定されていることもある。
だがRSSに関して言えば流し読みというスタイルはかわらないものの、過去の記事を閲覧しやすいように私は感じている。もちろん使用しているリーダーがメーラータイプなのにも起因しているように思えるが、メールを開くのと同様にRSSを読み直すことができるのだ。
ただしこの場合タイトルと概要の流し読みである為、見落としがあることも多い。だがLongTailがコネクションによるものだとすると、時間経過のLongTailにおける「古い」ものへのコネクションの増加の一端としてRSSの利用方法はあるかもしれないと思える。
RSSに関して流し読みという表現をしたが、RSSの<description>に対してRSSに全文入れるべきかという論争が周期的にあるらしいが、最近も起こっているらしい。(cf.RSSに全文入れろ派は安易すぎると思う。@highbiscus -北国tv)参照元のblogで読んで面白かったので取り上げてみたが、私としてはRSSはコネクションの為の要素と今回の論の中で感じたので、概要のみでいいと考えられた。むしろ色々つけても使い勝手が良くなるとは思えない。
今回の話は結局使用する人間がどうかという感じもするので(「古い」ものへと視線を向けても、ブログ界として新しい部分を見ているのであればこの行為に面白みは無い)RSSを「古い」ものへのコネクションと考えるのは多少安易である気もするが、とりあえずこの辺りで一端話を切りたいと思う。
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情報蓄積論(2)

2005-06-10 03:05:58 | 考察視点
前回のエントリ 情報蓄積論(1)の続きである。前回のエントリではLongTailの図を時間軸上に当てはめてみた訳だが、今回はもう少しblogに方向を修正したい。
LongTailがなぜblogでよく語られるかといえば、blogという情報媒体がニッチのネットワーク化という観点から現段階では優れたメディアだからである。「情報化の進展」を前提条件としているLongTail理論において、今まで情報技術の敷居を越えられなかった者たちがより簡単にネットワーク上に意見を文章で発表できるblogというシステムは非常に都合がいい。
しかしながら、時間経過のLongTailについて考えると、blogにおいて「古い」もののアクセス効率の向上は全く図られていない。むしろ時系列上にエントリが織り成される為、「古い」エントリは時間と共に陳腐化していってしまう。そのため現在のblogにおいて有利な(アクセス・コメント・トラックバック等の読まれてコミュニケーションが図られやすい)話題は自然と時事性の強い話題となる。ただし現時点ではblogが自身については言及しやすい点からメタブログ・ブログ論的なタームで語るblogは先にあげた枠からは離れて有利であると思われる。
以前にストックとフローという話をあげたことがあったが、blogというシステムが閲覧する側から見ればフローにのみ向いているということは言うまでも無いだろう。とりあえずblogに(正直に)アクセスしたときに画面の大半を埋めるのは一番新しいエントリである。そして他の場所も新しいコメント・トラックバック・エントリというように埋められていく。現在の状態では新しい部分意外は意図的に探さない限りは拾えないので、流しそうめんのように流れてくる話題を掬いながら断片的にこぼしては消化していくという形式になってしまっているといえよう。
元々考えると、情報を蓄積するのはインデックスごとに区分けをしたスタティックなWebサイトの方が優れているようにも思える。しかし、そのようなWebサイトにおいては情報を一方的に発進することしかできなかったし、デザイン等のことも考えなければいけなかった。他には掲示板のシステムなどもあげられるが、これに関してはコミュニティとしてのみ機能し、ストック的な要素を残していないし規格化された形式も持っていない。
なぜblogに対してストック的な部分の要求をしたいかといえば、前にあったシステムとは違う、ネットワークを利用した自主的なコネクションというフロー側面とデータベースを利用したストック側面の混在、そしてその形式が規格化された形で存在するという事である。
ここで時間経過のLongTailについて戻ると、blogにおいてもただ単に(=時間的な関係性以外を含まない)「古い」とされたものへはコネクションが増えていくべきだと私は思う。もちろん「新しい」ものとの正当な対比を求めているだけで、最近広まりつつある懐古を誘っているわけではない(懐古は逆に「古い」もの・自己の歴史に過度の価値性をみてしまうことだと思う)。
熟語に温故知新とかいう言葉があったのを思い出したが、蓄積されたものを正当に判断するという面倒な作業をしていかなければいけないのである。

RSSについて蓄積という観点で思いついたのでさらに次回に伸ばしてみることにする。
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情報蓄積論(1)

2005-06-07 15:36:49 | 考察視点
blogに関して色々なエントリを読んでいると時々遭遇する用語に「LongTail」という言葉がある。
簡単に説明すると少数の有力な「マス」よりも無限に広がる無名な「ニッチ」の集積のほうがネットなどの高度な情報技術においては価値が大きくなるという理論らしい。
詳しくはマスが全てだった時代から、ニッチが普通になる時代へ@デジモノに埋もれる日々ロングテール論について@My Life Between Silicon Valley and Japan等のエントリが参考になると思う(私はこのようなblogを参考にしているともいえる)。
このような論がなされる背景としては、インターネットといったネットワークにおいて「8:2」と呼ばれる有力なものが大方の富なり情報なりを得るという構図が崩れているという分析がある。そしてその原因として先にあげたエントリでは「コネクション維持コストが急激に低下しているため」「ネット事業ではリアル世界とのコスト構造の違いから、その「ニッチの集積」を効率よく追求可能になった」などという説明がなされている。
このエントリのタイトル通り、別にLongTail論を紹介したいわけではないのでこれ以上の詳しい説明はおいておくとして、これらの論は基本的に共時的な視点での考え方だが、この「マス」と「ニッチ」の軸をそのまま「新しい」と「古い」という時間軸に置き換えると面白いことが分かるように思えたのだ。
マスが全てだった時代から、ニッチが普通になる時代へ(後編)@デジモノに埋もれる日々の2番目の図を先ほど述べた時間軸に置き換えて見ると、ネットワーク技術の発展によって全体的な底上げがなされるが、コネクションの限界というものが存在し結局「古い」ものがより大きくなってしまうという現象が考えられる。
具体例を挙げれば、現在の音楽産業を考えれば分かりやすいと思う。CD以降の劣化し難いと考えられている情報媒体によってまず古いものへのコネクションは保持され、現在のインターネットの検索技術によって(Amazonを思い浮かべるといいと思う)「新しい」ものと「古い」もののコネクションの為の判断材料としての差異は軽減される。結果として「新しい」から「古い」へのバランスの移動が起こる…といった感じである。
もちろんマスとニッチの対比が恣意的な力関係のみであるように、この例も恣意的な力関係のみの例であるので、実際の多くの商品においては「新しい」ものの方が性能が良いなどの「新しさの魅力」をアピールすることがまだできているので「古い」ものへの移行はあまり起こっていない。
ここで、これをblogに当てはめる形を取りたいのだがそれは次のエントリで行ってみる事にする。
(「時間が無い+シリーズのエントリをしてみる実験」という理由)
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ブログブームと今後のブログ - Next blog

2005-04-28 04:25:52 | 考察視点
R30::マーケティング社会時評というblogのブログブームの終わりというエントリがハブとなってブログブーム終焉論がいくつかのblogでなされている。
このエントリに関しては私も一部同感である。ちなみに以前のエントリでハイプ曲線を利用して簡単にその感覚を説明しているので、私の考える終焉論についてはblogに関する雑感@log for logsを見ていただけるとありがたい。
しかし、これらの論が単なる終焉論ではなく日本社会の体質のようなものを汲み取ったものであるという事を忘れてはならない。
先ほどあげたブログブームの終わりのソースとしてBlog論2005年バージョン(2)@My Life Between Silicon Valley and Japanがあげられているが、同blogの続き(Blog論2005年バージョン(3)@My Life Between Silicon Valley and Japan)でブログブーム終焉論に対して「「ブログブームのおわり」とは思わない」という段落でそこまで深刻ではないと語っている。
ここにあるのが、両blogにおいて現在における日本人の外部を気にしつつ自らの表現を表面的な部分で収めてしまう事が閉塞感を生み出しているという意識だ。
これはブログブームの終わりのソースとしてBlog論2005年バージョン(2)のエントリにある、
 日本の専門家はおそろしく物知りで、その代わりアウトプットが少ない。
 日本の研究者は、自分の研究領域の周辺でどんな研究がなされているのか恐ろしくよく知っている。
で示されていることだ。
「とりあえず周りが~だから」といった形で始めてしまうのは外国でも同じかもしれないが、日本人はその後少ししてから今度は真剣に考えてしまうか、もしくは飽きてわすれてしまう。「とりあえず」で始められても、周囲を気にせず「とにかく」続けてみることができないのかもしれない。
しかし、blogは書くのが面倒なわりにとりあえず続けないと何も出てこないという厄介なシステムである。しかも何が出てくるかが分からない。自分の思考自体さえ変化してしまうからだ。
そのような中で「とにかく」続けられる人が一定数残るかどうかが鍵のように思える。もちろんその反動期はこれからだ。
blogが流行期から反転していくこの後の状況がどうなるかという点はいまいち検討がつかないが、ブログの「細分化」と「純化」と「復古」@アルカンタラの熱い夏というエントリでの予測はなるほどと納得できた。
俗な例えかもしれないが、「細分化」「純化」「復古」はコンシューマゲーム業界でも一足先に見られた現象なのであながち間違っていないと思う。
ただし、例にあげたゲーム業界でも中途半端になってしまったように、これらの流れは納得できるとは思うがそこから成熟に向かうかどうかは疑問である。
山本一郎氏の『けなす技術』というほんを読んでいて、コミュニティツールの陳腐化の波は4年から5年で一巡する(p92)などと書かれていたのだが、blogという名のコミュニティが過去の産物になることはおおむね確かなのかもしれない。
しかし、歴史は繰り返すとしてもblogの持つ仕様は是非次のツールになったとしてもある程度互換性のあるものであってほしい。
情報のストックの面から考えると、以前のツールはストックされていないのが現状である。フォーラムにしろBBSにしろ過去の産物から教訓ではないが知識を得るということは全くなされていない。
そのような部分でのストックの互換性がこれからのツールには必要なように思える。
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時間差・「今」

2005-04-11 21:38:37 | 考察視点
gooのブログは最近安定していないのか分からないが、しょっちゅうトラフィックのエラーが出てくる。
しかもその場合書き込みや削除などが反映されるのが遅いためか、現在データベース上には無いはずの書き込みが何の不思議も無く出てくる時さえよくある。
これ自身はプロバイダ側の改善を待つほか無いのだが、この様な状態の中で面白い感覚にとらわれてしまう。
つまり、今この画面上に写っている文章と言うものが本当の存在かという疑問、そしてリアルから離れた浮遊感…そのような感覚を覚えてしまうのだ。
たとえ話としては、『blogに関する雑感』のエントリにおいて画像のサイズが大きすぎたために変更したことがあった。gooのブログサーバにアップロードする場合毎回アドレスが変わってしまうので様々な場所を書き換えなければならない。しかし書き換えた情報はしばらく反映されないので結果として書き換える前の情報が変更後の画面に映ってしまう。ここで「今」のブログの変更したはずの状態、更には書き換えた行為でさえも絶対的なものでないように思えてくる。
自らのリアルな感覚と画面上の状態の不連続性。これはblogだけではない、インターネット社会における自己の浮遊感を端的に捉えている。これはメール文化といった部分でも存在する感覚のように思えるのだが、blogにおいてもこのような感覚に見舞われることが興味深い。
新しいメディアとしてblogが語られるとしても、このようなリアルとはどこか違う特性は従来のインターネットとなんら変わることは無い。
blogでは時間と言う連続した流れが、エントリ毎の不連続性とネットワークによる不連続性によって分断され我々はその分断された時間を何らかの軸をもとに再構成しなくてはならない。
前回の『ユリイカ』の中の「遮光された部屋(鈴木一誌)」という文章の中ではblogについて遡及不可能な「今」がテクスト上に貼りついているとし、主題と「今」にズレがないとしているが(p179-180)、
<私>の感覚と主題のに貼りついた「今」とのズレはさらに広く立ちはだかっているように思える。
blogの特徴としてそれが良いものなのか悪いものなのかは分からないが、ズレを認識しつつblogを見る必要はあると思う。
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blogの組織化

2005-04-01 05:45:46 | 考察視点
ブログの自律的な情報組織化が欲しい@ブログ時評で論じられていた「自律的な情報組織化」について考えてみた。団藤氏のblogはいつからかは知らないがよくblogを見ていると出てくるのでRSSリーダーに登録されていたが今回は対応できそうな範囲だったので書いてみることにする。
blogやそれ以前のインターネットにおいて必要としている部分を抽出することは非常に困難であった。googleといった高機能の検索エンジンの出現によって大分その感覚は薄くはなっているが、現在でもこの状況はほとんど変わっていないと言っていいだろう。
ホームページに関して言えば、元々リンクによるつながりを中心として各サイトはつながっている。検索は広範囲な情報群の中から合致しそうなページをピンポイントで抽出するという点でこのようなリンクによるネットワーク自体を抽出することができない。では、リンクについて言うとこれも情報をネットワーク状にはつないでいるが、そこでの閲覧者の視点は自分の閲覧するサイトに存在する視点であって、ネットワーク全体を捉えることはできないのだ。この現象はシステムとしての捉え方でよくあるように思える。「ビルの中からビルの外観は見えない」とは言ったもので、例えば「近代」をシステムとして捉えるときも近代的な視点からその概観を捉えられないのと同様である。話がそれたが、このような弱点に対しネットワーク自身をつかむために、従来のホームページでは専門ポータル、リンク集、WebRing、まとめサイト等のサイト単位でのハブとなるサイトが存在している。このようなサイト自身が閲覧者の要望を満たしてきたかといえばそれは分からないが、少なくともニーズはあると言える。
さて、blogに目を移したときに従来のホームページでのサイトという単位は更にエントリという小さい単位になる。もちろんテーマ設定の下に存在するblogもあるが、基本的にはエントリ毎にそのもつ属性は違うと言える。これはblogのダイナミックな形式の上でしかたのないことだろう。
現在のブログ界の拡大に伴って情報の組織化のニーズは高まっているはずであるが、前掲のエントリにもあるようにこれはままなっていない現実がある。
原因としては、サイト単位からエントリ単位にその組織化の単位が変更されたことで、組織する対象が時間軸で拡大していくという難しさがある。このような毎日の変化を個人の能力では捉え難いということがあるだろう。また組織化の際にblogという形式にあわせるとblogによってまとめると言うのが簡単な方法であるが、まとめる側にも時間軸によるエントリの移動が存在し、個人による補完ではすまなくなる可能性がある。前者の原因には、1つの手立てとして組織する側の分散があるが、後者の解決は難しい。「いい女塾」のまとめをしたエントリを以前紹介したが、そこで見られた現象がまさに後者の原因でブログ主が困惑するというものだ。
結局まとめblogといったものはこの二つの原因を超えられた者がやるということになり、いまいちその波は増えないのではないだろうか。

RSSといった特徴を有効に使うという考え方もあるだろう。ブログの情報組織化は検索エンジンに期待に一票@できる!CSSを使いこなす weBlogではRSSを使った検索エンジンの高性能化が謳われている。これ自体については既にFeedBackといったRSS検索エンジンが組織化の面では微妙であることなどから、現時点での期待はあまりできないが、将来的にはありえることかもしれない。FOAFといった技術の応用などもあるだろう。
しかし、意味内容を解釈する公平な技術というのは成り立ちうるのだろうか。先ほどのblogではコンピューターに意味内容を解釈させたほうが公平でいいと述べられているが、SEOというものがあるくらい、現在の検索エンジンの評価は人為的に操作できるものである。それならば複数の主観的な評価主があったほうがいいように思える。
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名前と存在感

2005-03-29 04:33:55 | 考察視点
前回は書評もどきの文章を書いてしまったが、律儀に『ウェブログの心理学』のサイトからトラックバックをいただいた。しかも過去のエントリから引用までされている。後から読むと、つたない文章で恥ずかしい限りである。

さて、『ウェブログの心理学』の終章でも記述されていたが、blogにおいて「名前」の占める重要性は現実のものとは異なるといえる。「ウェブログにとって必要なのは、継続する名前とそれに伴う存在感である」(p144)という記述があり、仮名(IDといった部分ではより意味が薄くなる)でのblogというように実名のスタンスから一歩引いているが、実際には存在感という部分において「名前」の重要性はそれよりも低い位置で現在のblogは推移しているように思える。
blogにおいて存在感を生み出しているのは、「名前」ではなく継続したweb上の場(サイトのデザインやURL)であり、またはエントリの内容・文章形態・雰囲気であったりするのではないだろうか。
もちろん有名人のブログやメディアブログなどでは「名前」が指標となって存在感となっているという考え方もできるが、単にそれは最初の話題性や信頼性であって、存在感を生み出しているのはやはりエントリなどである。
さらに有名人のブログなどでは、今までに「名前」によって作り出されていた存在感をblogが崩してくれるのではないかという新しい存在感を読み手は求めているようにも思える。
その点で「名前」がblogにとってほとんど重要ではないと言うことがいえる。ただし、だからといってblogが匿名と言う意味ではない。

ここで問題となるのが、書き手にとっての現実と存在感のギャップである。
書き手の立場に立つと、各エントリなどを中心として存在感が決定する。逆に言えば存在感はエントリが書かれるまではよりどころの無い浮遊した状態なのである。私の場合を言うと、存在感をわざと(気分的にともいえるが)エントリ毎に変えている。
逆に読み手の側から言うと、『ウェブログの心理学』のトラックバックを見ても分かるように、平等にそれぞれのblogを扱っている。これは「名前」が薄いため当然のことなのだが、逆に言えば一定の高さの位置に読み手はblogを固定しているともいえる。
この2つの部分、現実とブログ内での書き手の位置、そして書き手と読み手の位置でblogのネットワークはギャップをもっているといえる。たとえば日記というスタンスでのみblogを捉えているとすると、このような立ち位置の違うトラックバックに戸惑ってしまうわけだ。
blogはトラックバックによって分散型のネットワークを作っていくが、フォーマットは一定のもので、blog内でのギャップは常に生じていると言える。
blogとは何なのかという問いは様々なblogでなされている(例として、ブログは日記?コミュニケーションツール? @大須は萌えているか?をあげてみよう) 。しかし、blogがいまいちどのようなツールかがはっきりしてこない。そんな現在の状況にはギャップの問題も考えられるのではないだろうか
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blogと企業

2005-03-07 23:10:35 | 考察視点
「就職の役に立つ」という魔法@踊るWEBデザインという形でblogとビジネスの話題にトラックバックをいただいたのですが、ブログが就職活動などで役立つかどうかという部分はなんともいえませんが、blogと企業と言う形、特に従来型の大企業について言えば両者が相反するものであることが考えられます。
この話題は今後日本においても語られるかもしれませんが、とりあえず例としてアメリカのBLOGによる解雇という話題を挙げておきます。(cf.「社員のBlog」への対処に乗り出す企業
この記事であげられている事例は共に企業にとって都合の悪い部分がblogの中に内包されている事をよく表しています。つまり集団の利益と個人の主張の自由は両立するとは限りません。企業から見れば、バッシングやイメージダウン、内部機密の漏洩につながる恐れが想定できるでしょう。このような個人的な意見の主張を容易にしてしまうメディアを企業が野放しにしていてはまずいという風潮が今後広がる可能性も十分に考えられます。
SNSについてもこれとは違った意味で、企業外のつながりを優先することでの弊害などから制限するといった話も本に載っていました。
一方で特にビジネスに関するblog本などにもあるように企業の宣伝などに利用するという利点も容易に考えつきますが、これはどちらかと言うと経営方針を決めている人間や規模の小さい企業に向いていることであって、従来の企業体系とblogが必ずしも上手く結びつきはしないと感じます。
あとは集団でひとつのblogをつくっていくというグループ内でのblogがあげられます。これに関してはビジネスと言う観点から利用されているようですが、これに関してはグループと言う部分から相互に監視するという機能が生まれてうまくいっているのではないかと思いました。
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ネットワーク技術とビジネス志向

2005-02-28 04:49:22 | 考察視点
どうもおかしな話のように思えるのですが、書店などでblogやSNSの本を探すと世間で言われているところのビジネスとしてのblogやSNSの利用方法といった言及がなされているものが非常に多いように感じます。もちろんMovableTypeといった技術的なソフトウェアやWebサイトの説明・入門書も多くを占めてますが、そのような本に書いてある内容は基本的にweb検索で比較的見つけやすく、インターネットの表層部分(インターネットの個々のページに階層構造はないが、有名/無名の比較のもとで前者にあたる部分ということにしておきたい)にあるものが多いので、あまり参考にはなりません。
参考になる文献自体、まだblog/SNSは世の中に現れて1,2年なので非常に少ないのですが、入門書とは少し違った、啓蒙以外の何かしらの意図を持った本がかならず何かしらビジネス面の見方をしているのです。一つには、ビジネスが新たな分野の開拓であるという捉え方から、その中で新しい事についてを、いち早く捉えようとする需要とのマッチングと考えることも出来ると思います。
例えばSNSに関する書店で見かけた唯一の書籍『よくわかる!ソーシャル・ネットワーキング』ISBN4-7973-2838では、SNSの歴史的側面や現在の各SNSの状況、また理論的なアプローチに関する説明がありますが、その帰結としてはビジネスの上でそのようなシステムをいかに利用すべきかとその例の提示がなされています。またこれはblogについても同様であり、それに応じた結果ビジネスという目的に対するネットワーク技術という考え方が広がっています。
今回、blogを廻っていて『スポンサードブログ』という言葉をRSSマーケティングを極めるというblogで見つけました。基本的に個人目的であったブログに対して文字通り企業がスポンサーとなってblogを書いてもらうという形式のblogです。これに関しても、ビジネスとしてのblogの活用という点で言えばスポンサーがつくことでこれまでとは違った意味合いを持ってくることも考えられますが、結局はそこまでする必要性があるようには思えません。元々blogは分散型に近いものがあり、たまたま発見したところで10000IPでアクセスが上位になっている程度です。これからのblogの発展でより規模が大きくなるとしても人間のblogを見る時間には限界があるのではないでしょうか。そのようなビジネスに向かないものを無理にでもビジネスとみなさなくてはならないのは依然として社会が経済という部分から価値を動かせていない証拠でしかないように思えます。
もちろん、今までに無いリンクに拠る新しいものの創発はビジネスという面においても有用であることは言えると思いますが、その構造が逆転してビジネスのためのシステムという形になったときに、歴史的な社会的な流れの枠と比べあまりに小さい範囲での出来事のように思えてきます。そこにはなにか経済に取り憑かれた、現代の人間のつまらない部分が見えてしまうのではないでしょうか。
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