まず俺にとって音楽とは、
楽しみでもなんでもなく
むしろいわゆるステイトやナショナル的
なものに匹敵するんだということ。
その延長上に音楽の自身の所有があって
象徴性の保護をうけるためには
必需なものだということだろうな。
だがそこでフェイルした。つらい思い出ばかり。
不活性な俺にとって”kyzyl to samarkand”
とは完全なる再帰的な”ワールドミュージック”だ。
オオカタの人は”kyzyl to samarkand”を
newageやambient、pagan,wiccan,の文脈で聞いて
素晴らしいアルバムだというんだろうが、
俺にとって”ワールドミュージック”とは
特異点への漸近をあらわしている。
だからそれぞれの耳による創発がおきてしかるべきなんだ。
それを”ワールドミュージック”とよんで壮大な
シルクロードを旅してごらんなさい。
別にサマルカンドじゃなくてもいいんだ、
カシュガルやラダック、フェルガナやメルブ、
ビロビジャン、ウルムキ、コリマ
どこで死ぬのかしら。By‘脱著作権
楽しみでもなんでもなく
むしろいわゆるステイトやナショナル的
なものに匹敵するんだということ。
その延長上に音楽の自身の所有があって
象徴性の保護をうけるためには
必需なものだということだろうな。
だがそこでフェイルした。つらい思い出ばかり。
不活性な俺にとって”kyzyl to samarkand”
とは完全なる再帰的な”ワールドミュージック”だ。
オオカタの人は”kyzyl to samarkand”を
newageやambient、pagan,wiccan,の文脈で聞いて
素晴らしいアルバムだというんだろうが、
俺にとって”ワールドミュージック”とは
特異点への漸近をあらわしている。
だからそれぞれの耳による創発がおきてしかるべきなんだ。
それを”ワールドミュージック”とよんで壮大な
シルクロードを旅してごらんなさい。
別にサマルカンドじゃなくてもいいんだ、
カシュガルやラダック、フェルガナやメルブ、
ビロビジャン、ウルムキ、コリマ
どこで死ぬのかしら。By‘脱著作権