unknowned domain

デジタル&ニュー・ドメインに突入したオレの状況

http://www.clubotaku.org/mimi/uk/album44.php

2005-11-23 19:27:56 | Weblog
潜在性には、二つの種類がある。やがて顕在化するものと決して顕在化せず現勢的なものでと異なるものである。
散逸的な構造は後者である。
luc ferari,jon hassell、harry partch、taku sugimotoは音色の系が散逸的な構造であり
後者の意味での潜在性を持っている事を僕に教えてくれる。
音色の系とは、stockhausenやwerbernのような人が音高、持続、強度などのパラメータは実はひとつの違う諸相なのであり
楽音とノイズを区別するということは意味がないということを示したことに由来している。
主音を頂点とするヒエラルキーをもった西洋音楽にカウンターを加えたのである。
そしてヒエラルキーを排除する非西洋圏の音楽は、僕にとってポスト構造主義(deleuzu)や、複雑系の科学(prigozine)
量子力学、modernart(dechamp)、デジタルテクノロジーと同じく重要な関心事になっている。
おそらくレヴィー=ストロース的な骨董品趣味的な感覚も残していると思うし(僕のネットラジオ
http://www.live365.com/stations/usyuganaや他の少々のfavorite station
http://www.live365.com/profiles/usyugana?site=live365をみればあきらか)、
cageのような人から「君はいまだにobjectにとらわれているね」といわれるかもしれないが、もう少し深いところでprocessをとらえているつもりだ。
作者性の問題(脱構築)にとわれながらも音楽にたずさわっているが、自分は大きなシステムの参加者なのだと
とらえている。サイバネティックな系といってもいいのかもしれない。ヒエラルキーを排除した系への参加であり、
morton feldmanがいうように、この系には野生のcreatureがいて、何百年も西洋の檻に囚われて生き生きとしていない生き物はいないのだ。
しかし、音楽というメディアにたいする取り組み方について僕ははじめからなげやりでもあった。
それは言葉の仕組み同様、現実界とよばれる領界と真の現前性の関係において結ばれることは不可能だとわかっているからだ。
廃棄、無化、消滅、不在化、否定性があるだけだ。
<もの>はつねに逃げさるのであり、そこに到達することはできない。
僕ははじめから去勢されていたのであり、そのことは僕の作品とよんでいるものを聞けばあきらかだ。