unknowned domain

デジタル&ニュー・ドメインに突入したオレの状況

エクリ

2005-06-03 02:42:24 | 表明
デュシャンは音楽家ではないが四次元の枠組みを三次元に複雑に投影してきた。
以下は新しい表現方法でそれを提示しなおそうという試みである
1.微分的で潜在的なものをあらわすのに非可逆的な系の三次元への射影を
考慮するとき虚数はいいメタファーである。
潜在性というのは当然この場合時間の経過とともに顕在化するという意味では
ないので、メタフィジカルな存在を表すのに虚数を使いたい。
インドやアラブ、ケルトなどの音楽ではコード進行や支配音の弱体化により、
継時的な系から音色の系への記述の書き換えを行うのであった。
これらの音楽は、”あいまいであること”に積極的でさえある。
例えば、微分音の使用は音高を充分に意識しているというより、
そのゆれやむらを重要視しているようにみえるし、
音価も小節にとらわれないような構造をしている。
それらは、あいまいであることでジャンル名(シュトックハウゼンが音色の
中間電子音と楽音の接触としてのコンタクテから発展して、テレムジクに
たどり着いたように(シュトックハウゼンは初期に決定論的ではあったが))
でいう自分自身を保とうとしていない。
ここに数多のメタフィジカルなジャンルの音楽が同時に存在するのを許している。
音色とはノイズを含め階層化が難しい。音色の系とは深淵がなく散逸的で、
量子力学の不確定性原理のように、
各々の瞬間に多数の可能性の間で逡巡しているような系である。
多数の可能性というのがメタフィジカルな虚数であらわされるような存在を示唆している。
そして潜在性というのはマクルーハンの(図)と(地)でいう(地)をあらわしている。
2.作りて(著者)が作ることを放棄した系では、
作品と呼ぶものはよりおおきなサイバネティックな回路に委託される。
キネティックアートはもちろん、ウェーベルンもそのようだ。
ウェーベルンの作品は、ひとつの核にもとずいて
シンメトリカルに細部にわたって構成され著者以外の要素が入る余地がないようにみえる。
だがそうではない、(当然十二音音階というものを前提として)
比率というアナログでないものをすべての要素を決定するのに
使用しているからだと思われる。
ウェーベルンが委託した作品は、サイバネティックな回路のなか
目的的な要素を失い、客体化不能の系に陥る。
きずけば音色の系の只中である。フェルドマンはこのことに従事していた。
物象的世界の包括的存在性から逸脱するには、たえずゆらいでいる必要があり
そのために時間は無限でなければならなかった。
そのたよりなさはみずからの存在のたよりなさである。
(調性を排除され、減衰する様子は沈黙との一致である)
3.現在、環境である何かは、次の段階ではシステムの一部ありうるし、
システムである何かは、サブシステムの環境でありうる。
境界、インターフェイスは透過的で可変的である。境界は拡張されうる。
つまり、現時点で外部観測者である自分は次の時点で内部観測者
になりうるということである。内部観測者である”私”が”音”を聴くということは、
振動の場に対するなんらかの意味での関与(観測)を行っていると
捉えることができる。量子論の記述体系に類似した観点(主観的収束)である。
つまり作り手は著者としてでなく関与者としてシステムと共存することになる。
知覚量(ここでは音、音色)は確率的創発の産物であり、期待値である。
リュックフェラーリのように、
関与者としてシステムと共存しながら音色の系への記述をおこなっていくのだ。
1.2.ではいずれも脱構築があり、いずれも潜在性、(地)、
サイバネティックスのように閉じた系から開かれた系へ、
3.では構築ではない関与のありかたがあることをしめした。
go!