unknowned domain

デジタル&ニュー・ドメインに突入したオレの状況

overdosekunst

2006-03-31 03:36:42 | 表明
僕のやろうとしていることはdeleuzeの諸機械の概念に近い。
従来のアートと異なるものや機能しないものをコンテキスト
においてやる。
なんでもありというポストモダンの多様性こそが定義だというような。
通算で4つの形(mimi,darkwinter,doppell,postmoderncore)をとった。
まるでロックのアルバムとかわらずに。
現代アートに退行するような。
でもそこにはあきらかに戦略がある。ニュードメインの近道だと信じている。
アートは新感覚を刺激すると書いた文を読んだことがあるが、
僕にとっての新感覚とは四次元的なサイバネティックスを知覚することだとおもう。
denail of hieralchy
retrogarde
僕はirwinにラカンとベルクソンのシーニェの融合を頼んでみた。
((ぇくれくと))
walkaboutsのクリスにoverdosekunstの
ishould wanna alan lomax in new domainを聞かせたら
気に入ってくれた。
もしかしたらコラボレートできるかもしれない。
http://www.answers.com/main/ntquery;jsessionid=xa9g6o4t0ju7?method=4&dsid=2222&dekey=Ryuta.k&curtab=2222_1&sbid=lc05b&linktext=Ryuta.k

http://kolsonzlgn.web.fc2.com/

2006-02-27 18:22:31 | 表明
modern以後あらゆるものが認められてしまう状況で、形式や定義が不能になりますます多次元的になる
postmodern世界。そんな中唯一リアルであろうとする、それは諸機械を構成すること。諸機械は形式をもたない。ただ勾配や閾があるだけだ。差異と強度があるだけだ。おれたちが呼ぶpost sampling kinetic nonlinear nonequrbrium forth world muziq これは決して現勢化しない潜態勢の系だった。
そしてもう一つの系はnon-form material machine と呼ぼうと思う。overdose kunstの副題になってるとおもう non-form material machine においてひとつずつの 曲がそれぞれ強度である。あいかわらずの象徴界の出来事です。
usyukuro labelの看板バンド kol sonzlgn 彼等は有機的な組織を持たない。ゴスでデスでシアトル風で
ダークな彼等もnon-form material machineにかわりはない。彼等がいってたけど、mimi labelの主催者
が俺のチューンをほめてくれたと!tribute to gregory batesonは02年の暮れから04年初頭までのmax/msp使用前夜のチューンを集めた作品だが、俺も好きなチューンがある。
02年の暮れの一連のピアノのシーケンスからできた楽曲群だ。みごとなフォースワールドミュージックであるとおもう。99年くらいからモーダルな世界に入った俺の通過点としていいんじゃないかな?
そしてこれからingrovesのA&Rマン、デストリビュートをがんばっていただきたいとおもう。
doppelgengerでも売れたしな!!
http://kolsonzlgn.web.fc2.com/

エクリ

2005-06-03 02:42:24 | 表明
デュシャンは音楽家ではないが四次元の枠組みを三次元に複雑に投影してきた。
以下は新しい表現方法でそれを提示しなおそうという試みである
1.微分的で潜在的なものをあらわすのに非可逆的な系の三次元への射影を
考慮するとき虚数はいいメタファーである。
潜在性というのは当然この場合時間の経過とともに顕在化するという意味では
ないので、メタフィジカルな存在を表すのに虚数を使いたい。
インドやアラブ、ケルトなどの音楽ではコード進行や支配音の弱体化により、
継時的な系から音色の系への記述の書き換えを行うのであった。
これらの音楽は、”あいまいであること”に積極的でさえある。
例えば、微分音の使用は音高を充分に意識しているというより、
そのゆれやむらを重要視しているようにみえるし、
音価も小節にとらわれないような構造をしている。
それらは、あいまいであることでジャンル名(シュトックハウゼンが音色の
中間電子音と楽音の接触としてのコンタクテから発展して、テレムジクに
たどり着いたように(シュトックハウゼンは初期に決定論的ではあったが))
でいう自分自身を保とうとしていない。
ここに数多のメタフィジカルなジャンルの音楽が同時に存在するのを許している。
音色とはノイズを含め階層化が難しい。音色の系とは深淵がなく散逸的で、
量子力学の不確定性原理のように、
各々の瞬間に多数の可能性の間で逡巡しているような系である。
多数の可能性というのがメタフィジカルな虚数であらわされるような存在を示唆している。
そして潜在性というのはマクルーハンの(図)と(地)でいう(地)をあらわしている。
2.作りて(著者)が作ることを放棄した系では、
作品と呼ぶものはよりおおきなサイバネティックな回路に委託される。
キネティックアートはもちろん、ウェーベルンもそのようだ。
ウェーベルンの作品は、ひとつの核にもとずいて
シンメトリカルに細部にわたって構成され著者以外の要素が入る余地がないようにみえる。
だがそうではない、(当然十二音音階というものを前提として)
比率というアナログでないものをすべての要素を決定するのに
使用しているからだと思われる。
ウェーベルンが委託した作品は、サイバネティックな回路のなか
目的的な要素を失い、客体化不能の系に陥る。
きずけば音色の系の只中である。フェルドマンはこのことに従事していた。
物象的世界の包括的存在性から逸脱するには、たえずゆらいでいる必要があり
そのために時間は無限でなければならなかった。
そのたよりなさはみずからの存在のたよりなさである。
(調性を排除され、減衰する様子は沈黙との一致である)
3.現在、環境である何かは、次の段階ではシステムの一部ありうるし、
システムである何かは、サブシステムの環境でありうる。
境界、インターフェイスは透過的で可変的である。境界は拡張されうる。
つまり、現時点で外部観測者である自分は次の時点で内部観測者
になりうるということである。内部観測者である”私”が”音”を聴くということは、
振動の場に対するなんらかの意味での関与(観測)を行っていると
捉えることができる。量子論の記述体系に類似した観点(主観的収束)である。
つまり作り手は著者としてでなく関与者としてシステムと共存することになる。
知覚量(ここでは音、音色)は確率的創発の産物であり、期待値である。
リュックフェラーリのように、
関与者としてシステムと共存しながら音色の系への記述をおこなっていくのだ。
1.2.ではいずれも脱構築があり、いずれも潜在性、(地)、
サイバネティックスのように閉じた系から開かれた系へ、
3.では構築ではない関与のありかたがあることをしめした。
go!

はじめはシアトルサウンドやnwobhm好きのただのメタル好きなガキだった

2005-05-25 03:10:30 | 表明
俺たちは音楽において、8年位前から非西洋的なモーダルなスケールや音の出し方の習得に励んできた。始めのうちそれらが物凄く重要に思えたが、なぜ重要なのかを説明することができなかった。
しかしここ2年デジタルドメインの本を読み機材を使っていく中で準備は整えられたと思う。
デジタルドメインと非西洋的なもの。これらは一見アンビバレントなものにみえる。
デジタルドメインでは、よく言われるようにmidi(五線譜モデルや鍵盤型)モデルからの解放を促した。これはdspプログラムが実用的なレベルで動く事で実現したリアルタイムシンセシスによるものである。リアルタイムシンセシス環境下では、これまで不可能であった音色という要素への介入を可能にした。それは西洋がこれまで楽音とノイズとして区別していたところに、それらはひとつの連続体に属する同等のものだという見地にたったことになる。
非西洋的なモーダルな系においては、ギターをdadgadにし、ドリアンを使い4thや6th、
♭7thを使いながら、コード進行の排除や支配音の弱体化を習得していった。そしてここで僕らが学ばなければならなかった事とは、西洋が設けていたヒエラルキー(階層)や支配から逃れ脱構築を行う系に立つということであろうと思う。
科学者(プリコジン)なら決定的でない系、非平衡系と呼ぶだろう。僕はケージやコルトレーンに習って音色の系と呼んでいる。デジタルドメインで作られる楽曲は、支配を弱められた結果ひとつの中にアラブ、インド、ケルト(もちろんノイズ)などの音楽が毅然一体となったフラクタル的でアメーバのような構造になっている。グラニュラーシンセシスが可能にした音の散逸構造(音色)である。そしてそこにはfourthworld music, modern composition,new music,free improvisなどの区別はない。俺たちのやっているうさんくさい音楽のジャンルはこんな感じだ。
Post sampling kinetic nonhierarchical nonlinear nonequilibrium forth world muziq !
音楽の殻に閉じないコンテキストを重視する充分に社会的な表明だ。フェラーリ!!
なぜならもう音楽を作る事に興味を感じないからだ。

http://www.live365.com/stations/304388