unknowned domain

デジタル&ニュー・ドメインに突入したオレの状況

自分の死について

2008-04-19 06:30:24 | Weblog
あれから1ヶ月がたち、
自分の死については改めてあっけなさを感じている。
少し頭を整理しようとおもい書いている。
このサイトについては真剣に読まない
ことを薦めたい。5年前に書いた記事から
自分で読みなおしたが、意味がわからない部分が多かった。
だが全て削除しようとおもわない。これらは僕の思考がビルドアップ
されていく過程であり、たしかに僕にとっては真実を伝えているから。
このサイトでは音楽の話題が非常におおいようにおもう。
僕にとって音楽はものごころついてからというもの
一番近しい存在であり、いいメタファーだったからだ。
僕は、現在、過去、いつなんどきも
cdやカセットに収まるおよそ曲とよべるものが
大好きだ。あらゆる音を偏愛しないこと、
それが僕がワールドミュージックという言葉に込める
精神性だ。でも誤解をおそれずに言えば、
それらの音をどうしようもなくちゃちなものだと
思っている。僕のいうワールドミュージックとは
おそろしくニューエージ的でもあるから。
その両義性の間で逡巡するのが僕の役割。
また流行としてのポストモダンがはるか昔に
終わったのに、この言葉を多用したことには
後悔することはない。ボードリヤールは
エピゴーネンよばわりされたりするが、
事実ちゃちなくらいそうなのかもしれないが
彼以上の定義がしっくりくることはあまりない
ところに、いよいよすまわってしまっていないか?
僕の作った作品群はそれなりに評価されて
いるという実感もあるが、にもかかわらず
僕はただ格下げされているという皮肉。
去勢というのが抽象的な意味で一番しっくりくる。
問題を社会が強いてくるという点で、
モダンの時期に表現主義としてやってきた
世代とそれほど変わらないと思っている。
作者の死や音の脱構築もこのサイト
のテーマだが、これは僕のフロンティア
の要求の結果であると思う。
位相的な外をフロンティアとみなして、
ウルトラフラットな現在と格闘していく試み
じゃないだろうか?
だから僕のいうワールドミュージックは、
デジタル環境下における複雑系の科学
を通過しながら、内在の平面をとおりながらも
、潜在性に漸近してこうとしていく。
そして現実には否定という
形をとってあらわれる僕の作品たち。
ああ、またわかりやすく書こうとおもいながら
わいせつになってしまったろうか..........
ryuta.k/overdose kunst
(Not -communist-but-marxist/Nune yaponiska kunst)