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宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

「2cmの差」

2006年08月11日 | Weblog
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「勝利者と敗北者との間に見られる、技能や能力、
知識などの違いは、殆どの場合あまり重要ではありません。
ほんの一歩先んじることが、信じられない位に他方を引
き離します。
プロ野球の選手で云うと、3割の打率を持つ選手は
スター選手であり、2割5分の打率の選手の何倍もの収入を
得ています。
このスター選手が他の選手の何倍も打っているわけでは
ありません。20打席で1本余計にヒットを打っている
だけなのです。
この"一歩先んじる"事はあらゆる分野で驚くような配当を
獲得出来るのです。」
                    
「ほんのちょっとした差が、スポーツにおいても、ビジネスに
おいても、個人の人生においても、大きな報酬をもたらすのは
全くの事実です。
成功は大差をつけなくとも可能なのです。しかし、この一歩の
差をつけられるかどうかは、技能や能力・知識よりも、
精神的な要素が大きいのです。」

(中略)
「簡単に出来る事でOK、それを千日位、約3年も休む事なく
継続すれば、強い心、粘り強い精神力を身につけていく事が可能です。
人に感謝される様な事なら、もっと効果的で、継続も容易でしょう。

同程度の能力を持った二人の選手がいて、片方は3年間無遅刻無欠席、
もう一方は、よく遅刻したり、欠席したりする選手だったとします。
ここぞという勝負の時にどちらの選手が2cmの差をつける可能性が高い
でしょうか?
何となく予想出来る様に、心構えと行動、心と身体はそれ程、密接
不可分な関係にあるのです。」
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先日発行された某メールマガジンに掲載されていた言葉です。

競技結果の最終的局面では技術や能力よりも当人の精神的な
部分が鍵になるという解説ですが、日常での心構えの重要さの
説明の部分は非常に納得出来ました。

また砲丸投げの競技の中の、不利な条件下で優勝した女子選手の
「私は皿洗いとクラブを一日も休んだ事がありません。」
という言葉も掲載されていました。

継続する事にある意義というものを改めて感じました。
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その音節、言葉

2006年08月10日 | Weblog
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「太くて濃い眉、鼻筋のよく通った細面の顔が、
実に男らしい、二十四、五歳の男性が占いを
依頼してきました。
きちんとした背広に長身を包んだその風貌は、
ただの勤め人でもなさそうな、強靭な意気を
漂わせていました。

名前を尋ねると、黙って『近藤勇』と書いたのです。
本名かと尋ねると、ものも言わずに頷きました。

『やむにやまれず傷害事件を起こす恐れがあります
から、注意して下さい。』
一言述べた私にその男性は黙って深く頷き、料金表を
見て、金を置いて去って行きました。

一月もたった頃、この男性がやって来ました。
目は血走っていました。

彼の話によると、兄貴分が自分の美しい妻に横恋慕
していて、自分の留守中に暴行したという事でした。
その上高飛車に妻の前で語る態度を見て、彼は日本刀を
持ち出して斬りつけ、兄貴分の右腕を切り落として
しまったとの事でした。

名前はその人の心理や行動に暗示力を持つのです。
『近藤勇』という名前は、本当に本名なのかはっきり
しませんが、例え本名ではないとしても、常にこの名前で
通していたとすると、この男性の気持ちにはいつも、あの
新撰組の近藤勇の、雄々しい、命を賭けた勇気が脈打って
いたと考えられます。
(中略)
姓名の画数については改めて研究する事にして、名前の持つ
意味を重視して下さい。
毎日の様に自分の名前を書いたり、人から呼ばれたりしている
姓名は、その人の性格や運命にかなり大きな影響を与えるもの
なのです。」
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他の方の名前を読む時、ふりがなが併記されていないと全く
読み方がわからない名前や、正しく読みにくい名前が少し
ずつ増えております様に感じています。
旧約聖書中に登場する預言者などのカタカナ名前を漢字に
当てていたりする場合なども目にし、今後は西洋的、もしくは
折衷的な名前の増加が予想されるかもしれないと感じました。

アメリカでは単に斬新さを狙うという点もあってか、新しい
名前が次々と考案され名づけられておりますが、中には閉口
したくなる様な、親の自己満足から無理やり風変わりな名前を
つけるケースも目にしています。

わたくし自身は姓名判断に関しては全くの無知なのですが、
名前の意味や言葉が与える深いを影響力を感じ取る事、
本当の意味で名前を大切にする事が求められている様に感じます。
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「無学の罪」

2006年08月09日 | Weblog

<仙台南署は8日、道交法違反の疑いで自転車を2人乗り
した宮城県仙台市太白区の高校1年の女子生徒を任意で
事情聴取した。
署員の警告を聞き入れないで乗り続けたのは悪質と判断、
同容疑で仙台家裁に異例の書類送致する。>

自転車は「車両」の一種であり、定められた法に反する場合は
確かに違法行為として書類送検する事は可能ではありますが、
こうした状態にまで至ると、何のための、誰のための法律で
あるか少々疑問的に感じてきた次第です。

実際に事故が起こったケースが存在するとは言え、自転車二人
乗り行為とは比較にもならない危険事などは社会に溢れ
かえっている様に感じられますし、それ以上に市民を守る
ために優先して取り組むべき課題などいくらでもあるのでは、
と感じてしまいました。

わたくしの同級生で、自転車の「三人乗り」行為によって、
現場で注意を受け学校側にも連絡が入った事を思い出しましたが、
北海道という自由的な気風の強い土地柄のためもあってか、担任も
ただ笑い事の様に扱っていた事を思い出しました。

違法行為という事実を子供達に教える事は適切であり、
警告を無視して走行する行為はまずいとは思いますが、
日本のみならずアメリカも、社会が放恣になった反面、社会や
人間関係の間で余裕というものを失いつつある様に感じます。
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「星」を求めた生涯

2006年08月08日 | Weblog
「不幸の中にあっても、王者の生活であった。
この生活の核心は高貴であった。
はした金を求めはせず、星を求める生活であった。」

「正しく高貴に行動する者は誰でも、まさにその故に
不幸に耐え得る事を、僕は証明したいと思う。」

「お前達の子供には徳を教えよ。徳のみが幸福を
もたらす事が出来るのだ。決して金ではない。
自分の経験からこう言うのだ。
逆境の中にあって僕を励ましてくれたもの、それは徳であった。
僕が自殺によって生涯を終わらなかった事は、わが芸術と
並んでこの徳のおかげであった。」

「墓の下にいてもなお、お前達の役に立つ事があるならば、
これに勝る喜びはない。
そうなる事ならば、喜んで急ぎ死に向かおう。
死がわが芸術的才能を繰り広げる機会に恵まれぬうちに
来るような事があれば、例えわが運命がいかに苛酷なもので
あろうとも、死はなお早く来すぎた感があろう。

僕は死の来たるや遅きを願う。もし死が来たとしても、僕は満足する。
死は果てしなき苦悩より僕を救い出してくれるのではないだろうか。
来たれ、汝の欲する時に。僕は敢然と汝を迎えよう。」
(L.V.ベートーベン)

KULTURという会社が提供している、著名な音楽家の生涯と
音楽を豊富な映像と音楽と共に紹介する良質のシリーズの
VHSがあります。
本日は図書館からベートーベンのものをお借りして見ていました。
様々な土地の風景から、バレーダンスの加えられた映像、
ベートーベンの多くの肖像画なども含まれていましたが、
ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮の姿が強烈に印象に
残りました。

「心より発するものは、願わくば再び心に向かわん
ことを。」(ベートーベン)
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変化につぐ変化

2006年08月07日 | Weblog
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ある怒りっぽい男が自身のその性格のせいで
自らを苦しめていると悟り、深い知恵を備えた
スーフィーのもとに助言を請うために赴いた。

スーフィーは男にある十字路に行き、一つの
枯れ木の下で、そこを通る全ての旅人に飲み水を
施す事を命じた。

男は助言に素直に従い、やがて奉仕と自己を制御する
修行をする者として広く知れ渡る事となった。

そんなある日の事、彼が差し出した水差しから即座に
顔を背けて足早に去った旅人がいた。男は以前のその
性格に戻り、大声で旅人に叫んだ。
「俺のこの厚意を受けに戻るのだ!全ての旅人に俺が
奉仕しているこの水を取るのだ!」

返事はなかった。
男は怒り、自身の与えられた修行の事など、完全に忘れて
しまった。
理性をすっかり失った男は、枯れ木にかけてあった銃を
取ると、自身の厚意を無視した旅人に向けて引き金を
引いた。
銃弾は命中し、旅人は死んでしまった。

ところがどうした事か、銃弾がその旅人の肉体を貫いた
瞬間、奇跡が起こったかの如くに枯れ木の花が咲いたの
だった。

実は撃ち殺された旅人は希代の殺人鬼であり、丁度その長い
経歴の中で最も忌まわしき殺人を犯しに行く途上であった。

二種類の助言者が存在している。
固定化した原則に従って機械的に為すべきものを語る者と、
それと全く異なった、叡智に基づいて語る者とである。
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後文には知者に出会う者は、その者を道徳家として扱い、
道徳的な助言を求めようとするが、知者が仕えているのは
真理であって、必ずしも宗教上正しいとされている事柄では
ない、とあります。

中東地域から派生した宗教で、時に教条や原理のみを
絶対とする姿勢が度々見られます。
そうした教条をテロを行う名目と狡猾にすりかえる姿勢は
いかなる理由であれ肯定は出来ませんが、教条や原理が
先行し絶対とされる姿勢からどこか手に負えない印象を受けて
しまいますのは、わたくしだけではないと思います。

表面的に知覚出来ます事象から、信頼する教条や原理のみを
持って判断します事はそれほど難しい事ではありませんが、
実際物事が起こるという事は、教条や原理よりも時に複雑で、
深い事であるのかもしれません。
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吊り下がった石

2006年08月06日 | Weblog
1986年に出版された、ある本のあとがきの抜粋
です…。

「地球がこれからどうなっていくのか、については
悲観的な見解が多い。
少し前にアメリカが作成した『西暦2000年の地球』
という科学者達の報告書を見ても、自然破壊、環境
汚染、エネルギー問題など、様々な問題が挙げられ、
『今何とかしなければ』という事が盛んに言われていた。

また私達の生活を見回しても、このままいくとどうなる
のだろう、と思われる事が一つや二つは見つかると思う。

こうした問題の根底にあるものが何かというと、それは
唯物主義であると思うのだ。
人間は肉体が死んだら終わり、自分という存在は消滅して
しまう、という考え方は、自分さえよければいい、という
エゴイズムにつながるものだろう。
そこには未来の人類のために何をするか、という余裕もなく、
それどころか自分の人生の生き方さえもわからない。
ただ目先だけを見て生きる事になってしまう。
堅い表現をすれば、生きる意味の喪失である。」

唯心論への傾倒もまた何かを見失っていますが、西洋
合理主義思想や人文主義思想の大国であるアメリカ流の
「成功哲学」「人生哲学」が近年日本の各所で取り上げられ、
それらの影響からか、一部で唯物的な見方が非常に強まって
いる様に感じられます。

もしそうした「哲学」が説く姿勢によって人々を幸福にする事が
可能であるならば、アメリカ国民はずっと以前に余すところなく
幸福を享受していると思われるのですが、そうした事実はない
様に感じます。

現在各所で大きく宣伝されているそうした思想・哲学には、どこか
落とし穴が存在する様に思います。
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大森の竹藪

2006年08月05日 | Weblog
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マティラム・ミスラ君と云えば、もう皆さんの
中にも御存じの方が少くないかも知れません。

ミスラ君は永年印度の独立を計っているカルカッタ生れの
愛国者で、同時にまたハッサン・カンという名高い婆羅門の
秘法を学んだ、年の若い魔術の大家なのです。
私はちょうど一月ばかり以前から、ある友人の紹介でミスラ君と
交際していましたが、政治経済の問題などはいろいろ議論した事が
あっても、肝腎の魔術を使う時には、まだ一度も居合せた事が
ありません。

そこで今夜は前以て、魔術を使って見せてくれるように、手紙で
頼んで置いてから、当時ミスラ君の住んでいた寂しい大森の町
はずれまで、人力車を急がせて来たのです。
……
「ただ、欲のある人間には使えません。
ハッサン・カンの魔術を習おうと思ったら、まず欲を捨てる事です。
あなたにはそれが出来ますか。」
「出来るつもりです。」私はこう答えましたが、何となく不安な気も
したので、すぐにまた後から言葉を添えました。
「魔術さえ教えて頂ければ。」

それでもミスラ君は疑わしそうな眼つきを見せましたが、さすがに
この上念を押すのは無躾だとでも思ったのでしょう。
やがて大様に頷きながら、
「では教えて上げましょう。が、いくら造作なく使えると言っても、
習うのには暇もかかりますから、今夜は私の所へ御泊りなさい。」
「どうもいろいろ恐れ入ります。」
……
私はこの刹那に欲が出ました。

テエブルの上に積んである山のような金貨ばかりか、折角私が勝った
金さえ、今度運悪く負けたが最後、皆相手の友人に取られてしまわな
ければなりません。
のみならずこの勝負に勝ちさえすれば、私は向うの全財産を一度に
手へ入れることが出来るのです。」
こんな時に使わなければどこに魔術などを教わった、苦心の甲斐
があるのでしょう。
……
私がハッサン・カンの魔術の秘法を習う資格のない人間だという事は、
私自身にもミスラ君にも、明かになってしまったのです。
私は恥しそうに頭を下げたまま、しばらくは口もきけませんでした。」

「私の魔術を使おうと思ったら、まず欲を捨てなければなりません。
あなたはそれだけの修業が出来ていないのです。」

ミスラ君は気の毒そうな眼つきをしながら、縁へ赤く花模様を織り
出したテエブル掛の上に肘をついて、静にこう私をたしなめました。

[全文はこちら
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/95_15247.html]
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芥川龍之介の短編「魔術」が、ボランティアの方々の入力により
ネット上でも読む事が出来ます事に喜びを感じました。
彼の作品は個人で好嫌が明確に分かれる様でありますが、わたくし
自身は非常に好んでいます。

この小説を初めて読んだのは、こちらに来て間もない頃でした。
非常にストレスを感じていた時期で、これは日本からわざわざ
知人が送って下さったものの中に偶然含まれていた作品でしたが、
丁度そうした時期と重なってか、この作品は個人的にも特に
印象に残るものになりました。

この短編を読んで、人間は例え自身が否定していたとしても、
意外と自らの身に関わる欲が深い場合がある様に感じました。
コメント

「法身は微動だにせず」

2006年08月04日 | Weblog
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新参者「悟りなどどうでもよいのです。
私はただ安心が欲しくて参りました。」

老師「今、安心か?」
新参者「はい、少し。」

「では、こうしたらどうだ?」と棒を振り上げて、
老師はまさに打ち据えようとする。
新参者「わぁーー」

老師「一体安心を何処に求めるつもりだ?
安心など欲しがる暇があったら、あなたそのものが
安心であればよかろう。」
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「仮面の溶解」

2006年08月03日 | Weblog
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メルボルンのある所で、生存している事すら誰からも
知られていない一人の御年寄りを尋ねた事があります。
その部屋は酷い状態でした。

きれいにしたいと思いましたが、彼は「ほっといてくれ」
と言い続けました。
私は一言も言いませんでしたが、最後にはその部屋を
きれいにする事を許してくれました。

その部屋に何年も埃にまみれっぱなしのランプがありました。
「なぜランプをつけないのですか?」と尋ねると、
「誰のために。」という返事が返ってきました。
「誰も私の所へは来やしません。自分のためにランプは
いらない。」
私が「もしシスターがあなたに会いに来たら、ランプをつけて
下さいますか。」と頼むと、
「いいとも。人間の声が聞けるのなら、つけてもいい。」
と言ってくれました。

先日彼は私への伝言をくれました。
「私の友達に言ってくれ。あなたが私の生活にともしてくれた
光は、今も燃えている、と。」
(マザーテレサ)
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日本でしばしば奉仕的な態度をして、「マザーテレサの如き」
と形容されている表現を目にした事があります。

こうした彼女の言葉のみを見ていますと、彼女が常に慈愛
溢れる優しい雰囲気を漂わせた女性の様に捉えられがちですが、
実際には彼女がシスターを厳しく叱り飛ばした事も伝えられており、
また晩年は彼女の態度が頑なであると批判されていた事実も
ありました。
また彼女に実際出会った知人によると、彼女は非常に厳格な
雰囲気を漂わせていたとの事でした。

90年代後半辺りから、妙に「癒し」という言葉が登場する様に
なったと記憶しています。
それには人々が実際社会の中で疲弊し、休息や憩いを切望して
いるという現状の反映である様に思いますが、一方その社会の
中の一部において、努力や思考や内外面の鍛練というものが
疎んじられ、避けられている様に感じられます。
以前に度々「頑張ってはいけない。」という言葉も何度か目に
しましたが、それもそうした一部の姿勢の表れである様に
思われました。

まがいものの「癒し」「ゆとり」「優しさ」からは結局建設的な
ものは何も生まれない様に思われました。
マザーほどではないにしても、単に他人に冷酷になるという意味
ではない、真の意味での厳しさが現在社会に求められている様に
感じます。

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「赴粥飯法」

2006年08月02日 | Weblog
プロバイダー変更、DSLへの転換中ですが、
昨日より一日以上接続不可となってしまいました。

精進料理に関心のあるわたくしですが、「たけのこ
ステーキ」なるものを先日初めて知りました。
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生たけのこ 300g
酒 150cc
みりん 50cc
醤油 50cc
小麦粉 適量
サラダ油 大さじ3

1.酒、みりん、醤油を鍋に入れ、一度煮立たせる。
2.生たけのこはあく抜きをして茹で、食べやすい大きさに
切り、小麦粉をつける。
3.フライパンに油をひき、キツネ色になるまで焼く。
4.焼きあがったら油気をふき取り、1.に入れ、強火にかけて
よくからめる。
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こちらでの生たけのこの入手は難しく、缶の水煮を使用して
みましたが、やはり生たけのこには及ばぬ様に感じます。

精進寿司というものもあります様で、それは握り寿司の
具に漬物や焼き油揚げなどを使用するものの様です。
そちらも食してみたく思いました。
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