「華厳経」の経文の 16文字でも
読経したり 聞いたり 書写したり 他人に教える事で
五無間罪が滅するとされ
多くの不可思議な功徳が得られるとされ、
ある人が 華厳経の写経を終えて 手を洗っていた時、
その水の滴が 虫の上に落ちてしまった所、
その虫が 即座に天上に生まれ変わった
また 受持した事で 空を飛ぶ力を得た、
あるいは 華厳経の経巻から 五色の光が放たれているのが
複数の人によって目撃されたなど
多くの奇瑞が伝えられています。
以下 「華厳経」の一部です。
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「爾時(にじ)
諸菩薩(しょぼさつ)
及一切世間主(きゅういっさいせけんしゅ)
作是思惟(さぜしい)
云何是諸仏地(うんかぜしょぶっち)
云何是諸仏境界(うんかぜしょぶつきょうかい)
云何是諸仏加持(うんかぜしょぶつかじ)
云何是諸仏所行(うんかぜしょぶつしょぎょう)
云何是諸仏力(うんかぜしょぶつりき)
云何是諸仏無所畏(うんかぜしょぶつむしょい)
云何是諸仏三昧(うんかぜしょぶつさんまい)
云何是諸仏無能摂取(うんかぜしょぶつむのうしょうしゅ)
云何是諸仏眼(うんかぜしょぶつげん)
云何是諸仏耳(うんかぜしょぶつに)
云何是諸仏鼻(うんかぜしょぶつび)
云何是諸仏舌(うんかぜしょぶつぜつ)
云何是諸仏身(うんかぜしょぶつしん)
云何是諸仏意(うんかぜしょぶつい)
云何是諸仏身光(うんかぜしょぶつしんこう)
云何是諸仏光明(うんかぜしょぶつこうみょう)
云何是諸仏声(うんかぜしょぶつしょう)
云何是諸仏智(うんかぜしょぶっち)
唯願世尊(ゆいがんせそん)
哀愍我等(あいみんがとう)
開示演説(かいじえんぜつ)
又十方世界海(ゆうじっぽうせかいぶつ)
一切諸仏(いっさいしょぶつ)
皆為諸菩薩(かいいしょぼさつ)
説世界海(せつせかいかい)
衆生海(しゅじょうかい)
仏海(ぶっかい)
仏波羅蜜海(ぶつはらみつかい)
仏解脱海(ぶつげだつかい)
仏変化海(ぶつへんげかい)
仏演説海(ぶつえんぜつかい)
仏名号海(ぶつみょうごうかい)
仏寿量海(ぶつじゅりょうかい)
及一切菩薩誓願海(きゅういっさいぼさつせいがんかい)
一切菩薩発趣海(いっさいぼさつほつしゅかい)
一切菩薩助道海(いっさいぼさつじょどうかい)
一切菩薩乗海(いっさいぼさつじょうかい)
一切菩薩行海(いっさいぼさつぎょうかい)
一切菩薩出離海(いっさいぼさつしゅつりかい)
一切菩薩神通海(いっさいぼさつじんつうかい)
一切菩薩波羅蜜海(いっさいぼさつはらみつかい)
一切菩薩地海(いっさいぼさつちかい)
一切菩薩智海(いっさいぼさつちかい)
願仏世尊(がんぶつせそん)
亦為我等(やくいがとう)
如是而説(にょぜにせつ)
爾時(にじ)
諸菩薩(しょぼさつ)
威神力故(いしんりきこ)
於一切供養具雲中(おいいさいくようぐうんちゅう)
自然出音(しぜんしゅつおん)
而説頌言(にせつしょうごん)
無量劫中修行満(むりょうごうちゅうしゅぎょうまん)
菩提樹下成正覚(ぼだいじゅかじょうしょうかく)
為度衆生普現身 (いどしゅじょうふげんしん)
如雲充遍尽未来(にょうんじゅうへんじんみらい)
衆生有疑皆使断 (しゅじょううげかいしだん)
広大信解悉令発 (こうだいしんげしつれいほつ)
無辺際苦普使除 (むへんさいくふしじょ)
諸仏安楽咸令証 (しょぶつあんらくかんれいしょう)
菩薩無数等刹塵 (ぼさつむすうとうせつじん)
倶来此会同瞻仰 (ぐらいしえどうせんぎょう)
願随其意所応受 (がんずいごいじょぎわく)
演説妙法除疑惑 (えんせつみょうほうじょぎわく)
云何了知諸仏地 (うんかりょうちしょぶっち)
云何観察如来境 (うんかかんさつにょらいきょう)
仏所加持無有返 (ぶっしょかじむうへん)
願示此法令清浄 (がんじしほうれいしょうじょう)
云何是仏所行処 (うんかぜぶっしょぎょうしょ)
而以智慧能明入 (ににちえのうみょうにゅう)
仏力清浄広無返(ぶつりきしょうじょうこうむへん)
為諸菩薩応開示 (いしょぼさつおうかいじ)
云何広大諸三昧 (うんかこうだいしょさんまい)
云何浄治無畏法 (うんかじょうちむいほう)
神通力用不可量 (じんつうりきようふかりょう)
願随衆生心楽説(がんずいしゅじょうしんらくせつ)
諸仏法王如世主 (しょぶつほうおうにょせしゅ)
所行自在無能制 (しょぎょうじざいむのうせい)
及余一切広大法 (きゅうよいっさいこうだいほう)
為利益故当開演 (いりやくことうかいえん)
仏眼云何無有量 (ぶつげんうんかむうりょう)
耳鼻舌身亦復然 (みびぜつしんやくぶねん)
意無有量復云何 (いむうりょうぶうんか)
願示能知此方便 (がんじのうちしほうべん)
如諸刹海衆生海 (にょしょせつかいしゅじょうかい)
法界所有安立海 (ほうかいしょうあんりつかい)
及諸仏海亦無辺 (きゅうしょぶっかいやくむへん)
願為仏子咸開暢 (がんいぶっしかんかいちょう)
永出思議衆度海 (えいしゅつしぎしゅどかい)
普入解脱方便海 (ふじゅげだつほうべんかい)
所有一切法門海 (しょういっさいほうもんかい)
此道場中願宣説(しどうじょうちゅうがんせんせつ)。」
「修験聖典」
現在絶版で 入手困難な「修験聖典」が
国会図書館のデジタルライブラリーで 閲覧可能です。
修験聖典
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177304/204
この本の中で
このような方法が掲載されています。
金剛合掌をして
「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)。」を3遍誦す。
次に 「智拳印」を結んで
「慈眼視衆生(じげんししゅじょう)。」を3遍誦す。
次に 「無所不至印(合掌して両手の間を少し開け
左右の人差し指を曲げて 親指の先の上に載せる)」を結んで
「福寿海無量(ふくじゅかいむりょう)。」と3遍誦し
「シッタマエイ。」と誦す。
【長生法】
左右それぞれの手で
親指を内側に入れて握り
手を腰元に安置して誦す。
「ナチマカナチ。」
目いっぱい
手いっぱい
頭いっぱい
になって反乱分子が拡散した
黄色い時間帯の不幸なほどのあいまいな心情を
メランコリアというのだと教わったことがある
靴をはいて はやくはやく
かごいっぱいのキノコ狩りに出かけなくては
天の雲は急ぎ
樹々はざわめきだした
森への一歩はシュルレアリテ
記憶をたどって森のなかのキノコ狩りの道
記憶をよびさましぐんぐん緑の中へ浸透していく
森の奥へ
目いっぱい
手いっぱい
頭いっぱい
どのように解放すればよい
奏でるように祈りのように目を閉じて
手を組んで頭を垂れて
靴をはいて はやくはやく
かごいっぱいのベリーを摘みに出かけなくては
ある雨の日に
森へ入っていく
アンデルセンの少女 グリムの少女 ペローの少女
「むかし、あるところに」入っていった
不可思議な現象と遭遇した少女たち
森という巨大な生命体の中へ入っていく
ある雨の日に
石風社 雨は ランダムに降る 福間明子の詩
不思議の国のアリス翻訳者が澁澤龍彦さんの奥様・・・嗚呼~嘆息
以下こぴぺ 感謝
矢川澄子
Sumiko yagawa in 1950s.jpg
東京大学美学科在学当時の矢川澄子
誕生
1930年7月27日
日本の旗 日本・東京府北豊島郡王子町
(現・東京都北区王子)
死没
2002年5月29日(71歳没)
日本の旗 日本・長野県上水内郡信濃町
職業
小説家・詩人・翻訳家
ジャンル 小説 詩 随筆 翻訳
デビュー作
『架空の庭』(1960年)
配偶者
澁澤龍彦(1959年2月23日 - 1968年3月31日)
矢川 澄子(やがわ すみこ 1930年7月27日 - 2002年5月29日)は日本の作家、詩人、翻訳家。早くから天才少女として注目され、没後は「不滅の少女」と呼ばれた。
教育学者矢川徳光の5人姉妹の次女として東京府北豊島郡王子町大字王子312番地(現・東京都北区王子)に生まれ、生後まもなく、東京府北豊島郡高田町雑司ヶ谷7丁目1117番地(現・東京都豊島区雑司が谷)に転居。園児としてキリスト教系の幼稚園で過ごす[1]。高田第五尋常小学校(現在の目白小学校)1年の時、1938年1月、東京市世田谷区新町に転居。深沢尋常小学校(現・世田谷区立深沢小学校)に転入。1943年、府立第十一高等女学校(現・東京都立桜町高等学校)に入学。1948年、同校を5年で卒業し、旧制の東京女子大学外国語科(後の英文科、当時は3年制)に入学、1951年に卒業。岩波書店の社外校正者を経て、1953年9月、新制学習院大学英文科3年に後期から編入学するも、まもなく独文科に転じ、関泰祐教授に師事。1954年、同人誌「未定」に参加。1955年3月、学習院大学独文学科卒業。同年4月、東京大学文学部美学美術史学科に学士入学したが1958年に中退。この間、1955年4月、岩波書店校正室のアルバイトで知り合った澁澤龍彦と交際を始める。澁澤の初対面の印象を矢川は「なんと鼻の高い色白の美少年が入ってきた」と語っている[2]。矢川の最初の男性となったのも澁澤であった[3]。当時、3年余りにわたって澁澤から送られた手紙を矢川は晩年も大事に保存していたが、公表はされていない[2]。
1959年1月、澁澤龍彦と結婚。鎌倉市小町に住む。当時の心境について後年「ほんとに実家に見切りをつけて、親に背いて一人でふらふらしてるうちに、こんないい家族にめぐり会えたと思って、とっても嬉しかった。澁澤の母も大好きだったし。いまでも、あの苦労を共にした戦友みたいに思えるの」[2]と語っている。結核で正業に就けない澁澤のため、看護婦代わりに献身的に尽くしていた[4]。このころ、澁澤の要求で4度にわたって妊娠中絶を行い、その結果、子供を産めない体となった[5]。みずからも妻に繰り返し妊娠中絶させていた埴谷雄高は自己批判をこめて「武田(泰淳)も澁澤も、本当に女房に対してはだめな男。僕の世代は本当にだめですよ。男性横暴で威張っている」「僕の女房も、百合子さんも矢川さんも本当にかわいそうだと思う」[6]と発言している。松山俊太郎は、矢川が「子供を産みたいと思ったことはなかった」と言ってみたり「産みたかった」と言ってみたり態度が一貫しなかった点を捉え、矢川のことも批判している[4]。このほか、澁澤は娼婦との妻妾同衾を矢川に要求したことがあると自ら認めている(丸山明宏との対談における澁澤の発言)。
1964年2月には、澁澤の新居の建設用地を澁澤の母とともに探し歩き、北鎌倉の借地を発見・契約している。1966年8月、新居落成に伴って澁澤と共に鎌倉市山ノ内へ転居。同年、矢川の下訳に基づく澁澤訳「O嬢の物語」(ポーリーヌ・レアージュ)が刊行される。この年、グスタフ・ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』を種村季弘との共訳で美術出版社から上梓。
1968年4月、澁澤と協議離婚。離婚の原因については、俳人加藤郁乎と矢川との不倫が関わっていたとも言われている[7]。酒席で澁澤と加藤が矢川に向かって「どっちがいい男か」と選択を迫ることもあった[2]。澁澤の側も浮気をしており、そのことは澁澤の母も知っていたが、矢川が自分から家を出たことに対しては、澁澤の顔をつぶす行為として澁澤の母から許されなかった[2]。澁澤の母はまた、澁澤の文名が上がってからは、貧困時代の澁澤家の思い出に矢川が言及することで澁澤のイメージが傷つくのを大変気にしていた[2]。高橋たか子によると、澁澤は「澄子がいなくなった」と大声で泣いていたという[4]。また矢川は谷川雁と結婚するのだと幸せな顔で、谷川の子供を生むことを楽しみにしていた、という[4]。矢川が出奔するにあたっては、埴谷雄高の唆しがあったらしいと高橋は記している[4]。
しかしその後、澁澤との離婚の意志につき谷川から誤解を受けたことが原因で、谷川との関係が破局を迎えた。谷川について矢川は後年「プラスの部分のスケールも大きいけれども、マイナス面のスケールも桁外れ」[2]と評している。
離婚後は澁澤から、かつて二人で撮影したツーショットをことごとく鋏で真っ二つに切断されて送りつけられるという嫌がらせを受けた[7]。また、離婚時には一切の財産分与を受けられなかった[4]。この点を澁澤は松山俊太郎から問い質され「だって澄子はそれでいいって言ってたんだろ」と言った[4]。矢川は「澁澤のために惜しむのよ」と言いつつ、「少し財産分与をしてくれたら、今まで孝行できなかった老いた二親にも少しは孝行できるから」[4]とも言っていた。
東京都世田谷区赤堤に転居した後も澁澤と過ごした「鎌倉に戻りたい」と考え、当時東京都立大学に勤務していた種村季弘の研究室を毎日のように訪れて相談したが[8] 、結局その願いは叶わなかった。38歳にして自活を余儀なくされるようになったため、旧友の堀内路子の紹介で福音館書店の松居直と会い、ヤーノシュ『おばけリンゴ』を翻訳。1969年に同書を福音館書店から刊行し、文筆生活に入る。以後、英仏独の翻訳家としても活躍。
1980年、谷川の招きで信州黒姫山(長野県上水内郡信濃町)に移住。矢川は谷川を「神様」と呼ぶほどに崇拝していた[9]。1987年、死去直前の澁澤を病院に見舞った際「もう一度だけ、おにいちゃんとよばせてね」と澁澤にささやいた[10]。このころは澁澤の母と和解し、澁澤の通夜にも出席した。
1989年から日本ファンタジーノベル大賞の選考委員を務める。1997年の鼎談では、池田香代子から「矢川さんはいまだに澁澤さんに惚れてる」と言われて「そう」と肯定し、「一度も澁澤を嫌いになったことがないんですよ」「結果的にはどうであれ、人生の一時期にしんじつ好きなひとのために生きたということは、めったにない幸せでね。その意味で私、とてもよかったと思ってるの。たのしい思い出だけ残ってるって感じ。いやなことなんて、すぐ忘れちゃうわよ」[2]と発言している。この間、1996年8月、高橋たか子は黒姫の矢川宅に2泊したとき「たか子さん、自死ということを考えない?」と矢川から質問されている[4]。また2001年には、松山俊太郎が矢川から「死にたい」との言葉を聞いている[4]。
2002年5月29日朝、黒姫の自宅で縊死しているのが宅配便の配達人に発見される。扉は施錠されず、原マスミの音楽のカセットテープがリピートしていた。同年刊行の『文藝別冊 澁澤龍彦』の澁澤年譜に、矢川のことが一切抹消されているのを知ったのがきっかけではないかという推測もある。[要出典]死の前日、原マスミや知久寿焼など知人たちに挨拶の電話をしていた[4]。「すべての妹たちへ」と題する遺書が残されていたが、内容は遺族の意向により公表されていない。
姉はチェロ奏者井上頼豊と結婚。甥の井上鑑、義姪のやまがたすみこは共にミュージシャン。妹の小池一子は武蔵野美術大学造形学部教授。
ミュージシャン知久寿焼(元たま)とも交流があったことが知られ、1999年刊行の絵本「だるまさん千字文」では知久が挿絵を担当した。2001年発売のアルバム「しょぼたま」は矢川自宅にて収録されたものである。
|・)…
澁澤氏には
暗い面があったからこそ
他の人ができなかったような
人間の暗い面に真正面から向かう仕事が出来たのかもと思われるけれど、
4回堕胎させたという事で
そういう事もまた 澁澤氏の寿命を縮めてしまったのかも|・)…
また これほど反仏教的な人生だったのに、
死後に 立派な戒名をつけられてしまった、
逆に戒名などない方が
澁澤氏らしかったかも|・)…
|・)…
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【アメリカ】追加の利上げ来月決定か FRB議事録で判明
新興国の株が大暴落するから、
米株も少なからず影響はうけるよ
原油高で円安とか
株の逆流が始まるからな