|妖術師の館|
|・)… (店番中)
( `m´)つ|ガラッ
( `m´) 「…尼僧志願者の娘さん、
本日も火徳である 智慧の御話しは続きます。
宮地神仙道では しばらく福寿の徳の発輝のみが普及されていましたから、
バランスも取れますかと。」
|・)… 抗日鬼神と 宮地神仙道は関係ないけど。
( `m´) 「…んっ?
宮地神仙道は やがて 大物主様が司られる事になると 伺っております。」
|・)=3 変な事 言うない!
( `m´) 「…さて
仏教では 智慧は般若とも呼ばれ、
智慧を増し深長ならしめる事が 小悟や大悟への道ともされておりまして、
つまり奇魂と荒魂(天魂・火魂)を明浄、増長せしめる事は
悟りへの道ともなるわけであります。」
( `m´) 「…臨済禅の公案も 本来は正師によって
弟子の智慧の明浄・増長の度合いを 量るためのものであったと推測されます。」
( `m´) 「…また 薬師如来=月読神とした場合、
火性である阿弥陀如来は 天照大御神で、
その天照大御神の 地魂(水徳)が 観世音菩薩になり、
その観世音菩薩の天魂(火徳)が 太陽の金炎で不浄や業障を焼き滅ぼすカルラとなりまして、
南無阿弥陀仏の念仏は 神道国ではない地域での
天照大御神の御名の奉唱になるのではないかと思われまして…」
( `m´) 「…そのような視点より見ますと、
"福寿海無量" とは 天照大御神の水徳を受持して
自己の幸魂と和魂を増長せしめる
神道と仏教に共通する神言であり、
"智慧海無量" とは 天照大御神の火徳を受持して
自己の奇魂と荒魂を増長せしめる
神道と仏教に共通する神言でありまして、
ここでも 仏教は仙道であるという事になります。」
( `m´) 「…また 神示などにある "みたま磨き"というのは、
ひとえに三魂(四魂)の明浄・増長せしめる事を指すのではないかと。」
( `m´) 「…そうして 仏教では般若の智慧が 人格をもって化身した存在がいるとされ、
それが無我仏母であるとして 伝統的に信仰されております。」
(喜歓金剛と無我仏母)
( `m´) 「…では手印を結び 種字を観想して 眞言を誦します。」
(左手は腹の前に置き 右手は胸の前に置く)
「オン・アー・ウン・ハッタ・ソワカ。」
|・)
(大 物 主)
( `m´) 「…15年前に
八幡書店から 開運五岳符を購入したのであるが、
そろそろ 買い替えた方が 良いのであるか?」
(大 物 主)
|ミ サッ (`m´ ) 「そして びっくり大特典!の大黒天像をGETしないか!!!!!!」
現代の日常生活では、幽玄なるものに出会う
ことは少ないかもしれません。「幽玄」は、
日本人ならではの感情で感じとる美しさの
観念のひとつであり、奥の深い美です。
「幽玄」という表現は、平安時代から用いられ
ていました。藤原俊成(1114~1204『千載集』の
撰者)の和歌は幽玄体といわれています。
それは、自然をありのままに詠いあげるので
はなく、心の屈折を通して詠む和歌です。
同じ平安末期の歌人に、西行(1118~1190
『山家集』)がいます。ともに偉大な歌人ですが、
俊成は宮廷にとどまり、西行は出家し諸国を
行脚と、それぞれ異なる立場にありました。に
もかかわらず、ふたりは、この時代のの苦悩を
詠み、そこに「幽玄」という観念をつくりあげまし
た。それは芸術であると同時に思想でもありました。以下略
「幽玄」という言葉に、どこか退廃的な美しさ
を想像するのは、誤解に近いものがあります。
世阿弥の幽玄は、明るくて健康的な美です。
達人の能を観ると、老人であろうが鬼であろう
が、思いも寄らない感動を覚えます。その感動
は美しさにあるものだとわかります。その姿から
ではなく、内面の美だからこそ起こる感動です。
内側に力を秘め、強さをもちつつ、外側は静か
で、内側の力を外に感じさせないーーこれにより美しさが「花」になるのでしょうか。
優雅で優しいものの奥深くに秘めた力と、そこ
にある健康的で明るい美しさを感じたら、それが
現代の我々にとっても、幽玄に近いものといえるでしょう。
株デスカバートゥエンテーワン 加藤ゑみ子より
幽玄
幽玄(ゆうげん)とは、文芸・絵画・芸能・建築等、諸々の芸術領域における日本文化の基層となる理念の一つ。
本来は仏教や老荘思想など、中国思想の分野で用いられる漢語であったが、平安時代後期から鎌倉時代前期の代表的歌人であり、千載和歌集を撰集した藤原俊成により、和歌を批評する用語として多く用いられて以来、歌論の中心となる用語となった。同じ歌道の理念である有心(うしん)とともに並び用いられることが多いが、本来は別の意味の言葉である。
その後、能楽・禅・連歌・茶道・俳諧など、中世・近世以来の日本の芸術文化に影響を与え続け、今日では一般的用語としても用いられるに至っている。
和歌の幽玄[編集]
古くは、『古今和歌集』の真名序において「興或は幽玄に入る」として用いられている。 『古今和歌集』の撰者の一人である壬生忠岑は、歌論『和歌体十種』の高情体の説明において「詞は凡そ流たりと雖も、義は幽玄に入る、諸歌の上科と為す也」と表現し、高情体を十種の最高位としている。
平安時代後期の歌人藤原基俊は、歌合の判詞において「言凡流をへだてて幽玄に入れり。まことに上科とすべし」「詞は古質の体に擬すと雖も、義は幽玄の境に通うに似たり」と残している。 基俊に師事した藤原俊成は、歌合の判詞の中で、幽玄を「姿既に幽玄の境に入る」「幽玄にこそ聞え侍れ」「幽玄の体なり」「心幽玄」「風体は幽玄」と批評用語として多用した。 また藤原俊成の子で『新古今和歌集』・『百人一首』の撰者である藤原定家は、歌論『毎月抄』の中で和歌を分類した十体の一つとして、幽玄様を挙げている。
もう一つの幽玄を確立したといわれる俊恵の弟子の鴨長明は、その著書『無名抄』の中で、幽玄を「詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし」「心にも理深く詞にも艶極まりぬれば、これらの徳は自ら備はるにこそ」と、問答形式の中で定義している。
室町時代の歌人正徹は、歌論『正徹物語』の中で、「人の多く幽玄なる事よといふを聞けば、ただ余情の体にて、更に幽玄には侍らず。或は物哀体などを幽玄と申す也。余情の体と幽玄体とは遙か別のもの也。皆一に心得たる也。」と記している。
連歌の幽玄[編集]
南北朝時代の連歌の大成者である二条良基はその著書『九州問答』の中で「所詮連歌と云物は、幽玄の境に入ての上の事也。」と述べており、『十問最秘抄』の中では、心の持ち様を意味する用法としての「意地」の説明の中で、「正しくゆがまず幽玄なる事」の普遍的な必要性を説いている。
室町時代中期の天台宗の僧であり、連歌作者として知られる心敬は、その著書『心敬僧都庭訓』の中で「幽玄というものは心にありて詞にいはれぬものなり」と述べている。また歌論『ささめごと』において、一般人が単に「姿の優ばみたること」を幽玄と心得るのに対し、「古人の幽玄体と取りおけるは、心を最用とせしにや」として美意識ともいうべき「心の艶」が条件として伴うものとしている。また連歌においては、感情・面影・余情を旨として「いかにも言ひ残し理なき所に幽玄・哀れはあるべしとなり」と記している。
室町時代後期の連歌師宗祇は、著書『吾妻問答』の中で「長高く幽玄有心なる姿」、『長六文』の中で「幽玄にたけたかく」という表現を用いており、宗祇の連歌における理想を示すものと考えられている
|・)…
線香にも 一応消費期限というものがあるそうで、
製造から15年ぐらいが過ぎると
香りや品質が下がってしまうとかで、
もみの家にある 五岳お守りは
今年で15年目になるやい|・)
|・)…
最近は 特設会場を編集しながら
手が止まらなくなる事がしばしばあるばい。
観世音菩薩=天照大御神の水魂であれば、
本居宣長先生や 清水先生が
観音菩薩が御好きであったり
観音経を読誦されていた事は、
天照大御神の御徳に自然に惹かれ
求められていた事になりそうばい。
異境備忘録では
主に神集岳での 水位先生の御体験や
見聞された事が記されていて、
日界に就いては 未解明部分が多く、
一部に西方浄土のような場所があるのか
仏界における日界の反映として西方浄土があるのか
判らないのだけど、
異境備忘録を読んで
神界と仏界を
神か仏かだけで区別して捉えるのは
逆に危ないかも|・)?
道教などでは
浄土=神仙国ともされているね|・)
我がパソコン・・・様々な機能の中の
極ほんの一部分しか使いこなしては
いない。これと同じ事で、人間の肉体には
未知数のものもかなり包含されていて・・
たとえば第三の眼とか・・・数え上げたら
きりが無い。その可能性に気がついて
どれくらい掘り下げることが出来るかが
生きている醍醐味・・・・X機能
実際眼に見えるのは今つまり今その
今の瞬間・・これこそが生きている生かされ
いる実在的実感・・・過去も未来もなく唯
今
|・)…
明日は 特設会場が2つになって
大物主の更なる正体とか
ミロクの正体についての内容で
書きながら手が止まらなくなったのだけど、
大物主の正体について投稿しようとした瞬間、
急にネット接続できなくなり、
プロバイダーに伺うと、
この地域全体に 急にネットや電話回線のダウンが発生し、復旧まで数時間を要しますとの事だったばい。
幸い 2時間10分程度で復旧して
編集を終え このようにコメントさせて頂けているのだけど
何か
(大 物 主)
( `m´)
が 書いて欲しくない事に就いて
触れてしまったかも|・)
婉曲的に中臣鎌足くらいが丁度・・となると
よくわからなくなるし、知る人は知ってる
闇交流・・・あや浮きに近寄らずくらいが
丁度いいのかもね・・・・冷静に考えるまで
もなく、やはりこの国つまり全世界が皆
オカシイのかもしれないね。冷静に考えなく
ても、そのおかしな世の中になんとか順応し
ようともがき苦しむ事そのものが実は変で
気がいいたらそんな世界に住んでいる自分
とは一体なんなんだろうかと自問自答しても
解答はルパンだったりして、或る程度住み
慣れたかと思ったらあの世行きだし、一塁
ファウストでなくても一体全体この世を取り仕切っているのは何処のドドイツなのか其れが
知りたい・・えっドイツだったの うつかり
してたねぇ。知らなかった世。
ほんのちょっくらネクタイを取り替えに
やって来たみたいな・・・・それにしても
人生ってある意味ハード 本当に心臓に
悪いことも体感させられるし・心臓が16ビート
嗚呼それにしても日は昇り日は今日も
沈みゆく
わからん わからん
二つを融合して三位一体・・・・・
朝と夜の間に昼寝
喜びと悲しみを融合して悲喜交々
なるほど
朝日と夕日は同じものの役割分担
人間万事バンジージャンプ塞翁が馬
以下 こぴぺ 感謝
故事成語で見る中国史
塞翁が馬
(さいおうがうま)
人生は吉凶・禍福が予測できないことのたとえ。
塞翁失馬。人間万事塞翁が馬。(広辞苑)
用例:「こう悪いこと続きじゃ、やる気もなくなるね」
「人間万事、塞翁が馬だ、腐らずにやってみよう」
(出典) 【淮南子・人間訓】より
近塞上之人、有善術者。馬無故亡而入胡。人皆弔之。其父曰、此何遽不為福乎。居數月、其馬將胡駿馬而帰。人皆賀之。其父曰、此何遽不為禍乎。家富良馬。其子好騎、墜而折其髀。人皆弔之。其父曰、此何遽不為福乎。居一年、胡人大入塞。丁壮者引弦而戦。近塞之人、死者十九。此獨以跛之故、父子相保。故福之為禍、禍之為福、化不可極、深不可測也。
(書き下し)
塞上に近きの人、術を善(よ)くする者あり。馬故(ゆえ)無くして亡(に)げて胡に入(い)る。人皆之(これ)を弔(ちょう)す。其の父曰く、此れ何遽(なんぞ)福(さいわ)いと為(な)らざらんやと。居(お)ること數月、其の馬、胡の駿馬を將(ひき)いて帰る。人皆之(これ)を賀す。其の父曰く、此れ何遽(なんぞ)禍(わざわ)いと為(な)らざらんやと。家良馬に富む。其の子騎を好み、堕ちて其の髀(ひ)を折る。人皆之(これ)を弔す。其の父曰く、此れ何遽(なんぞ)福(さいわ)いと為(な)らざらんやと。居(お)ること一年、胡人大いに塞に入る。丁壮(ていそう)なる者は弦を引きて戦う。塞に近きの人、死する者十に九。此れ獨(ひと)り跛(は)の故(ゆえ)を以て、父子相保つ。故に福(さいわ)いの禍(わざわ)いと為(な)り、禍(わざわ)いの福(さいわ)いと為(な)る、化極むべからず、深きこと測るべからざるなり。
(語注)
○塞:(国境近くの)とりで。
○胡:異民族。えびす。
○將:率いる。
○弔:いたむ。哀れむ。
○何遽(なんぞ):どうして。
○賀:喜ぶ。祝う。
○髀:股(もも)。
○丁壮:血気盛んな男子。一人前の男子。
○弦:ゆみづる。
○跛:足が不自由なこと。
(現代語訳)
辺境の砦(とりで)の近くに、占いの術に長(た)けた者がいた。ある時その人の馬が、どうしたことか北方の異民族の地へと逃げ出してしまった。人々が慰めると、その人は「これがどうして福とならないと言えようか」と言った。数ヶ月たった頃、その馬が異民族の地から駿馬を引き連れて帰って来た。人々がお祝いを言うと、その人は「これがどうして禍(わざわい)をもたらさないと言えようか」と言った。やがてその人の家には、良馬が増えた。その人の子供は乗馬を好むようになったが、馬から落ちて股(もも)の骨を折ってしまった。人々がお見舞いを述べると、その人は言った。「これがどうして福をもたらさないと言えよう」一年が過ぎる頃、砦に異民族が攻め寄せて来た。成人している男子は弓を引いて戦い、砦のそばに住んでいた者は、十人のうち九人までが戦死してしまった。その人の息子は足が不自由だったために戦争に駆り出されずにすみ、父とともに生きながらえる事ができた。このように、福は禍となり、禍は福となるという変化は深淵で、見極める事はできないのである。
(解説)
火薬・羅針盤・活版印刷は「人類の三大発明」と呼ばれ、それらの技術の改良が、ルネサンス期以降の西欧文明発展の起爆剤となりました。「三大発明」が実用化され普及したのは西欧でしたが、発明という事に限って言えば、いずれも中国が先んじていました。古代の東アジアでは、漢民族を中心とする中国は、政治・経済・軍事・科学・思想のいずれの面に於いても圧倒的な力を持った超大国でした。
圧倒的な高みから自分たちの周辺を見回した漢民族の目には、周辺の少数民族は、すべて哀れむべき未開民族として映りました。漢民族の心中に「我らこそ世界の真ん中で、最も優れた文化を有しているのだ」という、いわゆる「中華思想」が芽ばえたのも、当然のなりゆきであったと言えるでしょう。
そうした漢民族の優越意識は、彼らが中国の周辺に位置する異民族をどう呼んだかに端的(たんてき)に現れました。すなわち、東西南北の異民族を、それぞれ「東夷(とうい)」「西戎(せいじゅう)」「南蛮(なんばん)」「北狄(ほくてき)」と、蔑(さげす)みを込めて呼んだのです。古代日本の邪馬台国(やまたいこく)とその女王・卑弥呼(ひみこ)は、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』と呼ばれる書物にその記録が見えますが、それが含まれているのは、『三国志』の中の『魏書・東夷伝』です。日本もまた、中国からすれば周辺の未開な「東夷」の一部族だったのです。
しかし実際には、漢族の中国も強大で無敵な時代ばかりではなく、周辺の異民族の圧力に頭を悩まされる事もしばしばありました。元王朝や清王朝などは、いずれも異民族が中国に君臨した時代ですが、それよりはるか昔から、異民族との紛争は絶える事がありませんでした。秦の始皇帝が万里の長城を築いたのも、異民族の侵入を防ぐ為でした。また漢の時代にも異民族との紛争は激しく、歴代皇帝が最も神経をとがらせた問題の一つでした。後宮の宮女でありながら、匈奴の王である単于(ぜんう)の妻にと差し出された女性に、王昭君(おうしょうくん)がいます。また異民族に拉致され、異民族のもとで2人の子供を生みながら、後に哀れに思った曹操(そうそう)の配慮によってまた中国に戻ることになった蔡文姫(さいぶんき)など、異民族との紛争がもたらした悲劇は数限り有りません。
王昭君や蔡文姫のような身分のある人々ですら、異民族との紛争にまきこまれて数奇な人生を送る事を余儀なくされたのですから、国境付近の民衆の生活が、往々にして悲惨だった事は想像に難くありません。住んでいる村が戦場になれば、若者は徴兵され、食料は徴発されます。そして異民族に勝てればまだ救いもありますが、負けてしまおうものなら、村は蹂躙(じゅうりん)され、若い男は皆殺し、女は陵辱されるという地獄絵図にもなりかねませんでした。
そんな危険の絶えない国境近くのある村に、老人が住んでいました。占いの術に長(た)けていたその老人は、人々から「塞(とりで)の近くに住んでいる翁(おきな)」、すなわち「塞翁(さいおう)」と呼ばれていました。ある時、その老人の飼っていた馬が、北方の異民族の地へと逃げて行ってしまいました。馬は貴重な労働力であり、財産です。人々が「お気の毒に」と声を掛けると、その老人は「いやいや、これが福をもたらさないとも限らないさ」と応(こた)えました。数ヶ月たったある日、逃げていった馬が、異民族の地から駿馬を引き連れて帰って来ました。人々が「おめでとうございます」とお祝いを述べたところ、老人は今度は「いやいや、これが災いを引き起こさないとも限らない」と応えました。
やがて家には良馬が増え、老人の息子は乗馬を好むようになりましたが、ある時馬から落ちて、股(もも)の骨を折ってしまいました。人々が「お気の毒に」と慰めると、老人は「いやいや、これが福をもたらさないとも限らないよ」と応えました。それから一年ほどすると、異民族が国境に攻め寄せて来ました。健康な男子は皆、弓を手に取って戦場に赴き、塞(とりで)の近くに住む若者は、十人のうち九人までが戦死してしまうほどの惨状でしたが、老人の息子は足が不自由だったために戦いに駆り出されずに済み、父子ともに無事だったといいます。この逸話から、幸福と不幸とは見定めがたく、複雑に絡(から)み合っていて予測ができない、という事を「塞翁が馬」と言うようになりました。
「塞翁が馬」の逸話は『淮南子(えなんじ)』という書物に見えます。『淮南子』は、漢の劉邦の孫の淮南(わいなん)王・劉安によって編纂された百科全書的な書物です。日本では「人間万事、塞翁が馬」というフレーズでよく用いられますが、これは後の元の時代の僧・煕晦機(きかいき)の詩に見える言葉です。(※1)ちなみに「人間万事」は普通「にんげん ばんじ」と読まれますが、中国語の「人間」という言葉には「にんげん」の意味はなく、「世の中」「世間」を意味し、日本でも漢文では慣習的に「じんかん」と読まれます。
また、「塞翁が馬」と同じ意味で使われることわざに「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄(なわ)の如し」というものがあります。「不幸と幸福とは、より合わせた縄(なわ)と同じように複雑に絡み合っていて、それを解きほぐす事は難しいものだ」という言葉です。こうした同じ意味をもつ言い回しをざっと見てみると、
『老子・第五十八章』
禍(わざわ)いは福(さいわ)いの倚(よ)る所、
福(さいわ)いは禍(わざわ)いの伏する所、
孰(たれ)かその極(きわみ)を知らん。
『カツ(「曷」に「鳥」)冠子・巻下』
禍(わざわ)いは福(さいわ)いの倚(よ)る所、
福(さいわ)いは禍(わざわ)いの伏する所、
禍(わざわ)いと福(さいわ)いとは糾(あざな)える纏(なわ)の如(ごと)し。
『戦国策・燕策』
聖人の事を制する也(や)、
禍(わざわ)いを転じて福(さいわ)いと為(な)し、
敗に因(よ)りて功を為(な)す。
『荀子・大略』
禍(わざわ)いと福(さいわ)いとは隣して、其の門を知ること莫(な)し。
賈誼(かぎ)『フク(「服」に「鳥」)鳥の賦』
禍(わざわ)いは福(さいわ)いの倚(よ)る所、
福(さいわ)いは禍(わざわ)いの伏する所なり。
憂喜門に聚(あつま)り、吉凶域(さかい)を同じくす。
『説苑(ぜいえん)・巻十六』
福(さいわ)いは禍(わざわ)いの門なり。是は非の尊なり。治は乱の先なり。
『十八史略・唐・高祖』より李世民の言葉
民心に順ひて義兵を興し、禍(わざわ)いを転じて福(さいわ)いと為(な)さん。
などなど。細かく探せば、これに類する言葉はほとんど無限に見つかることでしょう。豊作を喜んだかと思えば、凶作・飢饉に見舞われ、名君による治世があったかと思えば、暗君が出現して暴政に見舞われる。古代の生活では、天災・人災ともに、自分たちにはどうする事もできない出来事が、次々と降りかかって来たはずです。類似した表現がかくも多く用いられている事からも、人々がいかに自然や政治に翻弄され続けたかが窺えそうです。
運不運に一喜一憂せず、様々な出来事をあるがままに受け入れるしかないのだ、という鷹揚(おうよう)な発想は、漢民族の意識に深く根ざして行きました。幸福な時にも舞い上がらないし、不幸な時にもしゃかりきにもならなければ、投げやりにもならない。その言葉尻だけを捕らえれば、人生に対して消極的だと思われるかも知れません。しかし、それが厳しい現実を生き抜いた人々によって紡(つむ)がれた言葉である事を考えれば、そこに消極的というのとも異なる、しなやかな強さを感じる事ができそうです。
(※1)煕晦機(元煕禅師)『径山の虚谷和尚に寄す』参
|・)…
昨日は 今日分の特設会場を投稿してから
また 回線ダウンとなり
それから復旧まで30分ほどを要し
それから完全復旧したんだい|・)
明日の特設会場に書く事は決まっていなかったのだけど
先ほど急に浮かび上がってきたばい。
神道を三次元的解釈して
天照大御神こそ正しく
スサノオの神が間違っていると考える人は特に
日月神示が間違っていると主張するね|・)…
|・)…
仏教が魔道で
三次元的神道解釈こそ100%真理であるという姿勢になってしまうと、
逆に「全ての道に普遍的な精髄が包含されている」
という玄学の本質的な立場から遠ざかり、
仏教による補説がないために
曖昧な定義で 何となく納得した雰囲気で終わってしまう点があったりするのかも|・)