いつもながらですが、本日の本家(岡野守也氏の)ブログをご覧いただければと思います。
「持続可能な緑の福祉国家」に向け、あたらしい連携が実現するかもとのこと。
それにしても相変わらずすごい行動力…
四象限(私、私たち、モノ、社会)の統合的実践ということがダテではないと思われます。
本気の方が日本にはまだまだおられること、日本にはまだまだ希望があるなと感じました。
というような「評論」はともかく、ひとの紹介ばっかりで君はどうなの?とわれながら突っ込みたくなるところですが、それはそれ、とにかくこのブログ(「本家」のほう)でいわれていることはスゲエ!と思うのである。
だいたいブログランキング上位のを見ると、言葉は悪いけれども(私にとっては)「どうでもいい」(と思われる)ものばかり。
ちょっと病的に見えるもの、妙に攻撃的でどうかと思うものも数多い。
ネット・ブログという以前には考えられなかったメディアがわれわれには与えられているにもかかわらずこれはじつにつまらない状況であり、このすばらしいネットというグローバル・システムに乗っている膨大な情報の総体は、ありあまる量と反比例して、質的になんと「劣化」しきったものであることか。
情報伝達手段の容易さがコンテンツの安易さに直結してしまっているのではないかと思われるのである。
そういうわけで、私はぜひ私が「これは」と思う情報をお伝えしたいと思うのです。
しかしこれもまた主観なのかもしれない。そう思われた方はぜひ議論しましょう。主観を超えるため、反論がありましたらぜひ。
さて、コスモロジーのことですが、前に書いたようにこれのすごいこととは、ともかくそういう新しい時代の、文化や国籍を問わず私たちが共有することのできる「大きな物語」が、現代科学のひじょうな説得力をもってともに語れる時代になったということです。
「生きていることには意味もクソもない」とかと落ち込み・うつ状態をやっているのはもう古い、ということのようです。
(うつのもっとも根底のところに、「自分と世の中さらには宇宙をどうとらえるか」というコスモロジーの問題があることは、メンタルヘルスの世界でも現状ほとんど意識されていないと思われますが、深く深く言葉に規定されているという人間の心の構造上、それはほとんど(内面的)事実といっても過言ではないのではないかと思います。)
そういう時代であるにもかかわらず、そして情報伝達手段がこれほどまでに手じかに、さらに文字通りワールドワイドになったにもかかわらず、それに乗って伝わっている情報のほとんどがこのようなきわめて「お寒い」状況というのは、一体何なのか?
…というと大変偉そうですね。ついこうなってしまう。
しかしじつはそう言っている私自身、落ち込み癖を克服したとは到底いいがたい状況です。語っている自分のレベルはよくよく自覚しておいた方がいい。
しかしまさに奇遇と言うか、幸いにも「現代の代案は当面これしかないでしょう」という大きな世界の物語=コスモロジーに接することができたので、やはりこれをお伝えしたいと思うのです。
書いていくうえでどうも「偉そう」になりそうですが、そこらへんは笑ってご容赦ください。
しかしこのことで言われているのは、もう「誰が言っている」とかという問題ではないような気がします。
現状、このことをコスモロジーとして目的的・自覚的に語っているのは、見る限り日本では本家ブログ筆者の岡野先生だけだと思いますが(ほかにおられたらぜひ教えていただきたいと思います。ほんとうに)、しかし同時・多発的に、時代の流れのいわば必然として、今後こういう方向性はまちがいなく21世紀の思想の主流になるものと、これは確信をもっていえます。
で、前に書いたように、人間である限り、私たちはもっとも根本的なところにある言葉による世界を見る大枠・コスモロジーなしでいるという自由はないわけです。
そうすると目下私たちがあたかも空気のようにそれとほとんど意識することなく取り囲まれている情報に乗っている、いま、この日本の現行主流のコスモロジーのほうは、いったいどのようなものでしょうか?
ここに大きな問題の根源があると思うのです。
上記のように「代案」を知ったにもかかわらず、まだ片足以上そちらに足を突っ込んで日常に埋没しそう、というたぶんわりと特異な(=中途半端な)立場にいるものとして、手段は与えられたのですから書けることは書こうと思います。
人気ブログランキングへ
「持続可能な緑の福祉国家」に向け、あたらしい連携が実現するかもとのこと。
それにしても相変わらずすごい行動力…
四象限(私、私たち、モノ、社会)の統合的実践ということがダテではないと思われます。
本気の方が日本にはまだまだおられること、日本にはまだまだ希望があるなと感じました。
というような「評論」はともかく、ひとの紹介ばっかりで君はどうなの?とわれながら突っ込みたくなるところですが、それはそれ、とにかくこのブログ(「本家」のほう)でいわれていることはスゲエ!と思うのである。
だいたいブログランキング上位のを見ると、言葉は悪いけれども(私にとっては)「どうでもいい」(と思われる)ものばかり。
ちょっと病的に見えるもの、妙に攻撃的でどうかと思うものも数多い。
ネット・ブログという以前には考えられなかったメディアがわれわれには与えられているにもかかわらずこれはじつにつまらない状況であり、このすばらしいネットというグローバル・システムに乗っている膨大な情報の総体は、ありあまる量と反比例して、質的になんと「劣化」しきったものであることか。
情報伝達手段の容易さがコンテンツの安易さに直結してしまっているのではないかと思われるのである。
そういうわけで、私はぜひ私が「これは」と思う情報をお伝えしたいと思うのです。
しかしこれもまた主観なのかもしれない。そう思われた方はぜひ議論しましょう。主観を超えるため、反論がありましたらぜひ。
さて、コスモロジーのことですが、前に書いたようにこれのすごいこととは、ともかくそういう新しい時代の、文化や国籍を問わず私たちが共有することのできる「大きな物語」が、現代科学のひじょうな説得力をもってともに語れる時代になったということです。
「生きていることには意味もクソもない」とかと落ち込み・うつ状態をやっているのはもう古い、ということのようです。
(うつのもっとも根底のところに、「自分と世の中さらには宇宙をどうとらえるか」というコスモロジーの問題があることは、メンタルヘルスの世界でも現状ほとんど意識されていないと思われますが、深く深く言葉に規定されているという人間の心の構造上、それはほとんど(内面的)事実といっても過言ではないのではないかと思います。)
そういう時代であるにもかかわらず、そして情報伝達手段がこれほどまでに手じかに、さらに文字通りワールドワイドになったにもかかわらず、それに乗って伝わっている情報のほとんどがこのようなきわめて「お寒い」状況というのは、一体何なのか?
…というと大変偉そうですね。ついこうなってしまう。
しかしじつはそう言っている私自身、落ち込み癖を克服したとは到底いいがたい状況です。語っている自分のレベルはよくよく自覚しておいた方がいい。
しかしまさに奇遇と言うか、幸いにも「現代の代案は当面これしかないでしょう」という大きな世界の物語=コスモロジーに接することができたので、やはりこれをお伝えしたいと思うのです。
書いていくうえでどうも「偉そう」になりそうですが、そこらへんは笑ってご容赦ください。
しかしこのことで言われているのは、もう「誰が言っている」とかという問題ではないような気がします。
現状、このことをコスモロジーとして目的的・自覚的に語っているのは、見る限り日本では本家ブログ筆者の岡野先生だけだと思いますが(ほかにおられたらぜひ教えていただきたいと思います。ほんとうに)、しかし同時・多発的に、時代の流れのいわば必然として、今後こういう方向性はまちがいなく21世紀の思想の主流になるものと、これは確信をもっていえます。
で、前に書いたように、人間である限り、私たちはもっとも根本的なところにある言葉による世界を見る大枠・コスモロジーなしでいるという自由はないわけです。
そうすると目下私たちがあたかも空気のようにそれとほとんど意識することなく取り囲まれている情報に乗っている、いま、この日本の現行主流のコスモロジーのほうは、いったいどのようなものでしょうか?
ここに大きな問題の根源があると思うのです。
上記のように「代案」を知ったにもかかわらず、まだ片足以上そちらに足を突っ込んで日常に埋没しそう、というたぶんわりと特異な(=中途半端な)立場にいるものとして、手段は与えられたのですから書けることは書こうと思います。
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私自身その当時は苦しかったのでしょう、自殺方法を知っただけで、なんとか頑張れた(というのも病的ですが…)のを記憶していますが、人間への陵辱ですね、あの文章は。
私も岡野先生のコスモロジーが主流になることをねがっています。そうなってほしいし、そうならなければ「出口なし」だと思います。私が「出口が無かった」ように。
私もなんとか微力ながら、なにができるか?模索中です。
>まだ片足以上そちらに足を突っ込んで日常に埋没しそう、というたぶんわりと特異な(=中途半端な)立場にいるものとして…
だからこそ、意味があると私は思っています。そういうあなたの言葉で書かれたものを少なくとも私は読みたいです。
また、書くことによって、変わっていくことをすでに実感されているとおもいます。
原因は、コメント投稿の際の数字入力が、「半角」のところを「全角」でやっていたことが原因のようです。
お詫びもうしあげます。
「完全自殺マニュアル」、懐かしいですね(笑)。懐かしいと言えば1993年の本ですからたしかにいい加減古臭いというところなのですが、いろんなところで見聞きするようにこの本の影響力はまだ大きい様子。しかも図書館にあったというのはスゴイですね。
あとから読んで笑えたのは、そういっている著者がなによりその方法を選んで率先して死んでいないことですね。
クールに「すべて生きる意味はなくなってしまった」書いていながら「自分がそう書くことに多大な意味感を感じている」という隠しがたい恥ずかしい自己矛盾。
「自殺」をネタ(ほんとうにネタという感じ)にニヒルぶりながら無自覚に「青年の主張」をしてしまっているというその自意識過剰な恥ずかしさは、私自身が著者・鶴見済とほぼ同じような感性の人間だったと思うのでわがことのように感じられたことです。
しかし、実は本文ではどうかと思うので書きませんでいしたが、鶴見氏が偽善くさく書いていた「手軽に死ねる手段が手じかにあることがわかることで生きる苦しさをスルーできる」というメッセージは、まさに書いておられるようにこの本を買った当時私も感じました。
「完全自殺マニュアル」のそのメッセージは、半分は著者のナルシスティックな偽善(人はどれほどニヒルになろうと「偽善」をやりたくなる存在という証明みたいなものですね)であることは疑いえませんが、しかしもう半分はそういう意味で真実をついていたようにも思われるのです。
たしかに生にしがみつかず死ぬという「自己選択」もありだとわかるのはある種「ラク」になるところがあると思います。
しかしそうして「ラク」に生きるとは何を意味するのか。生きているのか死んでいるのかよくわからない、存在の浮遊したようなリアリティのなさ、いつも何かから逃げているような卑屈な人生…それは結局「絶望の出口」でしかありません。
生きることに意味はない、いつでも死ねる自由がある、というのは結局絶望です。それでは私たちは結局生きることに根拠を得ることができません。
おっしゃるように、その意味を科学という強力な根拠をもって物語るコスモロジーは本当の意味でこの閉塞の出口だと思います。ぜひ主流になってほしいと思います。
ほんとうにありがたい言葉をいただきました。実際本質的に変わっていないのです。唯識でいうマナ識というのは普通にそのまま生きていては変わらないのではないかとすら思えます。
にもかかわらず変わらなきゃならないことだけは根拠をもって知ってしまいました。
おたがいがんばりましょう!