最近は本を読むヒマがなくて残念だ。残業続きのなかで、さきに書いた大学講義のブログ上の公開授業に“出席”することが、今のところ貴重な学びの時間となっている。
(興味のある方は、ブログ:岡野守也の公開授業、参照のこと)
現在、仏教の深層心理学ともいうべき“唯識”をテーマにおこなわれているが、千数百年前の古代に、このような現代の深層心理学を包括しさらにはそれを超える洞察・学説があったということは、それ自体が驚くべきことだと思った。
学生時代は心理的にひじょうに元気がなかったので、それをなんとかしたいと思って心理学系の本をいろいろ読んできたが、どうもつかみどころがなく自分の中でまとまりがつかない感じがしていた。
たとえばよく心理学の教科書で見かけるフロイトの自我-無意識とか、いまはやりのユングの言った個人性を超える集合的無意識というのは、何の前知識もないと、まったく別の説で相容れないもののように思えてしまう。
いったいどっちが本当なのか、と言いたくなるというものだ。
両者とも心理学に興味のある人にとってはおなじみの概念だが、その関係がどうなっているのか、明快に述べている本はなかったように思う。
しかし、唯識の“マナ識”(個人的な無意識の領域)と“アーラヤ識”(生命としての無意識の領域)という深層心理の図式が、それぞれフロイトやユングが無意識の領域にだいたい当てはまるものであるらしい。
唯識を軸にそう捉えると、それぞれの学説の違いは、焦点を当てている心のレベルの深浅によるもの、ということになるようだ。
大学時代の一般教養の心理学では、心の無意識の領域の発見はフロイトによるということになっていたので、本当にこんな現代の深層心理学をある意味凌駕するようなことを古代の思想が語っていたのか、そして科学も心理学もない時代になぜそんなものが生まれ得たのか、にわかに信じがたい気がする。
それについては追々述べられていくとのことで、そこがどう説明されるのかひじょうに興味深いところだ。
とりあえずこれまでのところでは、唯識思想の生まれた素地には、意識変容のテクノロジーともいうべき瞑想的実践としての“瑜伽行”があった、というのがポイントらしい。坐禅の元祖のようなものだろうか。
それはそうと、それをどう解釈するにせよ、人間の心のひじょうに深いところには、ユングが体験を通じて理論化し、そして古代に唯識がすでに洞察していた、個人性を超え人類全体につながるような深層心理の領域が、少なくとも内面的なリアリティとして確実に存在するらしい。
それはつまり、そんな驚くべき無意識的な深淵が、このぼくらの心に潜んで現にはたらいているとことで、なんというかすごいの一言だ。
そんなものをぼくらが内に持っているということは、こうやっている日常の意識からすると信じがたいし、ちょっと怖い気もする。
しかしそう考えると、なんだか人間の可能性という意味で希望が持てるような気もした。
そして「しょせん人間の心なんて脳の生み出す幻想みたいなもんだ」というような、ありがちな「唯脳論」が、ずいぶん薄っぺらく見えてしまう。
前期のテーマ・現代科学的のコスモロジーの、壮大なスケールにもびっくりだったが、こんどの唯識の深みのすごさにもすごいものがある。
自分が世界とか心についてすでに知ったように思っていたことが、いかに狭く浅い部分的なものであったか気づかされるという意味で、目からウロコといった感じの授業だ。
ほんとうにこんな授業が大学でやっているのだろうか? どうもこのとおりやっているらしく、それ自体が信じがたい気がする。
しかし、学生たちの反応がとても素直かつストレートで、とても興味深いと思った。そういうものを求めている学生が多いということなのだろうか。
…と、ブログ授業のレポートのつもりで書いたのが、ちょっと脱線してしまった。
学習には入力だけなく、出力も記憶の定着という意味で重要であるという。引き続き書けるときに勉強がてら書こう。一石二鳥ということで。
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(興味のある方は、ブログ:岡野守也の公開授業、参照のこと)
現在、仏教の深層心理学ともいうべき“唯識”をテーマにおこなわれているが、千数百年前の古代に、このような現代の深層心理学を包括しさらにはそれを超える洞察・学説があったということは、それ自体が驚くべきことだと思った。
学生時代は心理的にひじょうに元気がなかったので、それをなんとかしたいと思って心理学系の本をいろいろ読んできたが、どうもつかみどころがなく自分の中でまとまりがつかない感じがしていた。
たとえばよく心理学の教科書で見かけるフロイトの自我-無意識とか、いまはやりのユングの言った個人性を超える集合的無意識というのは、何の前知識もないと、まったく別の説で相容れないもののように思えてしまう。
いったいどっちが本当なのか、と言いたくなるというものだ。
両者とも心理学に興味のある人にとってはおなじみの概念だが、その関係がどうなっているのか、明快に述べている本はなかったように思う。
しかし、唯識の“マナ識”(個人的な無意識の領域)と“アーラヤ識”(生命としての無意識の領域)という深層心理の図式が、それぞれフロイトやユングが無意識の領域にだいたい当てはまるものであるらしい。
唯識を軸にそう捉えると、それぞれの学説の違いは、焦点を当てている心のレベルの深浅によるもの、ということになるようだ。
大学時代の一般教養の心理学では、心の無意識の領域の発見はフロイトによるということになっていたので、本当にこんな現代の深層心理学をある意味凌駕するようなことを古代の思想が語っていたのか、そして科学も心理学もない時代になぜそんなものが生まれ得たのか、にわかに信じがたい気がする。
それについては追々述べられていくとのことで、そこがどう説明されるのかひじょうに興味深いところだ。
とりあえずこれまでのところでは、唯識思想の生まれた素地には、意識変容のテクノロジーともいうべき瞑想的実践としての“瑜伽行”があった、というのがポイントらしい。坐禅の元祖のようなものだろうか。
それはそうと、それをどう解釈するにせよ、人間の心のひじょうに深いところには、ユングが体験を通じて理論化し、そして古代に唯識がすでに洞察していた、個人性を超え人類全体につながるような深層心理の領域が、少なくとも内面的なリアリティとして確実に存在するらしい。
それはつまり、そんな驚くべき無意識的な深淵が、このぼくらの心に潜んで現にはたらいているとことで、なんというかすごいの一言だ。
そんなものをぼくらが内に持っているということは、こうやっている日常の意識からすると信じがたいし、ちょっと怖い気もする。
しかしそう考えると、なんだか人間の可能性という意味で希望が持てるような気もした。
そして「しょせん人間の心なんて脳の生み出す幻想みたいなもんだ」というような、ありがちな「唯脳論」が、ずいぶん薄っぺらく見えてしまう。
前期のテーマ・現代科学的のコスモロジーの、壮大なスケールにもびっくりだったが、こんどの唯識の深みのすごさにもすごいものがある。
自分が世界とか心についてすでに知ったように思っていたことが、いかに狭く浅い部分的なものであったか気づかされるという意味で、目からウロコといった感じの授業だ。
ほんとうにこんな授業が大学でやっているのだろうか? どうもこのとおりやっているらしく、それ自体が信じがたい気がする。
しかし、学生たちの反応がとても素直かつストレートで、とても興味深いと思った。そういうものを求めている学生が多いということなのだろうか。
…と、ブログ授業のレポートのつもりで書いたのが、ちょっと脱線してしまった。
学習には入力だけなく、出力も記憶の定着という意味で重要であるという。引き続き書けるときに勉強がてら書こう。一石二鳥ということで。
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私などは、岡野先生にもっと早く出会っていれば良かったなと思うことしばしば・・・。
学びの友が、増えていくことを切に願っております・・・。
しかし、直截に宣伝してしまうと、現代人、特に若い世代は、すぐに引いてしまう。
そこんところ隊長も悩んでいるところであるようですね。
ご返信ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。
>りょうさん
どうもであります!
学びの友、ほんとに増えるといいですね。個人意識的には今のままでもいいやとかっていうのがあったりするのですが、それは“志”にもとるというもの。
悲しいかな、ちょっと歳を喰った上に、そもそも同世代とも話題が合わないところでは、どういう感性でもって引いてしまうのか、イマイチよくわからないものがあります。
ぼくらにとって、一見宗教的なものに対するアレルギーというのは、オウム事件のイメージが決定的だったと思いますが、下の世代はどうなっているのでしょうね?