〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

“能力”についての理にかなった考え方とは

2006-01-21 | Weblog
きょうは久しぶりの降雪、だけどここ京浜臨海都市部ではほとんど積もらなかった。ちょっと内陸に入るとずいぶん積もっているらしいのに。夏にヒートアイランドということがあるけど、寒さもこれほど違うとは思わなかった。
コンクリートとアスファルトで敷き詰められた都市の生活環境というのは、まさに文字通り“不自然”なのだと実感させられる。

そんな不自然な環境にいると、人間、心まで不自然になっていくのではないかとちょっと危惧される。数百万年、緑の自然の中で生きて生かされていた人間という種は、ここわずか数十年でこういう環境の激変に適応できるものなのだろうか?
表面上適応してガンガンやってきたように見えて、それにはなにかひじょうなムリがあるのではないだろうか。

それはそうと、積雪があるとバスというのはけっこう大変で、チェーンを巻いたり運行に支障が出たりで、台風以上の緊急対応というかたちになる。
まわりのベテランで気合いの入っている人たちは、こういう事態にも動じず、とても適切に指示を出したり情報収集をしたり、自信を持ってきびきびと臨んでいる。

いっぽう、いわば初年兵の自分は、日常業務はなんとかこなしているけど、こういう事態になると何をしていいか、正直浮き足立ってしまう。
まったく無意味かつ有効性のないセルフトークだが、おれってだめだなあ、なんていう思いになってしまう。
それは経験不足だし仕方ないという面もあるはずなのだけど。

で、それはようするに人と比較して自分を卑下しているということだ。
長年なんらかの社会的モノサシで他人と比較して自分はどのくらいか、というふうな枠組みでものごとを捉えてきたので、それが自分をつまらなくしていることがわかっても、やっぱりものの見方のパターンとして、自動的にやってしまっているということなのだろう。

ちょっと“能力”ということについて、しっかり捉え直してみる必要があると思った。それは、習慣的に自分が、能力がある/ない、という二分法的な捉え方で自他を評価しており、かつそのことが人間として価値がある/ない、と自動的につなげて価値判断をしてしまっているようなところがあるからだ。

これはひじょうに硬直化した単純論理であることはすぐにわかる。
学校の成績評価というのが、じつにこんな感じだったのを思い出す。
ほかに自他を評価する価値基準が与えられていないところでは、点数や偏差値というのがけっこうシビアに人格評価に直結しているかのような雰囲気がなかっただろうか。

つまり、こういうものの見方が習慣づけられ、それをじつに無自覚に心に取り入れてきてしまったということなのだろう。
が、わかっても長年そういう思考回路が習慣化し癖になっているのがすぐに治るわけではないようだ。だから、しっかり捉え直し、気づいたら繰り返し思い返すこと。

能力を測る基準というのは一つだけなのか? 
人間の能力というのはどれほど多様な側面をもっているだろうか? 
それを何で他人と比較しなければならないのか。絶対評価をしていまあるものに目を向けることをしてはならない理由などあっただろうか?
人間に与えられた潜在力というのはどれほどのものだっただろうか?それには比較を絶した性質がなかっただろうか?
そもそも能力とはいま自分に与えられているものだ。いわばプレゼントに対して、人より少ない、とかいって文句をつけることが本来できるのか?
自分はそのことを伸ばすのにどれだけ時間と労力と情熱を割いてきただろうか?
そもそも何のために有能でありたいのか?その目的は?単に優越していたいだけなら、そんなもの結局無意味なんじゃないだろうか?
人は自分に与えられた有限な時間と可能性を、必然性のある分野に投資してそこを伸ばしていっている。自分にとっての必然性はどこにあるのか?


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2 コメント

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能力 (HIRO)
2006-01-22 09:20:59
能力を二分法で考えること・・・



確かにやりがちですよね。



昨夜、大学の先輩方と食事してまして、「教師の仕事は1%の能力を信じられるかどうかだっ!」と熱く言われました。

(何でも、きんぱちのセリフだったみたいですが・・・)



能力を信じて伸ばしていきたましょうね。



それにしもて、ブログを書く能力。



二分法で「あります!」



取りあえず、月末を目標に。



励んで参りましょう。
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Unknown (type1974)
2006-01-22 19:35:11
>HIRO先生

いや~、ホント、二分法で、やってしまうんですよね、いろいろ。中でも能力。なんか例の「勝ち組/負け組」みたいです。あほらしくて勝負に参加しない人だってたくさんいるだろうにね。二分法というのは周りが見えなくなってしまいがちだ。

熱血先輩の言葉、じつに心強い! HIROくんはじめ、そういう先生がいっぱいいたらすてきです。

いま表現されている“能力”で生徒を切って分けて「ハイ、お前ダメね」みたいな先生が実に多かったですから。

子供の潜在力を信じ伸ばすことをしない“教育”なんて、まるで言葉の矛盾です。

熱いだけじゃなくて、その方法を熟知した金八だったら、ぜひたくさんいてほしいものです!

あ、ある方は二分法で「ある!」でいいのだね。

月末に向けがんばりましょう。

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