〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

考えなければ不安はない(転載)

2018-09-26 | サングラハ教育・心理研究所関係
引き続き岡野守也先生のブログから転載する。ぜひ元記事を参照のこと。
オウム事件の記憶から一時期怪しげ(今でも?)に思われていた瞑想・メディテーションは、今ではグーグルはじめもっとも生産性の高いとされる知的産業・情報産業分野で企業活動に取り入れられているという。
 先生のブログの言葉を借りれば、手段として「バカになる」ことが知的生産活動の役に立つということになる。
 さらにダークサイドとしては米国では軍事利用まで画策されており、実際に「マインドフルネス・スナイパー」は高い成績を上げているとのこと。
 要は手段ではなく目的なのだ。そのことは、引用されている古典に格調高く表現されている。現代の課題は、以下にその高みに追いつくかにある。

********************************************

 考えるのなら、腰を据えて考え抜く。

 いい考えが浮かばないのなら、一度徹底的に頭を空っぽにしてみる。

 考えなければ、ストレスは感じない、不安にも鬱にもならない。

 俗な言い方をすれば、「バカは悩まない」のである。「バカはへこたれない」「バカほど打たれ強い」。

 では、いったん意図的にバカになってしまってはどうだろう。 


 以下の『大般若経』(初分教誡教授品第七之二十六)の言葉も、とても格調の高い言い方をしているが、要するにそういうことを言っているのだと思われる。

 スブーティよ、覚りを求める者・志の大きな者が智慧を完成する行を修行する時には、すべてのことについて認識しないようにする(何も考えない)。すべてのことについて認識しない時には、その心は衝撃を受けるとか恐怖を感じるとか不安におののくといったことはない。すべてのことにかかわって心が沈み込んでしまうことも、またくよくよと鬱になることもない。

 善現、是の如く菩薩摩訶薩、般若波羅蜜多を修行する時、一切法に於て都(すべ)て見る所無し。一切法に於て見る所無き時、其の心驚かず恐れず怖(おのの)かず。一切法に於て心沈没(ちんもつ)せず亦た憂悔(うげ)せず。

コメントを投稿