〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

“信は力なり”

2006-08-11 | Weblog
ネットを開けてみると、
イギリスで飛行機十機が爆破寸前でやばいところだったとのこと。
これは怖いですね。

ただ不謹慎を承知であえて言うと、
そうなってたら面白かっただろうな、
というような気持ちがあったりします。
なにせ、そういうニュースは刺激的ですからね。

自分とカンケイがない(と思っている)他人の大惨事・悲劇を
面白がる気もちってのは、ずいぶんレベルが低いものに違いありませんが、
しかしそれがたしかにあることは否定できません。
ま、しかし程度の差こそあれ野次馬根性ってのはたいてい誰にもあるようだし、
だからこそテレビの大方のニュース(ショー)は成り立っているわけで。

私は飛行機がひじょうに好きで、旅なども観光などはどうでもいいから、
空港だけの往復でいいから、飛行機に乗りたいなー
というくらいです。
毎日職場で羽田から上がっていく飛行機を見ていると、
あれに乗ってどっかに行っちゃいたいな、などと思ったりします。

しかし、今のこのスリリングな状況では、それほどの思い入れがあっても、
飛行機に乗るのは怖いのでイヤです。
隣の席にアラブっぽい濃い顔のオジサンとかが乗ってたら、
きっと怖いぞー…

それにしても、自殺テロリストってのは、いったい何なんでしょう。
われわれの常識がついていけないので、
それは特殊で異様なことに思われてしまいますが、
現にそういう事例が示しているように、
(そしてそれはずっと歴史を通じて示されてきたことでもあると思います)
強い信念というのは、
どうも死の恐怖を軽々と乗り越えてしまうことができるようです。

はた迷惑で独善的な信念は確かに問題ですが、
そういう信念体系の問題性やそれぞれの違いはさておき、
信念という心の機能それ自体の、人間における力というのは
文字通りぼくらの想像をはるかに超えるものがあるようです。

さて、はたしてそういう信念をもつのは正しいことなのかどうか。
一般的にはそういう信念はいずれ神話・幻想にすぎず、
そういうものは持たないのが正しい態度だとされていると思います。
そういうテロの問題とか、例の妙なカルト宗教とかの事件は、
ふつうにはぼくらの生活とはカンケイのない、
レベルの低い人たちがやっていることだと、
そう捉えられているのではないでしょうか。

しかし、さきの信念それ自体の内面的な機能ということから考えれば、
「信念なんてのはただの幻想にすぎない」という命題は
じつはそれ自体がぼくらの心に強い影響を与えている
特殊な信念の表明なのだということができると思います。

自らが信念であることを否定する、それ自体自己矛盾的な、しかし強固な信念…
言葉を換えて言えば、それは「思い込み」ということになるでしょうか。

そういうことを考えあわせてみても、
どういう信念を持つかはともかく、
「信念体系を持つ」ということそれ自体は、
人間にとって不可欠で本来的な営みなのだと思われてなりません。

チープな喩えかもしれませんが、
ぼくらのパソコンが機能している背後には
OSが常時走っているのに似ています。
たとえ日常便利に使っていてあまり意識していなくても、
われわれはつねにWindowsやらの恩恵にあずかっている、
ということ。
そしてパソコンの筐体を開けてみて
どこにもそんなものが転がっているのが見つからないとしても、
その存在と機能を疑うのはただの「パソコンに疎い人」です。

アメリカもイスラエルも
最先端のテクノロジをともなった強大な軍事力をもってすれば
外面的にテロリズムを封じ込められると信じているかに見えますが、
それは「死ねる」テロリストを根絶することには決してならないような気がします。
彼らがいのちをなげうつことができるのは、
どう考えても、内面の、信念のゆえなのですから。

いま世界の大枠で起こっている事態は、
そういう「外面」対「内面」の戦いに見えます。


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