結局何が語られていたのか
さて、著者・鶴見済氏自身の視座のレベルが明らかになることによって、社会不適応者たちの自殺を扱う書物を執筆した、彼自身の隠れた動機がはっきりしてきたように思う。
この著者はたぶん間違いなく、彼自身半分は自覚しているのであろう自らの心の弱さ=内向性・非社交性を、社会に適応できず「生きるのに適さない」自殺者に投影している。
そして彼らの死を弱さから来る当然の結末であると断定し、それらの陰鬱なエピソードをクールかつドライに、しかし軽薄に“笑い”が取れるように扱った自殺の手引きを書くことによって、自分より劣った存在を設定し、その価値の抹消を図っているのである。
逆に言えば、そうすることによって彼は、自分を比較優位的に価値がある存在であるとする、いわば自己確認を図っているのだと思われる。
一見世界と人生の現実を暴き出したようなクールな言葉が使われている、その背後にある動機とは、じつはそんな低劣で個人的なものであると見ざるをえない。
そんな隠微な願望と歪んだ恣意にもとづいて、つまり彼は自分がそうしたいからこそ、自殺した人々の死をあげつらいその存在を貶めているのである。
加えて、そんな人生の「暗い」側面を、冷たさと同時に奇妙な感情抜きの「明るさ」を帯びたタッチで書き立てることで、この社会に深く広く染みついた“明るい=優越”“暗い=劣等”という薄っぺらい常識的な価値づけ(たとえば民放のバラエティ番組で戯画的に誇張されているような)のウケをねらうべく迎合しているのは、これまで見てきたとおりあまりにも明らかだ。
結局のところ、彼はおそらく自身通過してきた学校生活での「息苦しくて生き苦しい」雰囲気をあまりにも真に受け、“明るい-暗い”というような単調かつ低次の二分法で自他を分離し比較して捉えた上で、自分の語りたい何かを語っているにすぎない。
そんなふうに自分が優越した側に立つために「暗い」他者の姿を面白おかしくあげつらって追い込むこと、そうすることで所属集団の「明るさ」への強迫に迎合すること、これはまさにいじめる側の心性にほかならない。
著者が本書においてやろうとしたことを煎じ詰めれば、劣等感を抱えた者がより劣等と見なす人間を排除しようとする、実によくある企てということになるだろう。
それはぼくらが教室という状況でうんざりするほど眼にし、人によってはいやというほど経験してきた、ありふれたあのいじめの構造とまったく同じものだ。
そう、この本は、悲しいまでに典型的に、それと同レベルなのである。
本書執筆の時点ですでに29歳(1964年生)にもなっていた著者は、しかし精神年齢的にはそんなレベルの泥沼に足をとられてもがいていたのだ。
そしてそのまっただ中から、自分の存在を疎外している(と彼が思っている)人生と社会一般に対し、毒を含んだ呪詛の言葉を発しているのである。
本書のメッセージを著者に代弁して総括すれば、結局そういうことにならざるをえないであろう。
そうして著者・鶴見氏は、さきに見たいじめ自殺の代表例、山田花子の「圧倒的な諦念の言葉」を引用して、それは彼女が喝破したこの社会の「真実」にほかならず、「この本のテーマに通じるものがある」と評価している。
そう、それはたぶんそのとおりなのだ。じつにそれこそが本書における彼のテーマそのものであったのは文脈上間違いない。
ただし、その発言は自殺者とはまったく逆の立場からなされていていることに、読者は注意する必要がある。
すなわち、彼はいじめる側の立場から、いじめる対象の運命について発言しているのである。
そういう心の弱い人間たちの価値を劣等であり死に到るほかないものと決め付ける、冷たい言葉の戯れによる“いじめ”こそが、「この本のテーマ」にほかならないのだ。
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さて、著者・鶴見済氏自身の視座のレベルが明らかになることによって、社会不適応者たちの自殺を扱う書物を執筆した、彼自身の隠れた動機がはっきりしてきたように思う。
この著者はたぶん間違いなく、彼自身半分は自覚しているのであろう自らの心の弱さ=内向性・非社交性を、社会に適応できず「生きるのに適さない」自殺者に投影している。
そして彼らの死を弱さから来る当然の結末であると断定し、それらの陰鬱なエピソードをクールかつドライに、しかし軽薄に“笑い”が取れるように扱った自殺の手引きを書くことによって、自分より劣った存在を設定し、その価値の抹消を図っているのである。
逆に言えば、そうすることによって彼は、自分を比較優位的に価値がある存在であるとする、いわば自己確認を図っているのだと思われる。
一見世界と人生の現実を暴き出したようなクールな言葉が使われている、その背後にある動機とは、じつはそんな低劣で個人的なものであると見ざるをえない。
そんな隠微な願望と歪んだ恣意にもとづいて、つまり彼は自分がそうしたいからこそ、自殺した人々の死をあげつらいその存在を貶めているのである。
加えて、そんな人生の「暗い」側面を、冷たさと同時に奇妙な感情抜きの「明るさ」を帯びたタッチで書き立てることで、この社会に深く広く染みついた“明るい=優越”“暗い=劣等”という薄っぺらい常識的な価値づけ(たとえば民放のバラエティ番組で戯画的に誇張されているような)のウケをねらうべく迎合しているのは、これまで見てきたとおりあまりにも明らかだ。
結局のところ、彼はおそらく自身通過してきた学校生活での「息苦しくて生き苦しい」雰囲気をあまりにも真に受け、“明るい-暗い”というような単調かつ低次の二分法で自他を分離し比較して捉えた上で、自分の語りたい何かを語っているにすぎない。
そんなふうに自分が優越した側に立つために「暗い」他者の姿を面白おかしくあげつらって追い込むこと、そうすることで所属集団の「明るさ」への強迫に迎合すること、これはまさにいじめる側の心性にほかならない。
著者が本書においてやろうとしたことを煎じ詰めれば、劣等感を抱えた者がより劣等と見なす人間を排除しようとする、実によくある企てということになるだろう。
それはぼくらが教室という状況でうんざりするほど眼にし、人によってはいやというほど経験してきた、ありふれたあのいじめの構造とまったく同じものだ。
そう、この本は、悲しいまでに典型的に、それと同レベルなのである。
本書執筆の時点ですでに29歳(1964年生)にもなっていた著者は、しかし精神年齢的にはそんなレベルの泥沼に足をとられてもがいていたのだ。
そしてそのまっただ中から、自分の存在を疎外している(と彼が思っている)人生と社会一般に対し、毒を含んだ呪詛の言葉を発しているのである。
本書のメッセージを著者に代弁して総括すれば、結局そういうことにならざるをえないであろう。
そうして著者・鶴見氏は、さきに見たいじめ自殺の代表例、山田花子の「圧倒的な諦念の言葉」を引用して、それは彼女が喝破したこの社会の「真実」にほかならず、「この本のテーマに通じるものがある」と評価している。
そう、それはたぶんそのとおりなのだ。じつにそれこそが本書における彼のテーマそのものであったのは文脈上間違いない。
ただし、その発言は自殺者とはまったく逆の立場からなされていていることに、読者は注意する必要がある。
すなわち、彼はいじめる側の立場から、いじめる対象の運命について発言しているのである。
そういう心の弱い人間たちの価値を劣等であり死に到るほかないものと決め付ける、冷たい言葉の戯れによる“いじめ”こそが、「この本のテーマ」にほかならないのだ。
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