「鞆の津の商家」から出てきたところです。
今から「鞆城跡」に登ります。
黄色の線に沿って番号順に歩いています。
鞆の津の商家の前のパーキングの奥に、鞆城跡に登る石段がありました。
ゆっくりと歩いても、約10分ぐらいで鞆城跡に建つ「歴史民俗資料館」に着きます。
ここは、福山市70周年を記念して鞆城跡の高台につくられました。
歴史資料やお祭りなどの民俗資料を常設展示していました。
潮待ちの仕組みの優しい解説もあるみたいです。
むかしの船は自力では進めないので潮の流れ、風の流れを頼りにしました。
ここの鞆の浦を境にして、潮の干満に合わせて、両側へ流れでたり、入ってきたりします。
ここでちょうど、潮待ち風待ちする場所になるのです。
古い漁船が展示されており、観光鯛網や鞆町並みひな祭りの季節のイベントも展示します。
資料館前の広場から、南に鞆港の風景が見下ろせました。
鞆城跡の説明板です。
この辺りが、鞆城の本丸跡とのこと。
ここは、古代から潮待ちの港として栄え、軍事的に大事な場所でした。
1553年に、鞆城の以前に、「鞆要害」を、毛利元就が尼子氏のおさえとして備後地方の豪族につくらせます。
1576年には、足利義昭がここに滞在し、毛利氏の庇護の下に、鞆幕府がつくられることになりました。
安土桃山時代になると、かの猛将福島正則が鞆要害を整備して、鞆城をつくります。
鞆城は丘陵部の本丸(三層三階の天守)を軸とし、二の丸、三の丸が周りを囲み、その範囲は広範囲に及んだようでした。
あまりにも広大な城郭だったため、後に、徳川家康の嫌疑がこの城にかかり廃城になったようでした。
本丸跡に、宮城道雄の像が座っています。
作曲家、箏曲家。
1929年に発表した「春の海」の曲で、世界的に有名です。
この曲は、父親の故郷で幼少期を過ごした鞆の浦を思って創作したようでした。
8歳で失明します。
光を失う以前に見た鞆の浦の海が、永遠の原風景として、心に刻み込まれていたのでしょうか。
ここから、もときた道を下りていき、鞆の津の商家の前を通って、地図のとおり歩いて、龍馬の隠れ部屋がある「桝屋静右衛門宅」に向かいました。
途中にであった保命酒の店。
すぐ先に行くと、「鞆 肥後屋」がありました。
鯛味噌の専門店です。
歴史を感じる看板ですね。看板に雨除けの小屋根をつけていました。
その先には、保命酒の「入江豊三郎本店」があります。
現在、保命酒は福山市鞆町にある4つの保命酒屋でしかつくられていません。
(私は、昼食で、この4つの保命酒を飲むことができました。なんとも言えない味わいで、美味しかった。)
ここから少し歩くと、海岸の通りに出る直前に、「桝屋静右衛門宅」がありました。
廻船問屋を営んでいました。
江戸時代の末期の慶応3年に起きた「いろは丸事件」の時に、坂本龍馬が数日間滞在した商家です。
当時、命を狙われていた龍馬が身を隠しました。屋根裏部屋に。
日本人には、龍馬は人気者です。
日本の未来を見すえ、臆することなく行動するその姿を、ここの場所で想ってみました。
ここから「福禅寺」に向かいました。
海岸沿いに歩くと、渡船乗り場の付近に「むろの木歌碑」があります。
「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木はとこ世にあれど見し人ぞなき」
この歌は、万葉秀歌と言われます。
730年に、大伴旅人が太宰府の役人の任期を終えて都へ帰る途中に、鞆の浦へ立ち寄った時に詠んだ歌です。
亡き妻をしのぶ気持ちを歌に⋯⋯⋯。
むろの木は、ヒノキ科の常緑低木、変わることがない自然と、はかない人間の命を対比させ、旅人の悲しみを際立たせています。
ここから、海岸沿いをそれ、細い道を登っていきました。
すぐ先を右に入って石段を登りました。
「福禅寺 対潮楼」の説明看板が。
「朝鮮通信使 迎賓館」の表示。
下からだいぶん登って、「福禅寺」に着きました。
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