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竹林舎 唐変木の そばバカ日誌  人生の徒然を

26歳からの夢、山の中でログハウスを建て
 自然の中で蕎麦屋を営みながら暮らす
    頭の中はそばでテンコ盛り

竿忠を継ぐまで

2012-11-10 | 「竿忠の寝言」
竿忠を継ぐまで
空襲のあと、私は神田から中野の親戚に引き取られて学校へ通い、勤労動員で旋盤を廻して働いて居ました。
戦後は妹と二人で船橋や亀戸に転々と間借りして、妹は素設計事務所に勤め、私は魚屋で働いたり闇市に顔を突込んだりして暮らして居ました。
竿忠では竿屋を継ぐのは長男だけ、一子相伝を建前として居たので、父から竿作りを教えられていたのは長男の忠吉だけで、私は何も教わっていません。それに未だ子供でしたから教わったところで何も出来なかったと思います。それに常々「お前は竿屋になっても、うまく行って当たり前、駄目なら竿忠の名を汚すだけだ」と云われてつけて居たので、私は自分から竿屋になろうと云う気持ちは全然持って居ませんでした。それに父や母の悲惨な死を思い出すようなことは、なるべく避けて通る習慣が身について居たので、竿忠の名は自然敬遠して居ました。
ですから昭和二十五年、妹が一人で先代の金馬師匠を楽屋へ尋ねて行った時も、私は「行くな。行くな」と叱りつけて居ました。竿忠はもう亡びた、今更のこ/\みじめな姿で出て行っても、輝かしい竿忠三代の名前に、醜い汚点をつけるだけだと云う気持ちの方が強かったのです。しかし、当時荒くれた生活をして居た私のことを心配して、妹が私にかくれて金馬師匠を訪ねてしまったので、それが切掛けで私達の進む道も変わって来ました。
金馬師匠や土師先生や、昔竿忠を贔屓にして下さった方々にお会いし、色々お世話になって居るうちに、私の前には自然「竿忠再興」と云う悲願の道が拓けて来て、自分でもそのつもりになって行きました。
昭和二十六年、私は金馬師匠の口添えで押上げの竿辰二代目、奥平(しん)親方の所へ弟子入りしました。初代竿辰は初代竿忠の叔父に当る竿治の弟子ですから、同じ釣音の系列に属します。師匠の竿治同様、地味な拵えの中に高度な技術を盛り込んだ名人で、海竿、殊に青ギス竿の評判が高かった様です。二代目竿辰親方も初代に優とも劣らない力量をお持ちの方で、やはり海竿を得意として居ました。厳しい人柄であった初代の下で、四人兄弟の長男として小さい時から苦労したので、非常におだやかな包容力のある真面目な親方でした。竿作りの下仕事の固いことでは右に出る者が無かったと思います。
私は弟子入りするに当たり、父に傚って友松円締先生の門下に入り、頭を坊主に丸めて頂きました。いやが上にも自分の不退転の心を確かめて置きたかったからでした。
竿辰親方は暖かく私を向かい入れて下され、竿作りの基礎から手を取って教えて呉れました。当時押上げの店は未だバラックで、千葉の谷津海岸の住まいから毎日電車で通って竿を作って居ました。未だ戦争の荒廃から立ち上がったばかりで、食料なども充分でない頃でしたから、住込みの内弟子では却って御迷惑を掛けたと思いますのに、親方は譬え私が仕事で失敗しても手ひとつ上げたことがありません。本当に親身も及ばない暖かい御指導を受けました。
私は棹辰親方の所で三年間竿作りを習った後(丁度金馬師匠がたなご釣りに行って佐倉の鉄橋で汽車に跳ねとばされ、大怪我をして入院治療中の三ヶ月、付き切りで看病してから)京都の竿徳中根徳太郎さん方へ行って、一年半関西風京竿の技術を教えて頂きました。竿徳さんは初代竿忠の弟稲次郎の直系に当る方ですから、最も近しい同門になる訳です。又、奥さんの中根冨志さんは、初代竿忠の三女に当る方です。
其の後昭和三十一年、私は始めて竿師「竹の子」として独立し、荒川区南千住五の十一の十四通商柳通りの一角に小さな釣り道具の店を持ち、父祖以来の竿屋の道を歩き始めました。何分にも未熟で至らぬことばかりですが、昔の竿忠御贔屓の方々の温情や、小室次郎さんを会長とする「「竹の子」後援会の皆様の励ましによって、曲がりなりにも今日まで一生懸命勤めて参りました。そして昭和四十九年五月十三日、新しい竿忠記念碑の除幕式当日に、皆様のお勧めによって「竹の子」改め「四代目竿忠」として古い家名を襲がして頂きました。
しかし、一人前の竿師として「竿忠」の名に恥じないようになるまでには、まだ/\きびしい修行を積まなければならないことを、自分でも良く承知して居ります。皆様の厚意ある御鞭撻を受けながら、これからも竿一筋に精進して行くつもりです。何卒宜しく御教導下さいませ。

妹嘉代子は昭和三十七年、やはり金馬師匠のお世話で林家三平こと海老名泰一朗と結婚致し、今では四人の母親になって居ります。

以上で私の下手糞な身の上話を了りますが、今度「竿忠の寝言」を改版するに当り、作家の土師清二先生、もと亀山テグスの藤原美徳さん、東京釣具共同組合理事長、上野の釣具問屋ツネミの常見保彦さん、本分「黄金の煙管」(二百六十八頁)の渡辺喜吉氏の御子息・釣竿蒐集家の渡辺重三朗さん、大塚の竿師・汀石島田一郎さん、分時堂書店の谷川清二さん、それから身内ですが沢村いね、橋本静江、土屋徳三郎の皆様に大変御世話になりましたことをこの場をかりまして厚く御礼申し上げます。
      

以上で「竿忠の寝言」を終わらせて頂きます、長い間の御目障りでした、有難う御座いました。

現在喜三郎さんは僕より12歳年上、嘉代子さん10歳上、まだまだ現役で活躍しております。
僕も負けずに「生涯現役」を目指し、毎朝5時に起きて蕎麦を打ち、11時開店でお客様をお待ち
する毎日を送っており、つくずく職人の家系の地を引いている気がして居る今日この頃です
又、時には海へ出かけ、陸っぱりで釣を楽しんでいます。




2007年 四代目竿忠、中根喜三郎さん(唐変木大将の従姉弟)が初めて妹の嘉代子さんと唐変木に来た時に許可を貰い、千葉在住の大将の姉にブログ開設の手伝いをして貰い「竿忠の寝言」を打ち込み始め、パソコン初心者、打ち込み初心者、ブログとは何ぞやの初心者、ネット?、サイト?こんな大将も五年も過ぎれば多少の「通」人???やっとの事で打ち込み終了、自分ながら良くまァ・・・ごくろうさん


これから先は現在店で活躍中の有り合わせの材料で自作した「フルイ機、石臼」製作の工程をやってみようかな??・・・・・
と思っておりますが  どうなりますか・・・・・では・・・

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