結局、ラパン隊長の背信行為で、ヒューゴによって人質という囚われの身分なっていたなつきは解放され、今回の事件を引きおこした元少将殿は、あっという間に武装隊の人間に包囲された。ラパン隊長の使った魔法は、ヒューゴを撃ち貫き、気がつけば、ヒューゴの持っていた拳銃は、まるで一流の手品師のようにラパン隊長の手の中に収まっていた。彼の突然の変心と、鮮やかなその手並みにだれもが一瞬呆然としていたが、その手に持った拳銃を、ラパン隊長が床に放り投げ、それが地面に落ちた音が、皆を現実にへと引き戻した。そして、それなりに手加減をしたのであろうラパン隊長の魔法は、ヒューゴ元少将の意識を刈り取るほどの威力はなく、ヒューゴ元少将は痛みなのか悔しさなのかどちらともつかない表情を浮かべ苦悶し、のたうちまわっていた。
武装隊に拘束されるヒューゴは「私に触るな」とか「私をだれだと思っているのか」などとわめき立てていたが、彼の言葉などまるで気にした風でもなく、アースラの武装隊は彼を手際よく捕縛してゆく。それでもじたばたと暴れていた彼だったが、その腕を背後に回され手錠のようなもので拘束されると、やがて諦めたようにぐったりとなった。さすがに暴れる犯人を取り押さえるのは鮮やかなまでの手並みを見せてくれる。
そして拘束具を取り付けられたヒューゴであったが、それでも、いまだに、ぶつぶつと意味のわからない言葉をつぶやいている。
当然の話だが、ラパン隊長もまた武装隊に取り囲まれていた。その唇に浮かべた皮肉げな表情はまるで消そうとはせずに、彼はその手に持っていたストレージデバイスを地面に放り投げ、その手を空に向かって掲げた。そんな彼を危険物を取り扱うかのように、デバイスを突きつけながら、何重にも彼を包囲していた。確かに、プレシアとリンディを除けばこの場にいる一番の危険人物は彼であろう、となつきは考えていた。難しい顔をする彼女にラパン隊長はにやりとウィンクを一つ送ると、首を左右に振る。
「おっと、いまさら、無駄な抵抗するつもりはありませんよ。こんな風に怖い武装隊の皆さんに取り囲まれちゃぁ、逃げるに逃げれませんでさぁ」
などとは言うが、おそらく、間違いなく、彼ならばその実力を持ってこの武装隊の囲みを突き破って逃走する事は可能だろう。リンディ提督やプレシアの二人を相手にするのは困難を極めるだろうけれど、不可能ではあるまい。なつきの勘は彼がそれをきっと可能とするだけの実力を持っているのだろうと告げている。だが、それを行ったところで、彼がこの時の庭園から逃げ出す手段などありはしない。
彼の部下もまた、彼に倣ってその手に持つデバイスを放り投げ、無抵抗の意思表明を示してみせた。武装隊は、彼らの武装を解除しながら、一人ずつ彼らを拘束していく。
その様子を、なつきは腕を組んでいるクロノの隣で眺めていた。
「いいんですか、クロノ君は何もしなくて」
くすくすとなつきが含み笑いをしながら問いかけると、クロノはその肩をすくめる。若干の棘を含んでいる事は感じるが、悪戯っぽい光を浮かべているなつきの目を見れば怒る気もしないし、ほんのつい先程まで彼女の危機的状況からすれば、そんな軽口も聞き流さなければならない。その証左に、彼女の小さな方は小刻みに震えているではないか。
「なに、君も知っての通りアースラのスタッフは優秀だからな。ここまで来れば僕の出る幕などありはしないさ」
それは事実ではある。彼が手出しなどしなくても、今この場においては、彼の信頼する優秀な人材に任せておけば大事など、小事すらあるはずもないだろう。
「……それはそうなんですけどね、しかしよろしいのですか。最近ハラオウン家はなにやら業務に対してサボリ癖がついてきた様に思えるのですけれど。リンディ提督といい貴方といい……」
「確かに、最近の僕はいささか職務怠慢のようだな……」
そんななつきの言葉に、クロノは苦笑いを浮かべている。彼はともかく、確かに彼の母親の奇行は、彼だっていささか文句を言ってやりたい所だ。それにクロノの仕事は執務官であるが、おそらくは、今現在は彼にやるべき事は無い。
むしろ彼にとって、今の仕事は休息を取る事である。なのはやフェイトの活躍で彼の仕事は大幅に減ったとは言え……プレシアのあれは活躍とは呼ばない、あれはプレシア無双と呼ぶべきなのだろう……彼もあの激しい戦闘に参加している。クロノだって疲労していない訳がないのだ。それに、彼の仕事はこれからが激務なのだ。ヒューゴやラパン隊長達の取り調べ、事情聴取という仕事が残っている。
正確に言えば、彼はこの状況を監督している立場にあるのだ。こうして私の隣で武装隊の様子を見ているのも彼の仕事に間違いは無い。それだって大事な仕事の一つなのだ。
だけれども、クロノはなつきの言葉を肯定した。そんな彼の言葉を聞いたその時、彼の表情を見て、さすがになつきの胸がちくりと痛んだ。それにリンディ提督だって、いまはレティ提督と打ち合わせの最中だろう。彼女はこの憎まれ口を叩く悪い癖を直さなければならないだろう、と心のどこかで考えていた。
そして、ヒューゴ元少将が連行され、なつき達の前を通り過ぎてゆく。彼はなつきの前を通り過ぎる際に、実に憎しみのこもった視線を彼女達に向けてくる。ふと、彼女は片手をあげた。
「ああ、ちょっとお待ちを」
なつきのその言葉で、彼を拘束していた武装隊が立ち止まる。
「少し、少将殿にお聞きしたい事があるのですがよろしいでしょうか」
彼女の言葉に、武装隊の人間が確認の視線をクロノに送った。彼女が何を言うのか、何を考えているのか、武装隊の人間にもクロノにだってよくわかる。彼女は彼の引き起こした事件の被害者の一人であり、彼女の身内もまたこの事件に巻き込まれたのだ。彼に事の真相を問いただすつもりか、それとも糾弾するつもりか。クロノは少し思案した様子だったけれど、小さく肯定の頷きを返した。ヒューゴの周りは武装隊の人間で固められており、彼自身も拘束具で縛り付けられている。先の様な事は、完全にクロノ達の失態だが、今ここでそれを繰り返すほど、アースラのスタッフは愚鈍ではない。
彼にとって心配なのは、ヒューゴの言葉に彼女がどれほど傷つくか、であるが、それはクロノには判断がつかないし、彼女もそれなりの覚悟を決めての質問をするのだろう。クロノから見てなつきという人間は皮肉屋で他人の発言に動じないような存在だが、それでも彼女の心が傷ついていないという証拠ではないのだ。
だけれども、彼女は必ず真相を知りたがるし、あらゆる手段を取ってでもそれを知ろうとするかもしれない。ならば、彼女と言う人間の心の強さを信じるしかないのだ。そしてその真実は遠からず彼女の耳に入るのだろうから。
「では、少将殿にお伺いします。何故こんな事をしたのか、何故こんな事件を引き起こしたのか、その理由をお聞かせ願えますか?」
「何故、何故だと!?」
彼の細い目がきょときょとと中空を彷徨う。それはまるで何かにおびえる子供のようだった。そして彼はヒステリックにわめき散らした。
「お前のような、お前のような小娘に……私の崇高な目的が理解できるものか!」
唇の端に泡を飛ばしながら、叫ぶように言うヒューゴ。ふとその瞬間に、なつきとラパンと視線が合ったけれど、彼はやれやれと言わんばかりに首を左右に振って肩をすくめた。なるほど、自分で聞けという事か。そこまでは手伝うつもりはありません、ご自分で解決なさい。なつきはそう彼の声が聞こえたような気がした。
「貴方の目的が崇高か否かは、貴方自身ではなく他者が判断する事でしょう。そもそも理念が崇高であると言う事は他者がその言葉に共感できる事が大前提です。それに理解できるかどうかは聞いてから決めさせていただきます。無論、そこは貴方の言葉で話していただいて結構です。子供に理解できるようかみ砕いて話せなどとは別に言うつもりはありませんから。『私に』理解できるかどうかはわかりませんが。しかしそれでも聞かせていただきたいのですよ。貴方のその目的とやらの為に私達が多大なる迷惑を受けた事は事実です。ならば私達にはそれを聞く権利があるし、貴方にはそれを話す義務があるはずです」
「僕達にとっては、迷惑、とかそう言うレベルではないのだがね」
クロノ達からしてみれば確かにその一言で済ませる話ではない。けれども彼はそれ以上文句を言う事はなく、ヒューゴのいる方へと向き直る。そしてなつきのした質問はクロノの予想通りのものだった。だから改めて彼はヒューゴに彼の真意を問いただそうとした。
「本来ならば、本局のちゃんとした公の場で話していただくべきでしょうけれど、彼女の言う事ももっともです。出来れば、貴方がこの事件を引き起こしたその理由をお話いただきたいのですが」
「ふ、ふははは、ふははははは!なるほど、こ、この私を、お前達は裁判にかけるつもりか!そんな事が可能だと思っているのか!管理局の少将たるこの私を、お前達が!できるはずがない!クロノ執務官!君は上官に向かってこんな真似をしてただですむと思っているのか!逆に処罰を受けるのはお前の方なのだぞ!」
「……貴方は自分のした事が正しいと思っていらっしゃるか」
「当たり前だろう!何故私が罰せられなければならない!」
未だに自分のしでかした事、そして自身の置かれた立場を理解していないような発言になつきは憤る。そしてヒューゴを拘束している武装隊の隊員達もあまり冷静ではいられない様で顔色を赤くしている者達もいた。
「それは貴方の行為が犯罪だからでしょう?犯罪者は罰せられる。当たり前のルールじゃないんですか。それとも管理局という組織では違うのですかね、クロノ君?」
「それは、何かの皮肉か何かかい?」
「これは失敬、謝罪します。ですけれど、クロノ君の表情からすれば、管理局の方々からしても、どうやら貴方は善人という訳にはいかないようですよ」
「ふ、ふん!まるで私が悪人のような言い方だな!」
「あれま、違うというのですか!?」
「くっ……あれの真の価値を理解できぬ愚物共の手に委るぐらいならば、私が有効利用してやろうというのだよ。それが何故理解出来ない!」
「出来ませんね。ジュエル・シードにいかなる価値を貴方が抱いているかは知りませんが、あれは危険な代物のようです。一個人が取り扱ってよいものではありません。こういったものは少なくとも司直の手に委ねるべきです」
管理局がそれに相応しいか否か……と言う言葉はぐっと飲み込む。だが、こういったロスト・ロギアの管理に長年携わり長けているのも管理局と呼ばれる組織なのだろう。それに、クロノやリンディ提督のような人間がそれでもいるというのなら、なつきはその組織を信じる事にした。
「ふはははは!それこそ愚かというものだ。彼らの手に委ねるのもいいだろう。だが、彼らはこのすばらしい遺物を、倉庫の奥にしまい込んで腐らせてしまうに違いない。それは管理世界の技術発展においては著しい損失であると思わないかね?無尽蔵の魔力を供給できる願望の宝石。これさえあれば、今までの既存の魔導炉なんぞ比べものにならない力が手に入るのだぞ!」
「だが、それを制御できなければ、意味が無いだろう!」
「今は確かに出来ぬ。だが、いつか必ず私はこの宝石を制御してみせる!それはそう遠くはないだろう!その時、お前達がこの私をいくら賞賛しようとも、すべては遅いのだぞ!」
「なんと言おうと、どう自分を正当化しようとも、貴方のした事は間違いなく過ちであり、その行為は罪悪である。ましてやその目的がいかに崇高なものであろうとも、ロスト・ロギアを盗み、着服する事は犯罪行為である。管理局の技術部の長たるものがどうしてその事が理解できない!?」
「貴様、この私を犯罪者であると言うのか!!」
「それ以外の何者でも無いだろう。改めてヒューゴ・エクストレイル。貴方を逮捕する。本来ならば貴方のせめてもの名誉を守る為に、拘束などはしたくない所なんだが……残念ながらそれは不可能なようだな」
「おのれ偽善者どもめ。だが、いいか!私を拘束した所で、管理局の誰かが、きっと私と同じ事をするだろう!確か、この世界の言葉だったか、性悪説と言う言葉があるらしいな。なかなかによい言葉ではないか!!人は皆悪なのだ、お前達がいくら私を逮捕しようとも無駄な事なのだよ!」
ぴくりと自分の唇が引きつるのが自覚できた。クロノの顔が怒りで真っ赤に染まっている。何か言おうと彼が口を開こうとしたのを、なつきは手で遮った。
「だから貴方は悪事を働いたと、それは人の性なのだから仕方が無いというのですか?」
「ふははは、その通りだ!」
「なるほど、貴方のおっしゃる事はごもっとも。この世界の古い言葉で性悪説と言う言葉があります。とてもよくお勉強してらっしゃいますいね」
「なつき!?」
なつきのヒューゴ元少将を誉めるような言葉に、クロノが目を白黒させる。
「しかし、かの言葉を残した御仁は決して貴方のような方にその言葉を使って欲しくて残した訳ではありませんよ!確かに、彼の人は『人の性は悪なり、その善なるものは偽(ぎ)なり』と言っています。人はすべからく悪人である。その善行は偽りである、つまり偽善であると、ね」
「はっはっはっはっは!まさにその通りではないか!」
「黙りなさい!貴方はその言葉を曲解しているに過ぎません!彼の人は、確かに人の本性は悪人であると説いています。しかし、だからこそ、悪である事を自覚するからこそ、人は後天的な努力を積まなければならないのだ、と言っているのですよ。貴方のようにおのれを悪と認め、その欲望におぼれてよいとは決して言っていません!」
「くっ……」
「それにね、クロノ君達の事を偽善者と貴方は言いましたが、私は『偽善者』という言葉が決して嫌いではありませんよ。この世界の国の言葉で言えば、偽善とは、『人の為』に『善』き事をする、と書きます。ならば人の為に事をなす管理局の人達の事を貶す言葉では、決してありませんし、善き行いを為そうと努力をする人達を貴方が貶す権利はどこにもありません。……さて、これ以上は何を伺っても意味は無いでしょう。貴方は貴方でおのれの行動を正しいと判断しての事なのでしょうから。ならば、いつか貴方達に言った気がしますが、私達の考える正義と貴方の語るそれとは食い違いがあり、それはどこまで行っても平行線なのでしょう。ならばそれは決して交わる事はないでしょうし、理解し合えるものでもありません。ご苦労様でした。後は、管理局の皆さんにお任せしいたします」
その言葉に、クロノは頷き、ヒューゴ元少将は武装隊の人達によってアースラへと連行されていった。その後ろ姿を見ながらクロノがぽつりと言う。
「すまないな、だがすべての管理局の人間があんな風だとは思わないでほしい」
「何故貴方が謝罪をするのですか?」
「いや、なんとなく……な。でも……」
「そんなのわかっています。組織が腐敗するのではありません。人間が腐敗させるのですよ。管理局の理念は嫌いではありません。ですけれど、組織には色々な人間がいる……だからこそクロノ君達のような存在がまぶしく映るのかもしれませんが……」
なつきが、ふぅと、小さなため息をつくと、クロノが気遣わしげに尋ねてきた。その声色に多少の堅さは残っているけれど、それでも彼なりの優しさなのだろう。
「ところで、君は本当に、大丈夫なのか?」
「ああ、取り敢えずは……今のところは、大丈夫だと思いますよ?あれ、クロノ君。心配してくれるんですか?」
「ち、ちがう!だけれど君はいつも無茶とやせ我慢ばかりしているじゃないか!」
とは言え、正直に言えば人質になった事なんて初めての経験であるし、肉体的にも色々な意味で大丈夫ではないのだろう。それでも、この状況では彼への回答は他に無い。
……はずだった。
「って、おい!」
なつきが、ふと、気がつけば、彼女はクロノにもたれかかっていた。と、言うよりも、まるで倒れ込むようにクロノの腕の中へとしだれかかる。慌ててクロノはその小さな身体を抱き留めた。そんな彼の行動になつきはぽっと頬を染める。
「あれ……ま。クロノ君ったら大胆です。それにやっぱり男の子ですね。力持ちさんです。」
思った以上に柔らかで軽い彼女の身体が自分の腕の中にある戸惑いと、まるで潤んだようにしっとりと湿り気を帯びた彼女の目に魅入られ、ほんの僅かにクロノは言葉に詰まった。
けれど、首をぶんぶんと左右に振りながら、邪心を振り払うかのように大きな声を出す。
「な、何を言っているんだ!き、君の方から!」
「あの、でも。うん……クロノ君だったら……いやじゃないです……」
「ちょっと、まて!君は一体何を口走っているんだ!?」
端から見れば、なつきがクロノに抱きついているようにも見えなくもない。そんな二人の姿を確認したのか、慌てた様子でなのはとフェイトが駆け寄ってきた。
「なつきちゃん!?」
「なつき!?」
何故か、二人とも愛機(デバイス)を構えて、バリアジャケットを身につけたままである。先程戦闘の終了と共に、バリアジャケットは解除したとばかり思っていたが、解除をし忘れていたのだろうか?クロノの目には二人の背後に鬼が見えた……。
「ちょ、ちょっと待て!僕は、そ、そんなつもりじゃ!」
慌てた様子でクロノがなつきから飛び退いた。だけれども、彼女の身体は容易にぱたりと地面に倒れ伏した。
「わ!?な、なつきちゃん!?」
それこそ顔を青くして、倒れたなつきの側になのはは駆け寄った。フェイトも彼女の隣にしゃがみ込む。
「どうしたの、なつき!ねぇ、どうしたの!」
「あは、あはははは……すみません……ちょっぴり限界のようです」
フェイトのその声になつきは力なく答える。その声にはまるで覇気が無い。
彼女に何が起こったのか。
だが、その変化に、異変に一番最初に気がついたのは、なのはであった。
「ね、ねぇ。フェイトちゃん……」
「!!」
なのはが指さした場所に目を向ければ、フェイトのその瞳に映ったのは、真っ赤に染まったなつきの制服のスカートと、地面に広がってゆく赤い血だまりであった……。
アースラの艦内を寝台車(ストレッチャー)に載せられた少女が搬送されていく。その後ろを、一様に青い顔をして、彼女の友人と姉である二人の少女達が心配そうな顔をしながら小走りでついて行く。その後ろから、少し遅れてやってくる少女の母親の顔は、その内心はともかく表面上は至って冷静な風に見える。さらにその後ろからぞろぞろとついて来る……来ようとしたアースラのスタッフ達を、この艦艇の艦長は取り敢えずは業務に戻るようにと指示をし、彼女自身は、少女の母親達と一緒に医務室へと入っていった。
「大丈夫かな、なつきちゃん……」
武装隊の誰かがそう漏らしたが、それはここにいる……アースラに働くすべてのスタッフの思いでもあった。それは、なんやかやでこのアースラのスタッフの中にいつの間にか溶けこんでいたのがなつきであったからである。そしてなのはやフェイトが同じように怪我をすればやはりアースラの人達は彼女達の事を心配するだろう。
それは僚友が怪我をした時に感じるそれとまさしく同じものだった。戦友が怪我をした時に心に抱く感情と全く同じものだった。気がつけばいつの間にか自分達に溶けこんでいた少女達。その一人が凶弾に倒れたのである。誰もが彼女の無事を祈っていた。
「さぁさ!仕事に戻るよ!こんなところでうろうろしていてもどうしようもないし、逆にあの子に心配をかけちゃうんだから!」
少しおどけた様子でエイミィが言う。彼女の目にもいっぱいの涙が浮かんでいたけれど、ここで仕事を滞らせては、逆に彼女がその事を気に病むのだろう。そう言う子なのだから。それにやらなければいけない事は山積みである。ここはリンディや医師達に彼女の事を任せて自分達は自分達でやるべき事をやらなければいけない。もし逆の立場だったら彼女(なつき)は絶対にそう言うはずである。後ろ髪を引かれる思いであったが、彼らはプロである。おのおの意識を切り替え自分の職務へと戻っていった。
『無事でいてよ、ね……』
エイミィは、一度だけ医務室の扉を振り返りながら、艦橋を目指してその歩みを進めるのだった。
医務室の台車の横につきそう白衣の医師はアースラに乗り込んでいる船医である。彼は少なくとも次元航路を行き来する管理局の艦艇に乗り込んだ医師である。荒事に巻き込まれる事の決して少なくない管理局次元航行部隊の武装隊の医療面の面倒を見るのが主な任務の彼だ。体調管理も彼の職務に含まれるがその辺りはまずは自己管理である。いざという時に体調不良というのであっては武装隊などつとまるはずがない。
それはともかく、彼は、おおよその怪我の処置は手慣れているし、船医ともなれば一人で多少の手術ぐらいこなさなければ、彼の様な仕事は勤まるはずもない。事実彼にとっては小さな傷の縫合など自分の制服のボタンを縫い取る程度の些末な事でしかないし、実際に命に関わるような大怪我の手術をこなした事もある。男やもめなので自分の服は自分でボタンをつけるしかないというのはおいておいて。
リンディ提督の方針でメンタルケアに通じた別の看護師も乗り込んではいるが、こういった外科的な処置であるならば、彼はすでにベテランの域に達していた。
外科手術ともなれば彼の助手を持つ止める看護師が、台車に設置されているモニタを見ながら、その声を震わせた。彼女だって管理局の艦艇に乗り込んだ医務官であり、その為の免許を所有している。勿論こういった場面には何度も遭遇しているが、やはりこういった場面では経験がものを言う場面である。慣れなければいけないが……だからと言って鈍感になってはいけない……踏んだ修羅場の数が彼の上司とは桁がまるで違うのだ。その差が、現場において声の震えとなって現れてしまう。
ましてや相手は幼い少女である。心にわき起こる痛みはいつもよりも強かった。
だからと言って自分自身の義務を忘れてしまうほど、彼女の職業意識というものは低くは無かった。何度か深呼吸をして取り敢えずは自分の意識を切り替えていった。
「バイタルサイン安定しません。脈拍不安定、血圧低下!リンカーコア活性値(スコア)も急激に減少しています。すでに1000を切っています!」
バイタルサインとは医療用語で言えば『生きている証』という意味の言葉である。大乗的なもので例えば呼吸だとか、血圧、心拍などを指す事が多い。人が生きている為の機能、脳神経機能、循環機能、呼吸機能等を客観的な数値で表したものだ。加えて魔導士と呼ばれる存在が実在する世界である。ならばその魔力の源であるリンカーコアの活性状態もその『生きている証』に含まれていても何らおかしくはない。
そしてバイタルサインという言葉は、医療ドラマで医師がよく口にしているので、なのはも何となくはその意味が理解できた。嫌な予感が頭の中を駆け巡る。だから、思わず、息をのんだ。思わずこぼれ落ちたその小さな悲鳴にも似た声が聞こえたのか、彼女の隣で一緒いるユーノは彼女の手を強く握る。彼にだって、その内心は、なのはとは全く違いは無いはずである。でも、幼いながらも自分は男の子であると言う矜持と、漠然とではあるが、こんな状況であっても、彼の知っている少女ならば、決してなのはや……なのはと同じ様に涙をこらえている少女フェイトの事を悲しませたりはしないのだという、確信の様なものが彼の頭にはあったから、幾分かは彼女達よりはましな様子をして見せていた。
それを強がりであるとも言う。
「輸血パックだ!急げ!それから治癒魔法の術式も準備だ」
その医務官の声に、無意識的になのははユーノの手を強く握りかえしたが、その視線は苦しそうにしているなつきから離れはしない。なつきの顔色は、まるで蝋燭のように真っ白だった。唇もいつもの桜色のみずみずしいそれから、蒼っぽく黒ずんだ色になっている。
なのはは何かに祈った。それは神様かもしれないし、別の何かかもしれない。けれども、昔、彼女がもっと幼い頃に、彼女の父親が大怪我をした時と同じように、心の奥底からなつきが助かるようにと祈った。だけれども、それでも彼女はなつきから視線を外そうとはしない。本当はなつきが苦しそうにしている姿なんて見たくはない。それでも、目を離してしまうと、また彼女がどこかへ行ってしまうような、今度こそ帰ってこなくなってしまうような漠然とした不安が、心のどこかにあったからかもしれない。
一方でフェイトもじっとなつきを見つめている。その瞳には大粒の涙が浮かんではいたが、やがてはこぼれ落ちそうになるそれを必死で押しとどめていた。それが何故だかはわからない。けれども、泣いたところで彼女がどうこうなるものでも無いし、それが事態の解決に向かうはずもない。きゅっと唇を噛みしめながら彼女はただただ決壊しそうになるその感情を我慢していた。
なのはとフェイト、二人の少女達にとって我慢をするという事には慣れている、その理由は二人それぞれだけれども、慣れているはずであった。勿論こんな幼い少女達に我慢を強いるような環境がいいか悪いか……どちらかと言えば悪なのだろうと言う事は別の話だが。だけれども、目の前で大好きな人を失うという事に我慢が出来るのかと言われれば、そこまで彼女達の精神は大人ではない。普通ならば容易に心が壊れてしまいそうな状況。大人にだってなかなか耐えられるものではない。にもかかわらず、二人の少女は一様にその感情を心の奥底に押し込めながら、事の成り行きを見守っている。
そんな彼女達の事を、強い子達だ、とプレシアは感じていた。我慢強さとは別の意味でである。なのはの事は、その少女らしい容姿とは違い、その心の奥底には思った以上に強固な精神が潜んでいると思っていた。
そして驚かされたのはフェイト。彼女が知っているのは自分の言葉にただただ従順に従うだけの人形のような娘。けれども、おそらくはアリシアとフェイトがであった事がきっかけなのだろう、そんなフェイトに見違えるような変化が見られた。それがプレシアが今の自分を取り戻すきっかけにもなったのが、それ以上にフェイトの心に大きな変化を与えたのだろう。きっと昔のフェイトであるならば、何かしらの強い衝撃を受けた場合に、それに彼女の精神が耐える事が出来ずに自己を見失ってしまっていた事だろう。けれどもフェイトが悲しくないはずがない。
そして、それ以上に冷静な自分に驚いている。
「冷たい母親かしら……ね?」
自嘲気味にそうは言うけれど、我慢をしている娘達の手前、感情的にはなれない、と言うのも理由の一つではあるのだろう。もしかしたら今目の前で起こっている出来事が、現実のものであると信じられないだけかもしれない。けれどもプレシアの科学者としての思考は、目の前で起こっている事態を客観的な視点で、現実の光景であると捉えていた。だけれども、何故だか取り乱す事がない自分に、ひどく驚愕しているのだ。かつてはその愛娘であるアリシアの死を受け入れる事がなかなか出来ず、そしてそれが事実であると認識するにつれて溺れていった狂気の淵に、もう一度その妄執に、足を取られかねない出来事が目の前で起こっているのだ。しかしながら、それを彼女自身自覚しつつも、今回の場合はそんな事にはならないとぼんやりとではあるがわかっていた。それはただ、彼女が、プレシアの娘であるアリシア……なつきがこんな事で命を落とすとは思えない、そんな直感めいた確信が、彼女を正気につなぎ止めていたのかもしれない。
あるいはそれに加えてフェイトの存在があるからなのかもしれない。もう一度プレシアが、かつての思いにとらわれでもすれば、それでもフェイトは、色々なものを我慢しながらプレシアの命に従ってくれるだろう。でもそんな事をすれば、今こうして手に入れた幸せを何もかもぶちこわしにしてしまうかもしれないのだ。
仮にそんな事をすれば、なつきに叱られてしまうだろう。彼女自身はそんな事はしない……できないかもしれないが、何よりもプレシア自身が自分を責め苛むのだろう。それはもうプレシアにとってはあり得ない選択肢だった。それはつまりはフェイトもアリシアもプレシアの中では同列の存在となっている証拠なのだが、彼女自身心の中に落ちきってはおらず、もやもやとした感情となって彼女の中にわだかまっていたのである。
難しい顔をしている彼女達ではあったが、その分使い魔達は素直なものであった。アルフはただただ何が起こっているのか、そして自分に何が出来るのか理解できずにただおろおろとするばかりである。彼女の主のフェイトが、至って毅然とした態度でいるものだから、取り立てては騒ぎ立てたりはしていないけれど、うろうろとフェイトの周囲をうろつくばかりである。ただ彼女だって、なつきと言う存在は小さなものではない。なつきが苦しげに声を漏らせば、アルフは泣きそうな顔をする。もともと素直な彼女だけにその感情表現は至って素直であった。使い魔というものは心の奥底では主人とつながっているものだというアルフの言葉を信じるのであれば、彼女のその涙はフェイトのものでもあるのに違いない。ただ、アルフにだって自分の中にあるその感情がすべてフェイトのものだとは思っていない。使い魔とはいえそのすべてが主に支配されている訳ではない。中にはそういった存在がいるかもしれないが少なくともアルフには自由な意思があるし、そう思っている。ならば、その感情の幾ばくかは彼女自身のものなのだろう。
そしてここにいるメンバーで一番取り乱していたのがリニスである。なつきの側から離れようともせず、涙をぼろぼろとこぼし、激しく嗚咽を繰り返す。それを醜態と呼ぶにはいささか可愛そうな気がする。彼女にとってのなつきという存在は掛け替えのない存在である。主と使い魔という創造主と被創造物としては文字通り命にも等しい存在であったが、それ以上の思いをリニスは抱えていた。お互いの存在のあり方に加えて、彼女達がお互いを『家族』であると信じている。その大切な『妹』を彼女は今再び……いや、三度目か、失おうとしている。ならば、感情的にならない方がおかしい。まったくもってリニスのあり方は正しい。
そしてその姿を目の当たりにするからこそ、自分達の態度は『異常』ではないのかと、プレシアは思う。『家族』であればリニスのような態度こそ正しいのだろう。かつての自分なら間違いなくそうしたはずであるし、実際にそうした記憶もある。おそらく、それでも、今ここで彼女をこんな風にした人物……管理局の将官だった男が姿を現せば、消し炭にしてしまう自信はある。いや、それすら生温いか。はふぅとため息をつき、目を閉じながら、プレシアは脳内で繰り広げられている38回目のシミュレーション結果を首を左右に振りながら脳裏から打ち消した。自分には何も出来ないであろう事はわかっていたし、そうでもしていないと、きっと自分もまたリニスと同じように醜態をさらしてしまうだろうと思うから。それは決して恥ずかしいことではないのだろうけれど、
その時である。
医務室に悲鳴のような看護師の声が上がった。
「バ、バイタルサイン停止しました!し、心拍停止状態!!反応ありません!リンカーコアの活性値もマイナスを指しています!それから治癒術式を発動できません!デバイスからの反応も目標を捕捉できていません!そ、そんな、なんで!?」
口元を押さえて涙ぐむ看護師。それに加えて、治癒魔法が発動しないときた。ありえない。あり得るはずがない。しかし、看護師が何度術式を発動しようとしても、その魔法は起動しなかった。デバイスからは治癒魔法の目標が存在しないという意味不明のエラーが返ってくるばかりである。だが一刻を争うこの状況に、彼女を感傷に溺れさせる暇などありはしない。そしてあり得ない事が起こったからとそれに疑念を抱いている暇もない。たちまち医務官の叱責の言葉が飛んだ。
「なにをボサッとしているか!!カウンターショックの準備だ!急げ!」
魔法が起動しないのは事実であるとして認めるしかない。何故使えないかという事は後回しだ。
「あ、はい……って、あれ、バイタル復活……不安定領域からは出ていませんが……生命反応返ってきています!」
どこかしらホッとしたような声の看護師。しかし、実際に、目の前のなつきは、意識は戻らないものの荒い呼吸を繰り返していた。
「機器の故障だと?医療用デバイスも同時に……こんな時に……次元震の影響か……?」
ほんの少し、思案顔になりつぶやく医師。だが沈思黙考している余裕などあるはずもない。そんな事は百も承知である。
「ならばリンカーコアの数値の方は?」
「いえ……相変わらずリンカーコアの数値はマイナスを示したままです……治癒魔法のターゲットも出来ないままです!」
「……構わん。やれることはすべてやるだけだ。輸血を急ぐぞ!増圧剤も準備だ!」
看護師の言ったその言葉の意味はなのはにはよくわからなかったが、とにかく良くない事である事は直感的に悟っていた。だが、プレシアやリンディはその意味を、その言葉が指し示す異常性を理解する。しかし、それは有えない事なのだ。
「機械の故障かしら」
目に見えて青い顔でリンディは医務官に尋ねる。そしてそう考えるのが普通である。
「そうであるのならば納得は出来るがね。だが、先程自分で言っておいてなんだが、医療機器は常に最良の状態を保っているはずだし、そのように管理してきているつもりだ。機械の方が正しいと事実として受け止める覚悟も必要だろう」
「そんな、だって……あり得ないでしょう!?」
「確かに。医療用デバイスが目標を捕捉できないなんて、故障した時以外あり得るはずもない。ましてや、こうして目の前に『見えている』存在を特定できないなんて。それに、リンカーコアの活性値にした所で、私の今までの経験からして人間や動物のリンカーコアの魔力値がマイナスを指し示す事などあり得ない。魔力を持たない人間の『それ』にしたって、その数値は0を指し示すからな。無論、測定の誤差でマイナスを指し示すことがないとは言い切れないが、今回の数値はその範囲を逸脱している。ならば、今回のこの現象は提督のおっしゃる通りだ、『あり得ない』。私の記憶にもその様な事例は存在しない。あくまでも、その対象が生物であるとするならば……だがね」
「どういう意味かしら」
プレシアが唸るような声を漏らす。だけれども、それは母親としての心情からこぼれた言葉であって、科学者としての彼女からは医師の言いたいことは理解できてしまう。だから、何かしらの自分の考えをまとめなければ、と思っていたその時である。
「なつきちゃん!」
「なつき!!」
なのはとフェイトの悲鳴に、プレシアが視線を彼女の娘の方へと向ければ、信じられない出来事が起こっていた。うっすらとではあるが、彼女の身体が霞み始めていたのである。
「なつきちゃん!」
「なつき!!」
もう一度、二人の少女の叫び声が医務室に響いた。荒い息を繰り返しながらも、その姿がうっすらと透き通り始めている少女の身体の異常事態に、さしものなのはとフェイトも、我慢が出来なくなったのだろう。なつきのその小さな腕を、まるですがりつく様な勢いで握りしめる。
そして、二人はもっと吃驚する。
確かに、ふたりはなつきの手をぎゅっと握りしめている。その感覚は間違いなくあるのだ。でも、そうであるにもかかわらず、二人にはその実感がどことなく乏しいのだ。まるで夢の中でなつきの腕を握りしめているかの様に。
「こ、これは一体!?」
「何が起こっているの!?」
「……」
その時であった。
アースラの艦内に、警告を知らせる警報音が鳴り響いたのは。
「どうしたの、エイミィ!」
医務室のコンソールを操作してリンディがエイミィを呼び出した。アースラ、そして本局からの応援である二隻の艦艇は現在は厳戒態勢で時の庭園の港湾部に停泊している状態だ。なのは達の活躍によって庭園で発生していた次元震は一応の収束をみたものの、周辺の次元流はその影響で大きく乱れているのだ。次元航路においては小さな波紋が大きな津波となって他の場所に影響することが多々あるのだ。その為の哨戒任務も、今この場においては彼らの任務である。なにかしら周辺で異常事態でも起きたのか、そうリンディは考えた為であった。
「大変です、提督!」
エイミィの顔にはびっしりと汗が浮かんでいる。モニタには周辺の様子とその異常事態の情報がすでに映し出されている。ほんの一瞬、リンディはまるで蛇の女怪にであった英雄達の様にまるで石像の如くに凍り付いた。
「艦内にて微細ですが次元震発生!すでに論理境界線の崩落を計測器が観測しています!その発生源は……その医務室です!」
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