小原ルーツ

小原氏宗家(平姓安俵氏・信濃守家・玄蕃頭家)について

【1601年に主君の和賀忠親と共に仙台国分ヶ原で殉死した「小原左馬介藤次郎忠秀(享年62歳)」は「安俵玄蕃頭」と同一の人物だと言われていますが、それは、あくまでも後世に作成された系図などに記載されているだけで、実はそれを裏付ける文書(もんじょ)はありません。

逆に、両人を別人だとする文書は存在します。

天正九年(1582年)に作成された「和賀御分限録(和賀家家臣団録)」には「小原忠秀」と「安俵玄蕃頭」の名が其々別人として記録されていますし、また、小原忠秀は本姓を「藤原姓」としていますが、1571年に丹内山神社に奉納された棟札に記載されているのは「安俵玄蕃頭平義重」という「平姓」の人物で、「小原忠秀」とは氏姓も諱(いみな・下の名)も全く一致しません。故に両人は別人としか考えられません。

下記の記述は、その「和賀御分限録」や「奉納棟札」に基づき両人を別人として、安俵の小原氏について記載しています】

 

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丹内山神社の説明書きから、安俵城の小原氏は平姓も称していた事が確認できます。この小原氏は安俵城の「押蕪館」に居住していた小原氏宗家(平姓安俵氏)を示しており、代々「義」の字を諱(いみな・下の名)の通字としています。

小原家は1215年前後の和賀郡入部の早い時期から安俵郷を含む和賀郡東部を領していましたが、その後、1335年前後から起き始めた南北朝の争乱で、和賀家中でも南朝派・北朝派に分かれ争いが起こります。そして、1380年頃になると和賀家中では北朝派が優勢となり、鬼柳氏北朝派に与していた小原氏宗家の一族である狭良城小原氏が、争乱の続いていた郡内を安定させる為、郡東部の安俵に本拠地を移し、当地に本格的な城郭の築城を開始します。

後に安俵小原氏一門と呼ばれる一家は、この狭良城小原氏を本流とする一族で、南北朝争乱期には鬼柳氏北朝派に与していました。その後、和賀氏宗家を鬼柳氏北朝派一族が継承した事により、狭良城小原氏は和賀家中で重用される様になり、次第に小原氏宗家を凌ぐ勢力を持つ様になったと考えられています。その後、完成した安俵城高館に、その狭良城小原氏と呼ばれる一門の本家が入り、隣接する押蕪館には小原氏宗家(信濃守平時義一族)が入る事となります。これ以後、軍事外交財政面は安俵小原氏一門が担い和賀氏の家臣としても重きを成して行きます。一方、宗家は政務や祭事を担い安俵の領主として安俵殿とも呼ばれる様になります。

この安俵殿こと小原氏宗家は、和賀郡入部初代の小原義直が主君の和賀義行の嫡女と縁組し、更にその夫妻の嫡女が和賀氏一族の和賀義兼と縁組したことで、その家系が小原氏宗家を継承したと考えられ(鎌倉時代は女子にも家督相続権があった)、少なくとも和賀郡入部の早い時期から小原氏宗家は和賀氏一族となり、本姓も和賀氏が当初称していた「平姓」を名乗り家紋も和賀氏庶流家が主に使用する「石畳紋」も使用する様になります。

因みに、和賀氏は先祖である(中条)刈田義季が、母方の叔父で鎌倉幕府侍所別当の桓武平氏三浦氏流「和田義盛」公の養子となっていたため、当初本姓を「平姓」としていましたが、後に和賀氏本家は出自を源頼朝の落胤とし、「源姓」を本姓とする様になります。



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