江戸時代初期に、安俵村の肝入(村長)が聞き取りを行い書き留めた文書(もんじょ)には、小原氏宗家当主の安俵玄蕃(安俵義重)が、主君である和賀義忠の妹を妻に迎え、岩崎一揆(1600年9月~1601年4月)後に、胆沢へ落ち延び病死したと書かれています。
また、安俵村の肝入が安俵玄蕃に「様」の敬称を付け、和賀義忠には「様」よりも敬意の低い「殿(どの)」の敬称を付けていることから、元々安俵の地は和賀氏が小原氏に与えた土地ではなく、鎌倉幕府が小原氏に与えた土地であったことを示しています。
※因みに安俵玄蕃は安俵小原氏棟梁の小原忠秀だとする説がありますが、これは誤った見解です。小原忠秀の妻は、旧葛西家重臣岩淵氏の女性であり、死についても胆沢で病死したのではなく、小原忠秀は岩崎一揆後、仙台国分ヶ原で殉死しています。


