昨日は三木の温泉に寄った関係もあり、父の病院に着いたのは19時過ぎでした。約30分ほど話をしましたが、いままでになく会話がかみ合いました。
父は昔から体が丈夫な方でなく、私が小さかった頃、感情の起伏も大きな人でした。
亡くなった母は、利発で、頑張り屋で、コツコツと何事も進める人でした。
母が生前、父親がお金があると判ると使ってしまうので、いくらお金があるかを隠していると言っていました。
私が躁の時に、買い物がしたくなりますが、今思えば、父も躁鬱の傾向があったのではないかと思います。
母が亡くなる前に、色んな事を聞き、また母が死んでから父に色んなことを聞いていました。
父は体が丈夫な方ではなく、50才(胃潰瘍の手術をした)のを過ぎたころから、自分自身は60代で死ぬと思って入たようです。(実際は低血圧の方なので、長生き)
13才で神戸の繊維問屋に奉公にでて、3年は神戸、残り3年は名古屋に、徴用され体躯が貧弱であったため、国内で電気工事の関係についており、終戦時は奈良にいたようです。
父の母方の親戚が畳屋をしていた関係で、畳屋を始めたようで、父の母方の姪にあたる母(父とはいとこの関係)と昭和27年?の母の誕生日1月10日、22歳に結婚したようです。(姉も確か22歳の誕生日、5月8日に結婚したと思う)
私が確か小学校3年頃に現在住まいしている、土地(約150坪)を昔の小作の人から登記を変更してもらうのに農協から100万円借金するのが大変で、100万円の現金を母が見せてくれたのを思い出します。
荒れ放題になって居た土地、当時は廻りは、皆田んぼで、竜山石のこっぱ(無用な石)で国道の高さに合わせて石垣を積み、約1/2以上を埋め立て、しばらくは自動車部品の廃品業者に貸していました。長年荒れ放題になっていたので、草を抜き、土を分けて、埋め立てた高さの所まで土を持って行き、畑にする作業を母と一緒にやりました。
私が働く様になってから約1年後に、今の住まいする場所に移って来ました。その後も畳屋[借家]をすこし続けていましたが、籠谷のたまご屋に行ったり、10年以上74歳まで加古川駅前のサンライズで立体駐車上の受付操作をしていました。
母はエンバの毛皮の裁縫の内職を長年していましたが、20年前に私が家内と結婚してしばらくして、ホワイト急便のクリーニングの取次を始めて、74歳まで続けました。昔から洋服や着物の裁縫などが得意で、細かなしみや傷まで確認し、場合によってはつくろいものまでするような人でしたから、毎日夜の12時近くまで、預かった物の整理や、出来上がった物の確認をしていました。
父、母の努力があっての今であり、父もこの12月12日で87歳になり、孫4人、曾孫3人にも恵まれ、父も「世間に大きな恥をさらすこともなく、今まで生きてこれて、私の家族や姉の家族も、生活が成り立ちしているのであれば、良しとし満足だ」というをこと言っていました。
自分自身が病院にいることもすぐに忘れ、昨日のことも忘れ、家族構成も忘れ、昔の色んなことや、現状を話をしてやり、頑張って生きてきたことを褒めてあげました。安心してか、眠りに付きました。また今日も夕方に見舞いです。
父は昔から体が丈夫な方でなく、私が小さかった頃、感情の起伏も大きな人でした。
亡くなった母は、利発で、頑張り屋で、コツコツと何事も進める人でした。
母が生前、父親がお金があると判ると使ってしまうので、いくらお金があるかを隠していると言っていました。
私が躁の時に、買い物がしたくなりますが、今思えば、父も躁鬱の傾向があったのではないかと思います。
母が亡くなる前に、色んな事を聞き、また母が死んでから父に色んなことを聞いていました。
父は体が丈夫な方ではなく、50才(胃潰瘍の手術をした)のを過ぎたころから、自分自身は60代で死ぬと思って入たようです。(実際は低血圧の方なので、長生き)
13才で神戸の繊維問屋に奉公にでて、3年は神戸、残り3年は名古屋に、徴用され体躯が貧弱であったため、国内で電気工事の関係についており、終戦時は奈良にいたようです。
父の母方の親戚が畳屋をしていた関係で、畳屋を始めたようで、父の母方の姪にあたる母(父とはいとこの関係)と昭和27年?の母の誕生日1月10日、22歳に結婚したようです。(姉も確か22歳の誕生日、5月8日に結婚したと思う)
私が確か小学校3年頃に現在住まいしている、土地(約150坪)を昔の小作の人から登記を変更してもらうのに農協から100万円借金するのが大変で、100万円の現金を母が見せてくれたのを思い出します。
荒れ放題になって居た土地、当時は廻りは、皆田んぼで、竜山石のこっぱ(無用な石)で国道の高さに合わせて石垣を積み、約1/2以上を埋め立て、しばらくは自動車部品の廃品業者に貸していました。長年荒れ放題になっていたので、草を抜き、土を分けて、埋め立てた高さの所まで土を持って行き、畑にする作業を母と一緒にやりました。
私が働く様になってから約1年後に、今の住まいする場所に移って来ました。その後も畳屋[借家]をすこし続けていましたが、籠谷のたまご屋に行ったり、10年以上74歳まで加古川駅前のサンライズで立体駐車上の受付操作をしていました。
母はエンバの毛皮の裁縫の内職を長年していましたが、20年前に私が家内と結婚してしばらくして、ホワイト急便のクリーニングの取次を始めて、74歳まで続けました。昔から洋服や着物の裁縫などが得意で、細かなしみや傷まで確認し、場合によってはつくろいものまでするような人でしたから、毎日夜の12時近くまで、預かった物の整理や、出来上がった物の確認をしていました。
父、母の努力があっての今であり、父もこの12月12日で87歳になり、孫4人、曾孫3人にも恵まれ、父も「世間に大きな恥をさらすこともなく、今まで生きてこれて、私の家族や姉の家族も、生活が成り立ちしているのであれば、良しとし満足だ」というをこと言っていました。
自分自身が病院にいることもすぐに忘れ、昨日のことも忘れ、家族構成も忘れ、昔の色んなことや、現状を話をしてやり、頑張って生きてきたことを褒めてあげました。安心してか、眠りに付きました。また今日も夕方に見舞いです。