『石宝殿 ― 古代史の謎を解く』
~ 石の宝殿(ほうでん)の関する書籍があるのを知っていますか?~
間壁忠彦・間壁葭子[著]
神戸新聞総合出版センター
総ページ数 237P
著者の間壁忠彦氏は倉敷考古館の館長、間壁葭子氏は神戸女子大学史学科教授、倉敷考古館の学芸員。両氏は20年にわたり古墳時代に用いられた石棺の石材産地を追い続けてこられた。この石棺石材の研究が、石宝殿の謎を解く間壁説の重要な鍵となっている。
目次は以下の通り。
序章 忘れられた石宝殿
1章 巨石遺構を御神体にした生石(おおしこ)神社
2章 石宝殿の履歴書を探る
3章 播磨はまさに石棺の国だった
3章 古墳時代の石棺とは
5章 竜山石にかかわった謎の人物を追う
6章 石宝殿の謎を解く鍵はどこに
7章 石宝殿にからまる疑問を解く
8章 真実への提言
◎◎◎ 書籍内容の要約 ◎◎◎
石宝殿の文献による初出は『播磨国風土記』である。
「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか)、高さもかくの如し。名号を大石といふ。伝へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。」
著者は、この物部守屋の伝承を疑問視する。
「聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」の時代とは、聖徳太子が摂政となった592年からをさすのが一般的だが、この年には守屋はすでに亡くなっており5年の歳月が過ぎている。この程度は時代錯誤にあたらないともいえそうだが、なんとも微妙なところである。
さらに、著者長年の研究から、守屋の活躍していた時代は、播磨の竜山石による石造品が、畿内から全面的に姿を消す時代であり、当時は圧倒的に二上山の石材が使用されていた。畿内で竜山石が普及するのは、守屋の時代ではなく、むしろ飛鳥時代以後である。
守屋を倒し「聖徳の王の御世」の時代に最高権力の座についたのは蘇我馬子である。著者は、蘇我氏こそ、ニュータイプの巨大な石造品や古墳石室の構築物が誕生するにふさわしい氏族だと推論する。
◎◎◎ では、何のために造られたのか ◎◎◎
間壁説も、松本清張の拝火壇説と同様に益田岩船に注目している(清張の拝火壇説も間壁氏の石棺石材の研究が資料として使われている)。石宝殿と形状、大きさが似ているだけでなく、石宝殿の側面にある広い溝の幅と益田岩船上部の溝幅が、ともに160cmと一致している。
大きく異なる点は、益田岩船には上部に2つの方形の穴があることだが、石宝殿の場合も、現在は上部に土がたまり松などの草木が繁り実態は分からないが、この草木の下に穴が存在する可能性も残されていると推測している。(今年平成20年1月13日の調査でも上部に水のたまりの可能性は指摘されたが、詳細はまだ不明)
著者の仮説は、石宝殿と益田岩船をともに90度引き起こした「家形」が、本来の姿であるとしている。この形状は明日香村越にある牽牛子塚(けんごしづか)古墳にも共通しているという。牽牛子塚には、高さ約3m、幅4.5m、奥行き約3mの巨大な二上山産の凝灰岩塊を側面から刳り抜いてつくった石室が存在する。この石室は入口が一つで、奥は間仕切りをもって二つの石槨に区切られている。
益田岩船、牽牛子塚、さらにもっとも精美な石室といわれる明日香村越の岩屋山古墳、平群谷の西宮古墳の羨道(せんどう)部先端の「ひさし状」の加工。その他多くの古墳石室から類推した著者の仮説とは、
「――両者(石宝殿と益田岩船)が当時新しく行われだした横口式石槨に加えて、同時に(蘇我)氏族の供養堂的なもの、または宗廊的なものとしての性格を持ちながら、なおかつ墓には巨大な石を用い、棺形とか石室内部を家形にする思想も忘れ去っていない中に生まれ出た特殊な形態の墓なのではなかろうか。全く先駆的な思想として、墳墓と堂塔をミックスしたものを生み出したのだと思う。」
であり。「石宝殿の運ばれる先は大和内か、あるいは、南河内郡の太子町あたりでなければならないと考えている。」
石宝殿、益田岩船ともに、未完成のまま放置されたとするのは諸説一致しているようだ。これを造らせたのは物部氏、あるいは蘇我氏、はたまた斉明天皇か――。
本書の内容はこれから石宝殿を知るために十分に魅力的な仮説であり、図書館で借りても読んでいただきたい。
前にも述べたと思うが、地元の生石(おおしこ)村の言い伝えでは、聖徳太子の姉が、この石の宝殿の造営工事の監督をしていたとのこと。
~ 石の宝殿(ほうでん)の関する書籍があるのを知っていますか?~
間壁忠彦・間壁葭子[著]
神戸新聞総合出版センター
総ページ数 237P
著者の間壁忠彦氏は倉敷考古館の館長、間壁葭子氏は神戸女子大学史学科教授、倉敷考古館の学芸員。両氏は20年にわたり古墳時代に用いられた石棺の石材産地を追い続けてこられた。この石棺石材の研究が、石宝殿の謎を解く間壁説の重要な鍵となっている。
目次は以下の通り。
序章 忘れられた石宝殿
1章 巨石遺構を御神体にした生石(おおしこ)神社
2章 石宝殿の履歴書を探る
3章 播磨はまさに石棺の国だった
3章 古墳時代の石棺とは
5章 竜山石にかかわった謎の人物を追う
6章 石宝殿の謎を解く鍵はどこに
7章 石宝殿にからまる疑問を解く
8章 真実への提言
◎◎◎ 書籍内容の要約 ◎◎◎
石宝殿の文献による初出は『播磨国風土記』である。
「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか)、高さもかくの如し。名号を大石といふ。伝へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。」
著者は、この物部守屋の伝承を疑問視する。
「聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」の時代とは、聖徳太子が摂政となった592年からをさすのが一般的だが、この年には守屋はすでに亡くなっており5年の歳月が過ぎている。この程度は時代錯誤にあたらないともいえそうだが、なんとも微妙なところである。
さらに、著者長年の研究から、守屋の活躍していた時代は、播磨の竜山石による石造品が、畿内から全面的に姿を消す時代であり、当時は圧倒的に二上山の石材が使用されていた。畿内で竜山石が普及するのは、守屋の時代ではなく、むしろ飛鳥時代以後である。
守屋を倒し「聖徳の王の御世」の時代に最高権力の座についたのは蘇我馬子である。著者は、蘇我氏こそ、ニュータイプの巨大な石造品や古墳石室の構築物が誕生するにふさわしい氏族だと推論する。
◎◎◎ では、何のために造られたのか ◎◎◎
間壁説も、松本清張の拝火壇説と同様に益田岩船に注目している(清張の拝火壇説も間壁氏の石棺石材の研究が資料として使われている)。石宝殿と形状、大きさが似ているだけでなく、石宝殿の側面にある広い溝の幅と益田岩船上部の溝幅が、ともに160cmと一致している。
大きく異なる点は、益田岩船には上部に2つの方形の穴があることだが、石宝殿の場合も、現在は上部に土がたまり松などの草木が繁り実態は分からないが、この草木の下に穴が存在する可能性も残されていると推測している。(今年平成20年1月13日の調査でも上部に水のたまりの可能性は指摘されたが、詳細はまだ不明)
著者の仮説は、石宝殿と益田岩船をともに90度引き起こした「家形」が、本来の姿であるとしている。この形状は明日香村越にある牽牛子塚(けんごしづか)古墳にも共通しているという。牽牛子塚には、高さ約3m、幅4.5m、奥行き約3mの巨大な二上山産の凝灰岩塊を側面から刳り抜いてつくった石室が存在する。この石室は入口が一つで、奥は間仕切りをもって二つの石槨に区切られている。
益田岩船、牽牛子塚、さらにもっとも精美な石室といわれる明日香村越の岩屋山古墳、平群谷の西宮古墳の羨道(せんどう)部先端の「ひさし状」の加工。その他多くの古墳石室から類推した著者の仮説とは、
「――両者(石宝殿と益田岩船)が当時新しく行われだした横口式石槨に加えて、同時に(蘇我)氏族の供養堂的なもの、または宗廊的なものとしての性格を持ちながら、なおかつ墓には巨大な石を用い、棺形とか石室内部を家形にする思想も忘れ去っていない中に生まれ出た特殊な形態の墓なのではなかろうか。全く先駆的な思想として、墳墓と堂塔をミックスしたものを生み出したのだと思う。」
であり。「石宝殿の運ばれる先は大和内か、あるいは、南河内郡の太子町あたりでなければならないと考えている。」
石宝殿、益田岩船ともに、未完成のまま放置されたとするのは諸説一致しているようだ。これを造らせたのは物部氏、あるいは蘇我氏、はたまた斉明天皇か――。
本書の内容はこれから石宝殿を知るために十分に魅力的な仮説であり、図書館で借りても読んでいただきたい。
前にも述べたと思うが、地元の生石(おおしこ)村の言い伝えでは、聖徳太子の姉が、この石の宝殿の造営工事の監督をしていたとのこと。