むりせず、あきらめず

やぼな男のひとり言

石の宝殿(ほうでん)の書籍があるのを知っていますか?

2010年05月31日 23時08分49秒 | 日記
『石宝殿 ― 古代史の謎を解く』
~ 石の宝殿(ほうでん)の関する書籍があるのを知っていますか?~

間壁忠彦・間壁葭子[著]
神戸新聞総合出版センター
                              総ページ数 237P

 著者の間壁忠彦氏は倉敷考古館の館長、間壁葭子氏は神戸女子大学史学科教授、倉敷考古館の学芸員。両氏は20年にわたり古墳時代に用いられた石棺の石材産地を追い続けてこられた。この石棺石材の研究が、石宝殿の謎を解く間壁説の重要な鍵となっている。

 目次は以下の通り。
 序章 忘れられた石宝殿
1章 巨石遺構を御神体にした生石(おおしこ)神社
2章 石宝殿の履歴書を探る
3章 播磨はまさに石棺の国だった
3章 古墳時代の石棺とは
5章 竜山石にかかわった謎の人物を追う
6章 石宝殿の謎を解く鍵はどこに
7章 石宝殿にからまる疑問を解く
8章 真実への提言

◎◎◎ 書籍内容の要約 ◎◎◎ 
 石宝殿の文献による初出は『播磨国風土記』である。
 「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか)、高さもかくの如し。名号を大石といふ。伝へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。」
 著者は、この物部守屋の伝承を疑問視する。
 「聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」の時代とは、聖徳太子が摂政となった592年からをさすのが一般的だが、この年には守屋はすでに亡くなっており5年の歳月が過ぎている。この程度は時代錯誤にあたらないともいえそうだが、なんとも微妙なところである。
 さらに、著者長年の研究から、守屋の活躍していた時代は、播磨の竜山石による石造品が、畿内から全面的に姿を消す時代であり、当時は圧倒的に二上山の石材が使用されていた。畿内で竜山石が普及するのは、守屋の時代ではなく、むしろ飛鳥時代以後である。
 守屋を倒し「聖徳の王の御世」の時代に最高権力の座についたのは蘇我馬子である。著者は、蘇我氏こそ、ニュータイプの巨大な石造品や古墳石室の構築物が誕生するにふさわしい氏族だと推論する。


◎◎◎ では、何のために造られたのか ◎◎◎
  間壁説も、松本清張の拝火壇説と同様に益田岩船に注目している(清張の拝火壇説も間壁氏の石棺石材の研究が資料として使われている)。石宝殿と形状、大きさが似ているだけでなく、石宝殿の側面にある広い溝の幅と益田岩船上部の溝幅が、ともに160cmと一致している。
 大きく異なる点は、益田岩船には上部に2つの方形の穴があることだが、石宝殿の場合も、現在は上部に土がたまり松などの草木が繁り実態は分からないが、この草木の下に穴が存在する可能性も残されていると推測している。(今年平成20年1月13日の調査でも上部に水のたまりの可能性は指摘されたが、詳細はまだ不明)

 著者の仮説は、石宝殿と益田岩船をともに90度引き起こした「家形」が、本来の姿であるとしている。この形状は明日香村越にある牽牛子塚(けんごしづか)古墳にも共通しているという。牽牛子塚には、高さ約3m、幅4.5m、奥行き約3mの巨大な二上山産の凝灰岩塊を側面から刳り抜いてつくった石室が存在する。この石室は入口が一つで、奥は間仕切りをもって二つの石槨に区切られている。
             
 益田岩船、牽牛子塚、さらにもっとも精美な石室といわれる明日香村越の岩屋山古墳、平群谷の西宮古墳の羨道(せんどう)部先端の「ひさし状」の加工。その他多くの古墳石室から類推した著者の仮説とは、
 「――両者(石宝殿と益田岩船)が当時新しく行われだした横口式石槨に加えて、同時に(蘇我)氏族の供養堂的なもの、または宗廊的なものとしての性格を持ちながら、なおかつ墓には巨大な石を用い、棺形とか石室内部を家形にする思想も忘れ去っていない中に生まれ出た特殊な形態の墓なのではなかろうか。全く先駆的な思想として、墳墓と堂塔をミックスしたものを生み出したのだと思う。」
 であり。「石宝殿の運ばれる先は大和内か、あるいは、南河内郡の太子町あたりでなければならないと考えている。」
 
石宝殿、益田岩船ともに、未完成のまま放置されたとするのは諸説一致しているようだ。これを造らせたのは物部氏、あるいは蘇我氏、はたまた斉明天皇か――。
 本書の内容はこれから石宝殿を知るために十分に魅力的な仮説であり、図書館で借りても読んでいただきたい。

前にも述べたと思うが、地元の生石(おおしこ)村の言い伝えでは、聖徳太子の姉が、この石の宝殿の造営工事の監督をしていたとのこと。


山のすばらしさは写真では伝わらない「前に一歩一歩」

2010年05月31日 05時56分38秒 | 日記
一の森山頂の写真のバックは、右手に剣山、左手にジロウギュウ。

山のすばらしさは、当然山そのもののすがたもありますが。その場でしか感じられない、天候の変化であったり、太陽の光の変化であったり、草木の変化(芽吹き、花、新緑、紅葉)もそうです。

元マラソンの君原選手(メキシコ?オリンピックの銀メダル)は、次の電柱までなんとか走ろう。過ぎると次の電柱を目指して走っていました。(電柱のない国は、当然違う、目の前に見える物を目標にしていたのでしょう)
山行きは疲れてくると、前に一歩一歩が目標になります。

前に今回の準備の購入品でタイツ?(正式名は違いますが)
山行き前に痛かったひざが、山行きの途中、また帰ってきてからも痛みません。値段が高いだけの効果は、あったようです。Tシャツも速乾性が良く、すぐ乾き快適でした。山の上では、上着はこれ一枚でも快適でした。

剣山に行って来たぞ

2010年05月31日 00時55分13秒 | 日記
30日、四国徳島の剣山に山行きして来ました。

車で往復427km、朝4時45分出発、18時50分帰宅。
8時に見ノ越(登山道入り口駐車場)に到着、昼食後、剣山頂に向けて出発。11時過ぎ山頂(1955mでした)到着。

昼食後、ジロウキュウ(1929m)に向けて出発。山頂到着後剣山に折り返して、一の森山頂(1879m)へ、ジロウキュウと右に剣山を望む。
キレンゲショウマ群生地を経由、大劔神社を経て元の見ノ越へ15時頃戻る。

加山雄三風に、「山の頂は、僕を呼んでいる。♫ 恋する頂きは僕の心を離さない。♫」

山の緑は活き活きと芽吹き、すばらしい。
気持のよい、天候にも恵まれて、充分に自然を堪能できました。
30日は時々

趣味の陶芸(陶板の店表札看板)作成中、本日も多忙でもリフレッシュ

2010年05月29日 23時08分52秒 | 日記
今日の朝はサーバーに繋がらなかったですね。(そんな朝早くから見ませんか)

今日は(昨日の夜というべきか)午前1時30分過ぎに就寝。起きたのは4時30分過ぎ、PCがブログのサイトに繋がらず作成を断念。

本日は、加古川北高校(長女が卒業し、3年の時に高校野球で甲子園に出場した学校です。女子の制服の人気も全国レベルって知ってましたか?。長女も可愛かったが、実は制服も可愛いんです)の公開講座の一つ(正式には土曜セミナー)である陶芸教室に元保護者ということで、1年前から参加しています。

小生の家の表札を昨年作りました。小生としては失敗作なのですが、非常に良いと隣の欧風料理(何が欧風料理なのかは知りませんがようするに洋食屋さんです。息子の誕生日会[家族だけですが]を必ずします)のお店の奥さんが、いいとほめてくれるものですから、ついつい調子にのって、お店の表札を陶板で作りましょうということに約束してしまいました。
添付の写真は、作成途中のまだ土の段階ですが、前と今回の2回のセミナーの約3時間かけた所です。

この後さらに、次回6月5日に仕上げて、その後乾燥、素焼きし、釉薬をつけて本焼きして見ないとどうなるかわかりません。これが陶芸の面白さです。

いつのことになるかわかりませんが、宝殿焼きという竜山石で[石の宝殿、今も覚えてくれていますか?。]この石の宝殿の近くで採石される、青い色の竜山石があります。[他に石棺にされた黄色い石に赤い石があります]この青い石だろうと思うのですが、釉薬に石の粉を入れて作ったのが、宝殿焼きです。是非復刻?復元?したいと想っています。

少し前になりますが、偶然にも、この幻の宝殿焼 龍山と書いた小箱に入った、こうだいの真ん中に龍山と書いてある猪口を骨董市で出会い、当然のことながら、買ってしまいました。

他、生徒は加古川北の先生のOBの男性の方と他はすべて女性、加古川北の女子高生が可愛いとういことは、その保護者も遺伝的には当然ということになりますが、小生はひたすら陶芸に没頭していから、やましい心はありません。と書くのが気にしているということ?。

11時までいて、心残して、お先に失礼し、11時30分頃に帰宅。父親の昼のご飯を作りに家内不在の故に帰宅。(朝食も私が対応。休日は朝昼晩すべて私が担当です)

12時30分過ぎに垂水病院(精神病患者を専門にしている、確か300人?位入院患者がいる)に向けて出発。13時30分頃に到着、診察と薬をもらいにいきました。
病院長が当方勤め先の診療所の精神疾患の専門医でもあることから、職場復帰後は4週間に一度通院しています。

垂水病院という名前ですが、三木と神戸の境にあり、そこの近くの三木市側に、家内の弟夫婦と子供2人と両親が、住んでおり。病院を15時前に出て、今回は遅くなりましたが昼食を頂き(昼食の器は、わたしが陶芸教室で作ったもの、味わいがあって良いとのことで、いつも使ってくれています)畑で採れた野菜を多く頂いて帰ります。(今回はしんじゃがにこかぶ等々に、他サボテンの花咲く直前の植木鉢、なぜかさわらのお刺身を頂きました。

16時過ぎに、甥の中学2年生が、通学している(家のすぐ近所)学校で練習試合をしているとのことで、当方長男の野球試合観戦などもおもいだしながら、約1時間校庭のグランド横で日光浴も兼ねて、17時まで観戦。

移動の行き帰りの時間を利用して、長男のCD8枚、TUTAYAで朝借りた8枚をクルマのHDDに録音し、帰ってきてからPCにも取り込み、本日も午後12時までに返すので1枚当たり100円です。(昨日は、今日か?CDの枚数が12枚とおもって作業していたら、13枚あり、TUTAYAの前で最後の1枚を録音し、先に12枚を返却、0時3分に返却完了、追徴金なしで済みました。

父の夕食を用意して、私の部屋でブログを午後9時過ぎ(正確には9時22分31秒PCに表示されている)から書いています。
明日は、片道、約200㎞強のドライブと、剣山(高さ1965mでした)に登ってきます。
一緒に行くk氏と垂水病院の主治医(病院長)とは、すでにその話を金曜日に会社の診療所(健康センター)でしていたので、行くなり山の話で盛り上がり、ほんと私の友人達との人間関係はうらやましいほど良いなというようなことで、診察時間のほとんどは世間話で、抗鬱の薬を減らして頂くことになりました。

明日は4時おきですし、これからTUTAYAにCDの返却に参り、お風呂に入りますのでこの辺で終えます。

ブログで他人のものを、K氏のもの以外をほとんど読んだことがないので、こんないい加減にどんどん記載するだけで投稿し、これをまた時間をさいて読んでくれる人がいるなんて、せめて少しは人のため?(当方のストレス解消にはなっているかな)になるようなことも、たまには記載して行きたいと思います。

母の月命日、「特許のアイデアメモ3件提出」

2010年05月28日 22時59分16秒 | 日記
今日は、母の月命日の28日、17時過ぎに住職が来てくれました。
先日、住職の弟が他界したばかりで、思い出すとさみしくなると、通夜式出席のお礼の言葉も頂きました。
父親への挨拶や、健康や寿命のことや世間話もし、18時過ぎに住職は帰られました。

本日は月命日でもあり、15時30分過ぎには退社しました。(朝は7時から働いていますから、フレックスで7.5時間の労働で)
連日、約150けんから200件のメールを処理(捨てるものあれば、熟読するものもあり、決済案件最優先)グループにきた回覧の内容確認と必要閲覧者名の記入などなどをこなしながら、並行して特許のアイデアメモの作成と添付資料作り、15時完成を目標に丁度作成完了、関係者のサインを頂いて、管理グループに提出しました。

今日は焦って朝のブログを作成したので、写真の添付をミスリました。
本日のお経が終わって、住職が帰ってから母のお骨のある仏壇と隣の床の間の慈母観音の掛け軸を写真に収めました。(慈母観音の掛け軸は、姪が子どもを無事出産できるようにとの亡くなった母と姉(姪の母当たり前ですが)の願いも込めて、私が骨董市で探してきて購入したものです。わりとスマートな観音様で気にいっています。

このブログを書きながら、合間を縫って、20時すぎから20枚のCD(落語あり、歌あり、[友達の作詞作曲したものもあり]、お笑いあり)をPCとプリウスのカーナビのHDDに録音しています。

山行きのドライブ往復約7時間の楽しみにでもと、家のなかにあったCD8枚と懐かしい曲やらをTUTAYAで12枚借りてきて24時までに返却、1枚当たり100円でレンタルの日に合わせての対応です。

いつも何かやりだすと完全にそのことに時間も忘れて没頭・集中するか。または徹底した並行作業(他人に協力してもらうことも含めて)で、時間内の予定時刻にうまく、終えるスリルを味わうか、どちらも楽しいですが、仕事の進め方も、いつもこのような感じです。

このブログ完成予定は、23時です。もう10分少しです。
CDの録音の方がもう少し掛りますので、23時40分過ぎに完了が目標です。
では23時になりましたので、本日のブログはこの辺で、お開きにして。おやすみなさい。